03-2. 向日葵が見ていたもの
中庭のベンチに腰を下ろし、手渡された缶ジュースのプルタブを指先でそっと撫でる。カチリとも鳴らさず、ただ何度もなぞる。日向はしばらく黙っていた。胸の中で言葉が渦巻いて、整列しない。
校舎の隙間を通り抜けてくる潮風が冷たい。春華は隣でただ空を見上げている。問い詰めるでもなく、慰めるでもなく、ただ言葉を待ってくれていた。
「……ママが水泳選手だったんだ」
絞り出すようにして、ゆっくりと口を開いた。プルタブを開けると噴き出してくる炭酸の音が、昼下がりの風にかき消される。
「結構すごい人なんだ。名前で検索すれば出てくるくらいには。今、水泳界の〝星〟って呼ばれてる子がいて、その子のお母さんと同期だったみたい。高校生の頃からオリンピックに行くのはどっちだ! なんて、言われてたんだって」
日向はすでに開いたプルタブをパチパチと弾きながら、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「へー、マジか。めっちゃすごいじゃん……」
春華にとってもオリンピックという言葉はそれだけで一際引力を持つようだった。
「うん。小さい頃の私にとって、ママはヒーローだった」
パチ、パチ。
手元のまだ口をつけていない缶を見つめながら、日向は思い出すように微笑んだ。
「それで水泳教室に通い出して、ちょっとだけ泳げるようになって。そしたら、すごく喜んでくれて……褒めてくれて……。『ひなはすごいね』『偉いね』『ママも嬉しいよ』って。いつも頭を撫でてくれて」
濡れた髪の上から感じる、柔らかい掌のぬくもり。今でも鮮明に思い出すことができる。
傍から聞けば素敵な話だ。しかし、裏腹に日向の表情はだんだんと暗く、沈んでいく。
「――私は、たぶん。ただそれが欲しかっただけなんだと思う。たくさん頑張ってきたけど、本当は水泳が好きだったからとかじゃなくて――、お母さんに褒められたくて、喜んでもらいたくて、泳いでたのかも」
プルタブを弾く指が止まっていた。
春華は何も言わず、ただ耳を傾けていた。自分を受け入れてくれているようで、言いたくないこと、言えなかったことが溢れ出す。
「でも、中学に上がった年の春、ママが病気になったんだ。オリンピックの選抜を目前にして……。本当にあっけなかった。出場は諦めざるを得なくて、すぐに引退して、入院して」
まるで大事なものが濁流に浚われてしまったような喪失感。母を置き去りにして、どうしようもなく時は流れた。日向には何もできなかった。そんな自分が嫌だった。
プルタブをパチンと鳴らす。
「だから言っちゃったんだ。『代わりに私が一番になるね』って」
もともと要領の良い方ではなく、成績も振るわない日向だったが、この時初めて水泳という競技と向き合おうと決めた。そうすればきっと母が喜んでくれると信じてのことだった。
しかし――、
「そのあとだった。あの人が変わったのは」
パキッと缶が鳴った。何度も何度も弾かれたプルタブは折れて外れてしまった。その役目を失ったプルタブを見つめながら、日向は静かな声で続けた。
「優しい言葉はなくなった。褒められることもなくなった。代わりに繰り返されるのは、『〝星〟を超えろ』って言葉」
思い出すたびに、胸の奥が疼く。そんな痛みにさえも、今ではもう慣れてしまったけれど。
「〝星〟……か」
春華も香月から聞いたことがあった。その実力は圧倒的で、中学の頃から誰一人として彼女を沈めることができなかった。
「あの人、あの子の泳ぎを見るたびに取り乱すんだ。パニックになって、泣きながら、『負けるな』『絶対に勝て』って、『一番になれ』って、まるで――」
息をついて、続ける。
「まるで、呪いみたいに」
震えた声から日向の後悔が滲み出る。その時、代わりなど申し出なければ未来は違ったのだろうか。と、春華はそんなことを考えてから「どーしようもない……か」と呟いた。
「……でも、私はそれでも頑張ろうって思った。だって、勝てばまた褒めてもらえるかもしれないから。だから、私は泳いだ」
底の見えない深い水の中で、怖くても、辛くても、息継ぎもままならないまま、必死に泳ぎ続けた。
そんな先の見えない日々の中で――香月と出会った。
「香月がね、褒めてくれたんだ。『お前の泳ぎ、すげぇな』って」
ぶっきら棒に発せられた言葉。似ても似つかないそんな彼女の一言が、あの頃の母と重なって。
「……泣きそうになったんだよ。ほんと、子どもだよね、私」
けれど、あの時の言葉は確かに日向を救った。心に染み込んだ水の冷たさを忘れさせてくれた。辛い練習も、身に余る重圧も、香月と一緒なら乗り越えられた。
「あいつ、意外とそーいうこと言えちゃうタイプなんよね」
春華の言葉に、日向は大きく頷いた。
「たくさん褒めてもらったよ。香月には……。私、そのときから本当に、水泳が楽しくなったんだ。そして、勝ちたいって、本気で思えた」
しみじみと、二人で泳いできた今までを振り返るように言った。
何度も挫けそうになったが、そのたびに隣で共に泳ぐ香月の存在が日向を引っ張ってくれた。
「香月と一緒に、あの〝星〟を掴みたかった」
唇を噛む。
「でも、越えられなかった」
日向の手にある缶からパキパキと音が鳴る。
あの大会。全力を尽くしても届かなかった〇・五秒。
「悔しくて、悔しくて、悔しくて悔しくて……! でも、香月が言ってくれたんだ。『お前は強かった』って」
――香月の言葉に、何度救われただろう。
「それが嬉しくて――またやろうって、まだやろうって思えた。……なのに」
日向は目を伏せたまま、一層声色を沈めて独り言のようにこぼした。
「なのにその夜から、母はずっと眠ったまま」
「……っ」
春華の息を呑む音が聞こえた気がした。
「母が目覚めなくなってからは、どうしても泳げなかった。泳ぎたくて、泳ぎたくて仕方ないのに、泳ぐ理由が分からなくなって……」
震える声が胸の深いところから噴き出すように、堰を切って溢れ出す。
「そして気づいちゃった。……私は水泳がしたいんじゃなかったんだって。あの人にただ『よく頑張ったね』って言ってほしかっただけだったんだって。ずっと、ずっと、それだけだったんだって……」
それが、すべての始まりで、すべての終わりだった。それに気づいた今、何より尊いと信じていたこの青春には意味がなくなった。
「でも――なんて言うのかな、すごく、最低なんだけどね。私……」
日向は的確な言葉を探すように口を開けたり閉めたりしながら、慎重に続ける。
「最後のチャンスだって……思ったんだ」
「チャンス……?」
「そう、水泳をやめる……チャンス」
頬を伝う涙を拭いもせず、日向は震える言葉を吐き出した。
「不謹慎だけどさ、あの人が眠ったままなら、この呪いだって解けるんだ。そう思ったら、肩の荷が降りたみたいに感じて……」
苦悶の表情を浮かべ、さらに。
「そんなこと思っちゃったら、もう香月がいる場所には戻れないよ。私なんかがいちゃいけないんだ。だから……全部諦めようって決めたんだ」
母のことも、〝星〟のことも、全部諦めてもう一度、自分だけの新しい星を掴むための人生を歩み直そう。そう決めた。
それでも本当はこんな選択はしたくなかった。本当はこんな醜い自分を知りたくなかった。本当はこんなことで泣きたくなかった。それでも日向は諦めることを選んだのだ。
日向は抱えていたものを全て吐露した後、涙を流しながら手のひらに顔を埋めている。春華はそんな日向の姿を見て「よく分かったよ」と呟いた。
そして、パシリと背中を叩いた。
「痛いっ! ふぇ……?」
日向は何事かと呆気に取られながら春華を見た。春華はニッと微笑みながら告げる。
「だからやっと自分で選んだ人生を始められるんじゃん! あんたもそう思ったんでしょ?」
この夢を諦めることは、決して悪いことではない。日向はそう信じたかった。だからこそ昨日、香月を呼びつけてまで、水泳を離れることを告げたのだ。
「……うん」
「じゃあ泣くな! あんたは間違ってないっしょ? だからもっと自信持ちなって!」
正しいと信じきれなかった選択。その春華の言葉は、期待と後悔が屁泥のように絡まった日向の心を肯定し、洗い流すようで。
「そう……かな」
その時、日向の顔を見て春華は「おっ」と言ったかと思えば、ポケットから取り出したスマホをパシャリと鳴らした。
「え、や、やだ。なんで?」
「えー、だってあんた今、めっちゃいい顔してんじゃん。ほら」
そう言ってフォトフォルダーを開き、最新の写真をこちらに向ける。そこには少女が写っていた。その少女の顔は涙と鼻水で酷く汚れていて、弱々しくて、みすぼらしくて。しかし、不器用にも微笑んでいた。
「……な、これがあんたなんじゃね?」
「私……?」
「なんてんだろ。今の顔は誰かに見せるための顔じゃないっていうか――。ま、別にあんたのことよく知ってるわけじゃないんだけど!」
そう言って、頬に軽くジュースの缶をぶつけてくる。冷たかったけど、火照って赤くなった日向には心地よかった。
「多分……いいんだよ、それで」
春華はどこか羨ましそうな表情で言った。
その時――、
「あ、日向ちゃんいたー!」
遠くから、クラスメイトが手を振っていた。
「一緒に食堂行こー!」
そうだ、今日はみんなと食べる約束をしていたのだった。
「うん、ごめんね! 今行く!」
立ち上がりながら、日向は春華に頭を下げた。
「……話して、よかった!」
言い終えると、缶を仰いで一気に全部飲み干した。少しぬるくなった炭酸が爽やかに喉を撫でた。
背を向けて走り出す日向に、春華は最後に一言だけ告げる。
「じゃあさ。ちゃんと、やめてきなよ。……自分のために」
「うん!」
春華に話して、背中を押してくれて、自分の思いが認められて、心が少し楽になった。もう迷わないでいいみたいだ。だってこの選択は間違っていないのだから。
「春華ちゃん、ありがと!」
春華は無言で手を振った。
――そうだ、昨晩、泣いて、泣いて、ようやく決めた。私の人生を、私の足で進むって。
そう、これは――前に進むための、第一歩だ。




