06. それが、私の星
放課後、誰もいない教室。蛍光灯は点いていない。すでに傾いた夕陽が差し込むだけの薄暗い空間。日向は頬杖をついたまま、机の上で揺れる自分の影をじっと見つめていた。窓の外からはグラウンドの掛け声と、時折吹く冷たい風の音だけが届く。
手元には、書きかけの退部届。署名欄に自分の名前を書くだけで、それは完成する。
「……逃げちゃ、ダメだよね」
香月に謝らなければ。食堂であんな言い方をするつもりではなかった。弱い自分と彼女をほんの少しだけ重ねてしまって。しかし――、
「香月は、違うよ」
――「ひなはすごいね」。「えらいね」。「ママも嬉しいよ」。
今でも鮮明に思い出す母の言葉。未練がましいこんな自分とは似ても似つかない。香月はいつだって迷わなかった。ただ一直線に泳ぎ、その言葉にも、態度にも淀みはなく、ただひとえに〝星〟を超えることだけに青春を賭けていた。本気で夢を追っていたのだ。
――こんな私とは違う。
日向もそうだったはずだ。そうだと思っていた。
私が泳ぐ理由は、いつしか変わっていた。あるいは最初からそうだったのかもしれない。水泳が好きだったはずなのに、気がつけば息が苦しくて、視界が狭くて、ただ沈んでいくような。それでも泳ぎ続けたのは、香月がいたからだった。
香月といるときだけは、水泳が楽しかった。冷たい水が温かく感じた。泳ぐたびに、その温度に救われた。隣合ったコースで競い合い、着順で一喜一憂し、互いを称え合う時間が特別だった。ただ真っ直ぐに〝星〟を目指す香月に自分を重ねて、「かっこいい水泳選手」になれたような気がした。
だからこそ、香月は日向にとっての理想だった。……いや、本当はそれさえ正しくはなかったのだが。それでも香月と一緒なら、満たされていた。
最初に二人で練習した日を、今でも覚えている。
「……手ぇ抜いたら殺すぞ」
香月は冗談とも本気ともつかない顔で言った。最初はすごく怖かったが、同時に認めてもらえたようで嬉しかった。
その後、全力で泳いで、タッチ板に指が触れたのは日向の方がわずかに早かった。息が荒くて苦しくて、それでも中学に上がってから初めて笑えた。香月が「……やるじゃねぇかよ」なんて、拗ねたように笑ったから。
その日から、ほとんど毎日一緒に練習した。朝練も、放課後も、休日も。香月は手を抜かない。勝つために努力を惜しまない人だった。だから、頑張れた。辛くて心が折れそうなとき、香月の背中が見えると、もう一度泳ごうと思えた。
タイムが伸び悩んでた時期もあった。スランプに陥って、もうもとには戻れないのではないかと不安になった。そんな夜、香月から突然メッセージが届いた。
『明日、朝六時にプール集合な。フォーム見てやる』
わざわざそんなこと言う人じゃないのに、一緒になって悩んでくれて。
そして最後に思い出すのはあの大会。大会前の控え室で、互いに勝利を誓い合った。
「絶対、あの子に勝とうね!」
「ったりめぇだ! アタシが一位で、二位がお前だ!」
「ふふーん、それはどうかな~?」
そんな軽口を叩きながらも真剣な表情で、胸の奥はどんな時より熱かった。
スタート台の上でも、不思議と緊張も恐怖も、不安だって感じなかった。ただ、今までの日々を思い起こしては〝星〟を越えられると確信して。
そしてレースがはじまる。合図と同時に全員が水の中に飛び込んだ。
見えるのは両隣で水を掻く香月と〝星〟の影。香月の力強い泳ぎから、今日は負けないという意志が伝わってくるようで、日向も一層必死に泳いだ。
最後のターンで一瞬、三人が並んだ。しかし、そこまでだった。最後の直線はずっと斜め前に背中があって。
タイムを確認した瞬間、震えが止まらなかった。〇・五秒――たったそれだけの差が、五年間のすべてを拒んだ気がして。
泣き崩れるほど悔しかった。でも香月が言ってくれた。
「こんなんじゃダメだ! 来年までに絶対に!」
――あの時、香月はそう言ってくれたのに。
「うん、絶対勝とうね」
――そう言ったのに。
次にプールサイドに立ったとき、全てが崩れていた。プールが怖くなった。水に入ると、心が締めつけられるように痛くなった。どうしても泳ぐ気になれないのだ。
どれだけ頑張っても、もうあの人に褒めてもらうことはないのではないか。
どれだけ泳いでも、あの人の夢を叶えることはできないのではないか。
――じゃあ、なんで泳ぐんだろ。
そこではじめて気がついた。
水泳が好きだというのは幻想で、本当は母の期待に応えたかっただけ。母に愛されたい、その一心だけでずっと泳いでいた。
その事実はあまりに残酷だった。今までの「努力」も「夢」も、自分に向けられたものではなかった。泳ぐことに意味や理由を求める事こそがその証だった。
それからは香月と目を合わせられなくなった。誰かの夢を自分で背負ったふりをして、自分の心をごまかす。そんな空っぽな自分に気付かれたくなかった。
本当はずっと――、香月の隣で泳いでいたかった。夢中で必死に水を蹴っていたあの時間が今でも愛おしい。
でも私にはもう、その権利はない。
だから理想はせめて、理想のまま残しておきたい。香月が真っすぐに泳ぐ姿は日向という不純物がない世界で在り続けてほしかった。だからこそ言ってしまったのだ。否定してほしくて。
――「香月が見てたのって、本当に〝あの子〟?」
否定してほしかった。訂正してほしかった。
しかし香月は取り乱して。
――それじゃまるで、私が……っ。
日向は深く息を吐いた。
ゆっくりと、ペンを取る。退部届の署名欄に自分の名前を書く。ひと筆ごとに、これでいい、これでいいと自分に言い聞かせながら。
けれどペンを置いた時、ほんの少しだけ心の奥が軽くなった。
――これでいい。
これが私にとっての「結論」なのだ。
「よし……」
日向は立ち上がった。今ここにいても何も変わらない。
全部は伝えられないかもしれない。それでもあの人には、このまま進んでほしいから。
謝りに行く。ちがう。
――これは、告白だ。
今日、ようやくスタートラインに立てた気がした。
母の星ではなく。
香月の星でもなく。
――私の星のために。




