04-2. 分かれ道の境界で
「あ、香月! 見て見て! 美味しそうでしょ?」
何一つとして後ろめたい気持ちなどないのだろうか。その眩いばかりの光を受けて心の影が濃くなる。
気に入らない。それを態度でさらけ出すように、顎で日向の持っている盆を指す。
「それ、食べんの」
低い声で尋ねる。思惑通り、日向に気持ちが伝わったのだろう。瞬間、氷に閉ざされたように空気が張り詰めた。
「え、水泳部の風間さんだよね」
「なんか怒ってる……?」
日向の友人らしき生徒たちが戸惑い、こそこそと囁き合う。しかし香月の目にはもう彼女たちは映っていなかった。
日向は不安そうにしながら小さく返す。
「……うん」
「はっ、そうかよ。アイツらに心配かけて、いいご身分じゃねぇか」
違う。自分の気持ちはこうではない。けれど、それ以上は分からなかった。
「日向ちゃん、水泳やめたんだよね?」
心配そうに眉尻を下げながら尋ねる友人。
「うん、やめたよ」
素直にさっぱりと返す日向。それを香月は聞き逃さなかった。一つ、息を吐く。
「……お前、それでいいのかよ」
「うん」
やはり即答だった。まるではじめから決まっていたかのように、少しの迷いも躊躇もなく。
「お前、ずっと言ってたじゃねぇか。アイツを超えるんだって。ずっとそのためにやってきたんだろ」
「そうだね」
「ならなんで――」
「もう、カッカしないでさ。ほら、皆びっくりしちゃうよ」
日向は言葉を遮るように言いながら、香月の手を取った。そして、取り巻きの友人たちに向かって申し訳なさそうに笑う。
「ごめんね、皆は先に場所取っててもらえるかな」
「え、うん……」
友人たちは気まずそうな顔をしながらも頷き、その場を離れていく。彼女たちとは真逆に手を引かれ、連れられたのは食堂の隅だった。そして到着するやいなや、日向は香月に面を向け、バツが悪そうにしながら両手を合わせる。
「ごめんね! 皆に心配かけちゃったかな。顧問には言ってたんだけど……」
「何にも伝わってねぇよ。アイツら、お前を待ってたんだぞ」
「自分の口からは今度、正式に手続きが済んでから報告しに行こうって思ってたんだ」
筋は通すつもりでいたから、ということだろうか。日向は少し申し訳なさそうにはしているが、その態度はどこか軽薄で、切実な様子は今ひとつ感じられなかった。思えば、今日の初めに会った時から、どこか吹っ切れたような態度だった。彼女にとって水泳部のことはもう済んだことなのか。
「いや、手続きが済んでねぇならまだ部員だろ。なに朝練サボってんだ」
「あー、香月も行ってなかったくせに」
「ッ、それはお前が――じゃなくて、アタシが体調悪かっただけだ」
日向が肩をすくめる。その軽率な仕草が、棘のようになって心臓に突き刺さる。茶化されるとは思わなかった。咄嗟のことで少し子供じみた言い訳をしたことを庇うように話を逸らす。
「……それよか、今日の放課後は練習に来いよな。手続きとかどうだって良いから。それに、どうせ泳いだらまた続けたくなんだろ」
「ううん、行かないよ」
「ッ、なんでそんなに頑ななんだよ」
「なんでもだよ。もう辞めちゃったんだもん。行ったって迷惑になるだけだよ」
「迷惑になんかなるかよ。アイツらはお前の泳ぎを求めてんだ」
香月は少しだけ語気を強めた。日向は微かに困ったような表情を溢す。そして、日向はそっと手を伸ばし、香月の手の甲に軽く触れた。
「大丈夫だよ、香月がいるなら」
そして何を勘違いしたのか、駄々をこねる子どもを勇気づけるように笑顔で告げる。
「私は香月が強いこと、知ってるから」
それは、かつて幾度となく聞いてきた言葉だった。けれど、今日この場ではまるで違う意味になる。日向の言葉に含まれる「もう決めたことだから」という空気が、どうしようもなく引っかかる。
――なにが、「知ってる」だ。お前にアタシの何が分かる。そんな言葉は微塵もいらない。
無意識に手を引き、振り払う。
「お前だって強ぇだろ、棚に上げてんじゃねぇよ」
目を瞬かせる日向。何も伝わっていないことだけが分かった。
このままでは、彼女の意志の壁を崩すことはできない。こうなっては、より切実に言葉を尽くす他ない。
「やっぱ、もったいねぇって」
冷静に、落ち着いてと、そう思うのに心のどこかで想いが湧き出して、じわじわと滲んでいく。
「諦めんのは――ダメだろ」
誰にだって、生きていく上で目標がある。その目標を目指して、手が届くように一つ一つ積み上げていく。その一つを作るために、何かを犠牲にしてきたはずだ。色々なものを失ってきたはずだ。
「諦めちまえば、お前の手にはなんにも残んねぇんだぞ」
目指すことをやめてしまえば、積み上げたものの価値がなくなる。
「そんな悲しいことが、あってたまるかよ……!」
泣き落としにも似た、切言。それを受けてなお、日向は何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ目を伏せた。
その仕草が、もどかしい。
「なあ日向!」
一歩踏み出し、伝われという一心で名前を呼ぶ。
「誰よりもお前の努力を見てきたのはアタシだ! お前が積み上げてきたものをアタシは知ってる!」
香月の声が熱を帯びる。ずっとそばで見てきたのだ。努力のすべてを。流した汗の量を。悔し涙を。あの火を。あの日々を。
しかし、日向は静かに首を振った。
「私だよ。誰よりも私を知ってるのは」
こんな簡単に終わらせていいはずがない。
「ッ、なら! お前は夢をこんな簡単に諦めていいのか!」
瞬間、日向は顔を上げる。まるで出来の悪い鏡に映った顔を見るような目で。
「……簡単?」
日向の声色がわずかに低くなる。
「あ、はは……簡単かな。私の選択って」
歪んだ笑みで取り繕おうとして、震えている。
伝わる。と、そう確信した。彼女のこの反応は、思い当たる節があるからだ。
――諦めるなんて何よりも簡単で、何よりも無価値だ。
やはり、それは普遍だった。
「ああ、分かるだろ。諦めて、逃げて、全部捨てて。楽してるだけじゃ――」
「……香月さ」
しかし、香月の声を遮ったのは、香月の知らない、日向の冷ややかな声。
それは、ゆっくりと。
「香月が見てたのって、本当に〝あの子〟?」
食堂のざわめきが遠のいた気がした。香月の胸を抉る。鋭く、強く、深く、心臓に突き刺さる。
しかし、その問いの意味が、すぐには分からなかった。分かりたくなかった。
ただ何か、取り返しのつかない事実を目の当たりにしたようで。
「は、はあ……? なんだよ、それ」
思考が止まる。答えを探すように視線をさまよわせるが、言葉は出てこない。まるで水の中でもがくような感覚。
「『本当に〝あの子〟』……って」
日向の言葉を頭の中で何度も反芻する。
――そんなもん、当たり前だろ。
ずっと、〝星〟を追ってきた。少しでも近づこうと、何度も、何度も何度も水を掻いてきた。五年間、ずっとそれが目標だったのに。
そんなこと、今さら――。
「アタシは……」
続く言葉が、香月の喉の奥で詰まる。
日向は静かに息をつき、そして真っ直ぐに香月を見つめていた。その目に自分の知らないところまで見透かされたようで。
じわりと指先が冷えていく。無意識に拳を握りしめる。
――否定しなければ。
それは衝動だった。
胸の奥で何かが弾けた。抑えられなくなった感情が喉を焼くのを感じる。
「お前! アタシが本気で目指してなかったって言うのかよ!」
次の瞬間、怒号とともに香月の手が日向の胸ぐらを掴んでいた。握りしめた日向のブラウスが皺を刻む。
「ち、違うの、そうじゃなくて――」
「そうじゃねぇならどうなんだよ!」
詰るように声を荒らげる。
「違う、お願いだから話を聞いてよ!」
ハッとして、手を緩める。どうしても感情を抑えられなかった。
ただ日向にだけは誤解されたくなかった。どうしても二人、同じ方向を向いていると信じたい。この期に及んで、そんなことを思ってしまった。
「ねぇ、香月。どうしたの? ちょっと変だよ」
日向は探るように問いかける。
確かに変だ。しかし――、
「変なのはそっちもだろ」
「ずっと同じ目標だった香月なら、分かってくれるって思ってたから」
その言葉に、香月の奥歯が軋む。
――分かってくれねぇのはどっちだ。
「同じだったから、もったいねぇんだろ! お前にはそこからしか行けねぇ先があるんだよ!」
「だからこそだよ。だからこそ、なくさなきゃ」
「なんでだよ! 目の前に道があるんだぞ!」
「こんな道を目指したからってどうなるのさ!」
日向の声が、初めて強くなる。
対照的に、香月は言葉を失い、唖然とする。
「あ……」
日向はそこで初めて、自分が発した言葉の意味に気がついたようだった。ほんの一瞬だけ驚いた顔をする。そして、後悔するように俯いた。
それは今までの五年間と同時にこれまでの香月と日向自身のすべてを否定する言葉で、明確な裏切りだった。
静寂が降る。
「ち、違う。そんなこと言いたかったんじゃないのに」
しかし、取り繕うような日向の言葉は、もう香月には届かなかった。
香月の中で、何かがゆっくりと冷えていくのを感じた。
「お前、そんなふうに思ってたのかよ」
その言葉が落ちると、空気が凍りついた。香月の声は自分でも驚くほど冷たい。
「見損なったよ。もうお前はどうだっていい」
ゆっくりと日向を見る。しかし、何故か瞼が滲んで、その輪郭がよく分からなくなっていた。もう彼女が何を考えているのか、何を思っているのか、まったく見えなくなってしまった。
「じゃあな」
そのまま日向に背を向けて歩き出す。足が重かった。一歩、一歩、前に進むたびに心が擦り切れ、剥がれ落ちていくような。
「あぁ……」
後ろで消え入るように悔恨を漏らす声が聞こえる。
「……お料理、冷めちゃったな」
日向のそんな言葉は、食堂の喧騒の中に溶けていった。




