あの日のまま
「10卓、料理上がったよ!」
「はい! 今持っていきます!」
キッチンから運ばれてきた料理を手に、
一人の女性が客席へ向かう。
「お待たせしました。」
料理を並べ、軽く一礼する。
「ごゆっくりどうぞ。」
空いた皿を下げ、テーブルを整える。
店内を忙しく動き回るその姿は、
もうすっかり仕事に慣れた店員そのものだった。
あの日、駅の改札で起きた出来事。
思い返そうとしても、記憶は霞がかかったように曖昧だった。
誰かに声を掛けられた気がする。
それだけは覚えている。
けれど、その相手がどんな顔をしていたのか、
その後何があったのかは何一つ思い出せない。
「夢だったのかな......。」
そう呟いた瞬間、不意に涙が一筋こぼれた。
「......なんで?」
悲しいわけでもない。
それなのに、涙だけが止まらない。
家へ戻ったあの日。
彼女は携帯電話に登録されていた連絡先を、すべて消していた。
理由は分からない。
ただ、過去を残しておく必要はない。
そんな気持ちだけが心に残っていた。
ふと、携帯電話の画面に目が留まる。
表示されている日付は、〇月〇日。
あの日、出かけた、その日付だった。
「……あれ?」
思わず首をかしげる。
何かがおかしい。
そう思ったはずなのに、その違和感はすぐに霧のように消えていった。
男は家の前に立っていた。
長い間、家族とも仕事とも離れていた。
何と説明すればいいのか分からない。
意を決し、玄関の扉を開ける。
「あら、お帰りなさい。今日は早いのね。」
妻の何気ない一言に、男は返事ができなかった。
「どうしたの? 何かあった?」
「い、いや......何でもない。」
「ただいま。」
それだけ言って家へ上がる。
見慣れた景色。
いつもと変わらない部屋。
「具合でも悪い?」
心配そうに覗き込む妻を見ながら、男はぽつりと尋ねた。
「今日って......何月何日だ?」
「ぼけちゃったの? 〇月〇日よ。」
その言葉に、男は息をのむ。
ゆっくりと壁に掛かったカレンダーへ目を向けた。
そこに記された日付は――
自分が連行された、あの日のままだった。
男の感覚では、何年もの時間が過ぎていた。
だが現実では、時間はほとんど流れていなかった。
家族にとっては、いつものように出掛け、
いつものように帰ってきただけの一日。
男だけが、その違和感を抱えたまま日常へ戻る。
「……今までの出来事は、夢だったのか。」




