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諦望星 ―泳ぐのをやめたお前を、それでも諦めない―  作者: セイ・エーケーエー・スギ


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07. 諦めを望む星

 もうすっかり日が傾いて、あたりはうっすらと夕闇に染まり始めていた。


 部活後、プールの水面に伸びる影は皆一様に海を指していた。海面は淡く紫色に染まり、潮風がさらに冷たくなる。東の空を見るとちらほらと一等星が顔を出し始めていた。


 もうだいぶ、夜が来るのが早くなった。


「香月さん、まだ泳ぐんすかー」


「ああ、さき帰っとけ」


「えー、一緒に帰りましょうよぉ」


「いいから、今日は帰れ」


「……はーい」


 プールサイドに掴まりながら空を見上げると、まだ乾ききっていない制服。そして一羽のカラスがカァカァと鳴いている。その他には自分の息遣いと揺れる水の音だけが聞こえる。誰もいなくなった一人だけのプールは静かで新鮮だった。


 自分が止まっていれば、流れも波もなくなっていく。いずれ水が凍ってしまって動けなくなりそうな。


「関係、ねぇ……っ」


 居心地の悪さを誤魔化すように大きく息を吸い込んで、水の中に潜った。


 ――諦めてたまるか。


 勢いよく壁を蹴る。そして止まってしまわないよう、ひたすらに水を裂き、掻き、蹴る。泳ぐのは好きだ。その間だけは何も考えなくていい。そのはずだ。なのに違和感がノイズになって仕方がなかった。


 隣にいつも感じていた流れはもうない。乗ることも、乗せることももうない。


「くそっ」


 代わりに隣にあったのは空虚だった。だとしてもそれを受け入れるために泳ぎ続ける他に道はない。今を受け入れて、自分自身を見なければこの先になんて行けはしない。


 何度も、何度も、何度だって壁を蹴る。その度、心に雑念が浮かんでは行く手を阻む。


 何も無い。受け入れろ。欠けている。受け入れろ。理由は。まだ泳ぎたい。


 ――でも意味がない。


「違う……!」


 目標は。まだ在る。〝アイツ〟を超える。だから泳ぐ。だから泳ぐ。だから――、


「……、あれ」


 ――誰だっけ。アタシが超えたい、()()()って。


 その時、水底に落ちた影を見て足を止めた。コースの真ん中でコースロープに掴まる。


 大きくため息を吐いた。


「――何しに来た」


 ゆっくりと、顔を上げて振り返る。ああ、今、誰よりも求めていて、誰よりもここに来て欲しくなかった。


 夕焼けに伸びた見慣れた影。自分の隣りにいたはずの影。ゴーグルを外すと、鬱陶しい水滴が直視を妨げるように垂れてくる。乱暴にそれを拭うと、プールサイドに立つ日向が見えた。


「さっきはごめんね、変なこと言っちゃって。放課後に来いって言ってたから……、応援しに来たんだ!」


 太陽のような笑顔で彼女はそんなことを口にした。しかしそれを受けて香月に生まれた確かな実感は、水に落ちた一滴の墨汁のようにじわりと心に広がる。


 なんでそんな顔ができるのか。冷たい水に侵されて、心まで冷えていくのを感じながら。


 ――きっと、無駄なんだ。もう意味なんてないのだ。これが最後に、きっとなる。


 それでも言わずにはいられない。


「お前、やめたんだろ」


 悔しいのがまるで自分だけかに思えて。


 今を受け入れるために心に建てたダムが、音を立てながら決壊する。


「アタシを置いて、やめたんだろうが……!」


「……」


 日向からは言葉が詰まったように、声にならない音が漏れた。その表情は翳り、明朗な言葉を口にするには、すでにあまりに暗すぎた。


「置いてだなんて、そんな――。……ううん」


 目を逸らした彼女からは、詫びるように、しかし、明確な意志を持った声が返ってくる。


 プールの波は揺れ、激しく震える。冷たい風が強くなり、濡れた体を凍えさせる。居心地が悪い。沈んでしまいたい。


「……見つけたんだ、やっと。行きたい場所が」


「はあ?」


 そんな返答は許さない。


「お前の行きたい場所は〝星〟のいるところじゃなかったのかよ」


 問いかける声は、思った以上に震えていた。


「そりゃ、あの子を超えられなかったのは悔しいよ。でもそれ以上に、私がどこに向かいたいのか分かったんだ」


 香月の心臓が、一瞬だけ跳ねる。分かっていた。分かっていたのだ、そんなことくらい。


「今、思ってるだけだろ。そんな感情に一体どんだけの価値が有んだよ」


 これはエゴだ。そんな事は分かっていた。分かっていて、それでも畳み掛けるように言葉を続ける。


「お前が出すのが、そんな答えで終わっていいわけ――」


「あの子を超えるよりも、ずっとやりたいことだよ」


 しかし日向はきっぱりと、はっきりと、淀みのない透き通った声で、香月を追い越すように言った。香月はただ、口をつぐむことしかできなかった。


「あのね、香月。結果だけが全てじゃないよ」


 日向はゆっくりと、小さな声で話し始めた。


「私はね、()()が欲しかったんだ」


「なんだよ……それ」


「暗い暗い水の中で、宙ぶらりんだったから」


 それは今の香月も同じだった。


「これはね、結論なんだよ」


 そう、結論が違っただけだ。 


「どんなに空が遠くたって、星を目指している限りいつかは辿り着くって信じてた。だけど――」


 日向は震えた声で、悔しそうに続ける。


「光がなくなると何も見えなくて。もう、どっちが上か下かもわからなくなって」


 小さく、小さく、自分自身を呪うような声で言う。


「……おかしいよね。あの〝星〟に向かっていたはずなのに」


 そう、二人は同じだった。この時までは。しかし――、


「でも見つけたんだよ、違う星を。だから、もう一度手を伸ばしてみようって思えた」


 それはあまりに単純で明快な答え。


「それが結論」


 しかして、彼女は言った。


「――それが()()()ってことだよ」


 不思議だった。なぜかこの時、その言葉への嫌悪感は消え失せていた。悲しいことだが、彼女の言葉が腑に落ちたのを感じた。


 しかし、まだ心に引っかかりが残った。彼女が諦めることに対するものとは別の。それが分からないのに、日向はそんな香月に構わずに続ける。


「ねぇ、香月。君は違うでしょ?」


「……当たり前だろ。アタシとお前は違う」


 言って、自分で納得した。


 結論が違った。目標が違った。信念が違った。感情が違った。たったそれだけの話なのだ。


「――そうだな。違うんだ」


 香月からそれ以上の言葉など出るはずがなかった。


「うん。私は水泳をやめる。今度こそ自分を見つめて」


 底が抜けて、どこまでも引き摺り込まれるような感覚に陥る。もう戻って来ない。もう戻れない。意識が濁って、息が苦しい。


「だから、あの〝星〟を超えるのは香月なんだ」


 ――ああ、耳に水が入ってしまって、何も聞こえやしない。


 水がまるで蟲のように蠢いて、体中を這って回る。でも、振り払う気力さえも失われて。


 もう、泳げない。


 そこでようやく気がついた。気づいてしまった。混濁する自意識の中、自分自身を見つけてしまった。


「……違う、違っていた。違ったんだ」


「え」


 水面に浮かぶ顔を見つめる。それは歪んでいて、しかし、それこそが自分で。


「ずっと気づけなかった。でも、本当は――」


 強く、訴えるように。


「アイツじゃなかった。お前だったんだ……!」


「私……?」


 辺りはすっかり暗くなり、日向の顔は見えなくなってしまった。もはや、彼女が何を思っているかすらも分からない。


「お前と一緒に泳いで、競って……。アタシにとっての本当の星は――!」


 だから一歩、また一歩と日向の方へと足を進めた。


「お前がいなきゃ、意味なんてねぇのに……!」


 顔を上げる。こんなに醜く歪んだ顔は見られたくなかった。でも、今想いを伝えないと、もう二度とは帰ってこない。彼女を失ったら、自分が自分でなくなってしまう。


「あの熱も、あの思いも、まだ失いたくねぇ……」


 もう一つ歩き、プールサイドにぶつかった。


「もったいねぇ、もったいねぇんだ!」


 水面から這い出るように、星に手を伸ばす。藁をも掴むような想いで、もう一度、手を取ってほしいと願いながら。


「お前となら、もっと泳げるのに……!」


 そうだ――、


「でも、私は……もう、泳がないよ」


 諦めるというのは、簡単じゃない。


 何よりも覚悟が必要で、何よりも難しい。


「……っ」


 今さら絆されるようなら、わざわざ呼び出してまで宣言したりなんかしなかっただろう。分かっていた。


「……好きにしろよ」


 やがて、日向は静かに笑い、香月の肩を軽く叩いた。


「ありがとう。香月ならきっと大丈夫」


 日向にとっての理想など最初から存在しなかったことが分かってなお、日向は願い事をするように告げた。


「だから――変わらないでね」


 その言葉を最後に、日向は背を向ける。


「ごめんね。それじゃ、……先に行くよ」


 早足にプールサイドを去る日向。


 香月はただ、その背中を見送ることしかできなかった。それでも、ゆっくりと拳を開き、手を伸ばした。


「あぁ……」


 掴もうとした手は空を切り、支えを失った体は闇の中に吸い込まれる。泥沼が重く、冷たく、香月を閉じ込めて逃さない。


 ――諦められるか。


「諦められるか……」


 誰に言うでもなく香月は呟く。


「諦めてなんかやらねぇ」


 その言葉は誰に向けたものでもなく、ただ自分自身への宣誓だった。


「なら、なってやるよ」


 プール壁をただ強く、乱暴に蹴る。前に進んでいるかなど分からない。それでも香月はもがいて、足掻く。


「アタシがお前の星になって、お前の間違いを証明する」


 もう一度、日向をここに引きずり下ろすこと。そのためだけに、先の見えない淀みの中で、ただ無我夢中に北極星へ手を伸ばす。


「アタシは、お前を諦めない」


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