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条例都市  作者: こころ
33/45

始まり

男には、かつて一人娘がいた。

生まれつき身体が弱く、母親は娘を産んで間もなくこの世を去った。

男は亡き妻の分まで愛情を注ぎ、娘だけを生きる支えとして育ててきた。

娘もまた父を慕い、ささやかな幸せの中で日々を過ごしていた。

――その日までは。


休日の昼下がり。

いつものように娘と散歩を終え、帰路についていた男の前から、

一人の男が歩き煙草をしながら近づいてきた。

すれ違った、その一瞬だった。

男が何気なく振った煙草の火が、幼い娘の顔へ飛んだ。

響き渡る悲鳴。

男は慌てて駆け寄ったが、すでに遅かった。

娘は両目に重い火傷を負い、そのまま視力を失った。


歩き煙草をしていた男には多額の賠償命令が下された。

しかし、どれだけ金を積まれても、娘の瞳に光が戻ることはなかった。

そのとき男は初めて知る。

法律は人を裁くことはできても、失われたものを取り戻すことはできないのだと。

それでも男は娘を支え続けた。

白杖を手に懸命に歩く娘の姿を見るたび、

自分も前を向かなければならないと言い聞かせた。


だが、運命はあまりにも残酷だった。

ある日、一台の乗用車が歩道へ突っ込んだ。

運転手は走行中に煙草を吸っていた。

落とした火種を拾おうとして視線を逸らし、ハンドル操作を誤ったのだ。

その車は、視覚を失った娘をはねた。

男が病院へ駆けつけたとき、娘はもう二度と目を開けることはなかった。


最愛の妻を失い、娘まで奪われた。

男の心は、その日、静かに壊れた。

「煙草さえなければ……。」

その言葉だけが、何度も頭の中で繰り返される。

歩き煙草が娘の視力を奪った。

運転中の喫煙が娘の命を奪った。

すべての始まりは煙草だった。

ならば、無くしてしまえばいい。

煙草を。


法律で止められないのなら、自分が止める。

男は市長選挙への立候補を決意した。

目的はただ一つ。

二度と、自分と同じ悲しみを味わう者を生まない街をつくること。

市長となった男は、真っ先に喫煙に関する条例を制定した。

街中での喫煙を厳しく制限し、違反者には罰則を設ける。

しかし現実は理想どおりにはいかなかった。

条例を守る者もいれば、平然と破る者もいる。

注意されても笑い飛ばす者もいた。

警察は条例違反だけでは動けず、国も介入しない。

このままでは条例は紙切れ同然だった。


男は考えた。

そして、一つの答えにたどり着く。

「守らせる者がいないのなら、作ればいい。」

男は、自らの思想に賛同し、

理不尽な事故や事件で大切な人を失った者たちを集め始めた。

悲しみを知る者だけが、この条例の本当の意味を理解できる。

やがて、その組織は『執行部』と呼ばれるようになる。

しかし、人の目だけでは限界があった。

違反は、起きてから取り締まるのでは遅い。

違反する前に察知し、未然に防がなければならない。

人間の思考や行動を解析し、条例違反へ至る可能性を予測する監視システム。

その前例のない構想を実現するため、男は一人の天才プログラマーと出会う。


『杉野ありす』


若くして人工知能研究の第一人者と称された女性だった。

彼女もまた、法律では裁ききれない理不尽な事件によって両親を失い、

この世にたった一人残された過去を持っていた。

男が理想を語ると、ありすは静かにうなずいた。

「人は感情で判断を誤ります。」

「だから事故も犯罪もなくならない。」

「なら、人に代わって、公平に判断できる存在が必要です。」


男は尋ねた。

「AIで、本当に人間を超えられるのか。」

ありすは静かに首を振った。

「今の技術では限界があります。」

「どれだけ学習を重ねても、

人間の思考や直感を完全に再現することはできません。」

沈黙が流れる。

やがて、ありすは静かに口を開いた。

「……ですが、一つだけ方法があります。」

「人間の脳、そのものを演算中枢として利用する方法です。」

男は息をのむ。

「そんなことが、本当に可能なのか……。」

「理論上は可能です。」

「生体神経をシステムへ直接接続できれば、人間の思考能力を維持したまま、

膨大な演算処理を行えます。」

「ですが、誰も実現しようとはしません。」

「倫理に反するからです。」

男は窓の外を見つめた。

平和そうに歩く親子の姿が目に映る。

「娘を守れなかった倫理など……私には何の価値もない。」

男の言葉にありすは静かにうなずいた。

「なら、私が作ります。」

その日から、『危険視予測演算処理システム』の開発が始まった。

まだ誰も知らない。

この街を支える"頭脳"が、やがて本当の意味で"人間の脳"になることを。

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