杉野ありす
「......なぜ、今になって。」
誰もいない部屋に、市長の声だけが響く。
引き出しから、一枚の古い写真を取り出す。
そこには若き日の杉野ありすが写っていた。
そして、その隣に立つ一人の青年。
佐野拓樹。
二人は、写真の中で穏やかな笑みを浮かべていた。
全てが変わってしまう前のことだった。
*数年前*
「......まだやるのか?」
部屋の時計を見る。
すでに日付は変わっていた。
薄暗い開発室の中央で、一人の女性が端末へ向かっている。
「もう少し。」
「さっきから、そればっかりだ。」
背後から声をかけると、ありすは振り返りもせずに答えた。
「もう少しで、ここが終わるの。」
「その『もう少し』を三時間聞いてるんだけど。」
「そんなに?」
「そんなに。」
ようやく、ありすが手を止めた。
そして、椅子ごと振り返る。
「じゃあ、拓樹は先に帰れば?」
「一人で帰る気か?」
「大人だから大丈夫。」
「そういう問題じゃない。」
「じゃあ、どういう問題?」
ありすが小さく笑う。
その顔を見て、拓樹はため息を吐いた。
「......お前が無理をするからだ。」
「してない。」
「してる。」
即答だった。
ありすは少しだけ頬を膨らませる。
「最近、ちょっと厳しくない?」
「最近のお前が無茶しすぎなんだよ。」
「無茶なんてしてないわよ。」
「昨日も研究室で寝てただろ。」
「少し休憩してただけ。」
「床で?」
「......。」
拓樹は呆れたように頭を掻いた。
ありすは視線を逸らす。
「......細かい。」
「細かくもなる。」
そう言いながら、拓樹はありすの隣へ歩いていった。
端末の画面を覗き込む。
そこには、無数の文字列が並んでいた。
「進んでるのか?」
「うん。」
ありすの表情が、少しだけ真剣になる。
「でも、まだ足りない。」
「何が?」
「予測精度。」
画面を操作する。
いくつもの数字が表示された。
「今のシステムは、起きた出来事を記録することしかできない。」
「それじゃ駄目なのか?」
「駄目。」
ありすは首を横に振る。
「何かが起きてからじゃ遅いの。」
拓樹は黙って、画面を見る。
ありすは続けた。
「事故も、事件も。」
「起きる前に分かれば、防げる。」
「そう。」
ありすは笑った。
「この街で起きる全てを記録して、分析する。」
「人の動き。」
「車の動き。」
「時間。」
「天気。」
「......それを全部使って、これから何が起きるのかを予測する。」
拓樹は腕を組んだ。
「簡単に言うなよ。」
「難しいから面白いんじゃない。」
「お前は昔からそうだよな。」
「何が?」
「無理そうなことほど、楽しそうにする。」
ありすは少し考える。
「......そうかも。」
「否定しないのか。」
「だって。」
ありすは再び端末の画面へ視線を向けた。
「これが完成すれば、理不尽に苦しむことがなくなる。」
その横顔を、拓樹は静かに見つめていた。
「だから、やるの。」
その言葉に、拓樹は小さく笑った。
「......分かったよ。」
「何が?」
「もう少し付き合う。」
ありすが顔を上げる。
「本当に?」
「ただし、二時間だけ。」
「えー。」
「えー、じゃない。」
「じゃあ、一時間延長。」
「何でそうなる。」
「お願い。」
ありすが両手を合わせる。
「......。」
「拓樹?」
「......三十分。」
「一時間。」
「四十分。」
「五十分。」
「......五十分。」
「やった。」
ありすが嬉しそうに笑う。
その姿を見て、頭を掻きながら、拓樹は再びため息を吐いた。
「俺、甘いな。」
「知ってる。」
「そして、その癖。」
「癖?」
「困ったとき、必ず頭掻く。」
「そうか?」
「でも、かならず言ったことは守ってくれる。」
「お前にだけな。」
その言葉に、ほんの一瞬、ありすの手が止まった。
「......何?」
「別に。」
ありすは笑っていた。
しかし、その笑顔を見ながら。
拓樹は気付かなかった。
ありすの顔が、ほんの少しだけ青ざめていたことに。
「じゃあ、今日はここまで。」
「え?」
「え、じゃない。」
拓樹は時計を指差した。
「約束の時間、過ぎてる。」
「まだ十分くらい。」
「十分も過ぎてる。」
「細かい。」
「さっきも聞いた。」
ありすは不満そうに端末を見つめる。
しかし、やがて小さく息を吐いた。
「......分かった。」
「素直でよろしい。」
「子供扱いしないで。」
「じゃあ、帰るぞ。」
拓樹が先に部屋を出ようとする。
その背中を、ありすが見つめていた。
「拓樹。」
「ん?」
「......何でもない。」
「何だよ。」
「帰りましょう。」
「最初からそう言え。」
二人は開発室を後にした。
その夜。
一人になったありすは、自宅の机に座っていた。
部屋には、開発用の資料がいくつも置かれている。
その中から、一枚の封筒を取り出した。
ありすは、しばらくそれを見つめていたが、ゆっくりと中身を取り出した。
病院の診断書。
そこには、自分の名前が記されていた。
『杉野ありす』
そして――。
ありすは、その先を見ようとして、手が止まった。
「……。」
しばらくして、診断書を静かに伏せた。
「まだ……。」
顔を上げる。
目の前には、開発途中のシステム。
ありすは、端末の電源を入れた。
画面に、開発中のシステム名が表示される。
危険視予測演算処理システム。
ありすは、その文字を見つめていた。
「まだ、終われない。」
静かな部屋で、小さく呟く。
そして。
キーボードに手を置いた。
「……間に合わせなきゃ。」
ありすは、静かに端末の画面を閉じた。
椅子の背に寄りかかり、机の上の写真に目を向ける。
そこには、自分と拓樹がカメラに向かって微笑んでいた。
「......幸せになってね。」
そう呟くと、そっと自分のお腹に手を当てる。
そして、静かに目を閉じた。




