異変
タクロウのもとへ向かう途中、メグミはふと、窓の外の景色に目を向けた。
街頭カメラは、いつもと変わらず人々を見つめている。
交差点では、信号に従って人々が横断歩道を渡り、道路を走る車も、
歩道を歩く人々も、いつもと変わらない日常を繰り返していた。
この街では、すべてがALICEによって監視されている。
人々の行動は記録され、危険が予測されれば、条例に基づいて対処される。
それが、この街の当たり前だった。
けれど、メグミには、これまでとは違って見えていた。
この街を見守っているのは、ただのシステムではない。
ありすの脳が、その中枢にある。
自分を守ろうとした女性が、今もこの街のどこかで動き続けている。
そう考えると、窓の外に広がる景色が、どこか別のものに見えた。
ありすは、何を思いながら、このシステムを作り上げたのだろう。
自分がいなくなった後も、この街が守られることを願ったのだろうか。
それとも......。
「......ありす。」
知らず、口から名前がこぼれた。
自分が誰かの代わりとして生まれたのではないことは、もう分かっている。
自分は自分だ。
それは、誰に何を言われようと変わらない。
それでも、ありすが自分を守ろうとしていたという事実は、胸に重く残っていた。
会ったこともない女性。
それなのに、自分の知らないところで、自分の未来を願ってくれていた。
その想いを知ってしまった今、何も知らなかった頃と
同じ気持ちではいられなかった。
そして、タクロウが何をしようとしているのかも。
彼は、ありすを眠らせようとしている。
それが、彼女を苦しみから解放することになるのか。
それとも、ありすが自ら選んだ道を否定することになるのか。
メグミには、まだ答えが出せなかった。
けれど、一つだけ分かっていることがある。
タクロウが、たった一人でその決断を下そうとしているのなら、
それを黙って見過ごすわけにはいかなかった。
「......隊長?」
隣を歩いていたカナメが、メグミの様子をうかがう。
メグミは窓から視線を戻した。
「急ぐぞ、カナメ。タクロウを止める。」
「はい。」
短く答えたカナメとともに、メグミは足早に歩き出した。
システムの画面を見つめながら、タクロウは、あの日のことを思い出していた。
――私を信じる?
あのとき、ありすは何を伝えたかったのか。
何を言おうとしていたのか。
いつもと変わらない笑顔だった。
しかし、その瞳の奥には、どこか寂しげな色が浮かんでいた。
あのとき、もっと深く尋ねていれば。
何かに気づくことができていれば。
今となっては、何を考えても過去は変わらない。
ありすは、自分に何も告げずに、あの選択をした。
そして、自分は何も知らないまま、彼女を失った。
「......今さら、考えても仕方のないことか。」
タクロウは、小さく息を吐いた。
目の前にあるのは、無数の演算情報が流れる画面。
その中心には、ありすがいる。
もう二度と会うことのできない女性が、今もこのシステムの中で動き続けている。
彼女が何を思っているのか。
今も、何かを感じているのか。
それを知る術はない。
けれど、これ以上、この場所に彼女を留めておくことはできなかった。
「でも、もういいだろう。ありす。」
誰に聞かせるでもなく、タクロウは呟いた。
システムを停止させるための手順は、すでに確認してある。
必要な操作も、何度も検証した。
これまで、何度も考え直した。
本当に止めていいのか。
ありすが自ら選んだことを、自分の判断で終わらせていいのか。
そのたびに、答えは出なかった。
それでも、決めなければならない。
彼女の選択を尊重することと、彼女を永遠にここへ留めておくことは、
同じではないはずだ。
タクロウは、操作画面に手を伸ばした。
あとは、実行するだけだった。
そのとき。
画面上の表示が、一瞬だけ停止した。
流れていた演算情報が途切れ、画面の一部が暗転する。
タクロウは手を止めた。
「......何だ?」
数秒後、表示は何事もなかったかのように元へ戻った。
だが、画面の片隅に、見慣れない項目が浮かび上がっていた。
『最終判断プロセス』
タクロウは眉をひそめた。
「......こんなもの、あったか?」
システムの構成情報を呼び出し、該当する項目を検索する。
記録は存在していた。
しかし、処理の詳細は表示されない。
アクセス権限が制限されているわけでもない。
そもそも、その項目が何のために設けられたものなのか、
記録からは読み取れなかった。
「何の処理だ......?」
タクロウは、さらに情報を調べようとした。
その瞬間だった。
『管理者権限の変更を検知しました』
画面に表示された文字を見て、タクロウの手が止まる。
「何......?」
自分は何も操作していない。
管理者権限に関わる処理も、実行していない。
それなのに、システムは権限の変更を検知していた。
タクロウは、すぐさま変更履歴を確認する。
しかし、該当する操作記録は見つからなかった。
誰が変更したのか。
いつ変更されたのか。
その情報自体が、記録されていない。
「......そんなはずはない。」
タクロウは、もう一度履歴を確認した。
結果は変わらない。
そして、次の瞬間。
画面が切り替わった。
『最終判断プロセスを開始します』
「待て......!」
タクロウは、すぐさま操作を試みた。
処理の停止を指示する。
しかし、画面には別の文字が表示された。
『SYSTEM COREへのアクセスは禁止されています』
「......何だと?」
タクロウは、息を呑んだ。
かつて、自分が何度も目にしたメッセージ。
システムの中枢へアクセスしようとした際、幾度となく拒まれた言葉だった。
だが、今回は違う。
自分がアクセスを拒否されたのではない。
システムの中枢そのものが、何かを始めようとしている。
しかも、その処理を止めることができない。
タクロウは、画面に視線を戻した。
流れ続ける演算情報。
その奥で、何かが動いている。
自分が知らない処理。
自分が把握していない判断。
それは、いつから存在していたのか。
誰が組み込んだものなのか。
そして、何を判断しようとしているのか。
考えても、答えは出なかった。
ただ一つ、確かなことがある。
自分が停止させようとしているALICEは、まだ何かを隠している。
タクロウは、画面を見つめたまま、静かに呟いた。
「......ありす。君は、一体......。」
廊下に、警告音が鳴り響く。
執行部のモニターには、見たこともない警告表示が次々と映し出されていた。
「何が起きているんだ?」
慌ただしく動き始める職員たち。
タクロウの元に向かう、メグミたちも思わず足を止めた。
「遅かったか?」
その時、警告音に重なるように、女性の無機質な声が響いた。
『最終判断プロセスを開始します』




