05. 冷たい水の中で
風が冷たい。
放課後の校舎を抜け、プールへと続く小道を歩く。
足元を吹き抜ける風がコンクリートの地面を撫で、カサリと乾いた音を立てる。風に舞い散った新鮮な落ち葉がつむじを巻いていた。
きっとプールの水も冷たいだろう。と、今日はまだ入れていないプールを思い浮かべて身震いする。それでも、水泳部はいつも通り活動している。
いや――「いつも通り」ではない。
部室の前に立ち、戸に手をかける。
「来てくれたんすね」
開くと聞こえたのは湊の声。
「当たり前だろ」
「そうっすよね」
室内の空気はなんとなく外よりも冷えている気がした。普段なら何とも思わないその空気が、今日はやけに肌に馴染まない。
既に湊の他に何人か部員がいたが、皆それぞれ準備に集中している。当然その中に日向の姿はなかった。それだけでこの部室が別の場所のように感じた。まるで見慣れたはずの景色が、突然違う色に染め変えられたように。
小さく舌打ちをする。
何度も自分に言い聞かせていた。日向はもうここにはいない。日向はもう泳がない。しかしそれを反芻するたび、心の中で反響し、受け入れがたい現実の渦中にいるのだと思い知らされる。
「ほんと、急に走って出てくからびっくりしたんすよ?」
「……あー、そうか」
「でも戻ってきたってことは万事解決したんすよね!」
「……んー、そうだな」
「で、日向さんは大丈夫でしたか?」
「……まあ――あ? 日向?」
適当に答えようとして、ふと疑問がよぎる。目を向けると湊は能天気に首を傾げる。
「なんでそんな話になんだよ」
「だって香月さん、昼休みから挙動不審っすもん。じゃあ理由は一つしかないじゃないっすか」
淡々とした口調で返される。先ほどまでの態度を思い返して一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに吐き捨てるように答えた。
「確かに、動揺してたのは間違いねぇ。けどもうどうでもいい」
「どういうことっすか」
「もうアイツは来ねぇよ」
その言葉を口にすると、心臓が軋む音がした。
「え……なんで!」
「知らねぇよ。でも、アイツの口からそう聞いた」
香月は肩をすくめ、プールサイドへと歩く。
プールの水面はすっかり晴れた空を映していた。だが、残念ながら太陽は雲に隠れてしまっているらしい。
――日向がいた場所。
そんなことを意識してしまい、また舌打ち。
「アイツは諦めたんだ。逃げたんだ。捨てたんだ。アタシたちの夢を。軽々と……!」
吐き出すように発した声は少しだけ震える。
「――わたしは」
そんな香月に湊は悲しげな目を向けた。そして、言葉を探るように。
「わたしは、そうは思えないっす。だって」
静かだった。湊らしくもなく、冷静に続ける。
「だって、あんなに楽しそうに泳ぐ人だもん」
香月は思わず息を呑む。楽しそうに。そうだった。
日向の泳ぎは、まるで太陽のようだった。誰よりも美しく、誰よりも眩しくて、誰よりも――輝いていた。ほんの数日前まではここにあったのだ。しかし、寒波とともにその温かさは消え去った。
「憧れの人がやめちゃったのは悲しいけど、なにかのっぴきならない訳があるんじゃないっすか」
湊はどこか確信を含んだように言葉を継ぐ。
「香月さんが怒ってるのも、そう思ってるからなんでしょ?」
「…………」
香月は何も言えなかった。
「どーせ、裏切られただの、なんだの考えてんすよね」
「うるせぇよ」
湊は微笑みながら言う。
「きっと違いますよ」
それが眩しくて、香月は無意識に目を逸らした。
「もし、日向さんが仕方なく辞めるしかなかったのなら、わたしは想いを継ぎたい」
その時、湊は香月の肩を掴んで正面に向ける。半ば強制的に視線が湊へと誘導された。湊は真っ直ぐに香月を見つめる。
「でも、それにはもっと適任がいるっす」
香月の肩がわずかに強張った。
「ね、香月さん。わたし、これからもずっとあなたを目指してます」
バシャンという音とともにプールの水面が揺れた。他の部員たちが入水し始めた頃合いだ。
「もちろん、皆もっす」
香月は無言のまま湊の言葉を噛みしめる。
ふと、水面に映る自分が目に入った。
――アタシは、どうしたい。
「だからいつもみたいに『関係ねぇ』って、泳いでくださいね! わたし、香月さんの泳ぎ、大好きなんで」
いつもは鬱陶しいはずの湊の言葉。ただ、今は少しだけ頬を緩めた。
「……ああ」
呟き、一歩足を踏み出した。
「分かってるよ」
もしどんな理由があったとしても、日向は泳ぐべきだった。諦める理由などクソ食らえだ。プールこそが彼女が一番輝ける場所なのだから。
それに香月には彼女の想いを継ぐ気など毛頭なかった。もとより目指しているものは同じだったのだから。そう、目指しているものに変わりはない。
なんにも、変わらない。
「――うわああああああああ!」
香月はぐちゃぐちゃの思考を振り払うように叫んだ。
全部消して、何も抱えず、ただもう一度、泳ぎたい。
その足は駆け出していた。ウォーミングアップもせず、制服のまま、全部忘れて、フォームも気にせず、ただ夢中に、自然体で体を投げ出した。
香月を中心にして、水の王冠が弾けた。制服も靴も髪も体も、全部が水に抱かれて。冷え切った水がなぜか心地いい。このまま流されてしまえと、体を丸くして水中に浮かべる。しかししばらくすると息が続かず、水面に顔を出した。
「……大丈夫っすか?」
湊が少し心配そうに、プールサイドから覗き込む。
――もちろん。
「大丈夫なわけねぇだろ! さっさと始めんぞ!」
こんなことで忘れられるわけがない。でも、今は無性に。
「はは、分かったっす! それじゃ、わたしも!」
湊もそのままの格好で飛び込んだ。
「はっ、お前マジで馬鹿だな!」
「お互い様っす! 全部忘れて、一緒に!」
その後、香月がいつも通りの泳ぎができていたかどうかは分からない。
しかしいつもと違う無秩序の波はその瞬間、確かに心を紛らわしてくれた。




