03-1. 向日葵が見ていたもの
「……ん、あれ」
日向はゆっくりと瞼を開ける。昨晩はあまり寝付けなかったせいか、どうやら授業中に寝てしまっていたらしい。
教室内はすでに騒然としていて、いつの間にやら授業が終わっていたのだと悟る。クラスメイトたちは昼食を広げ、友達と机を囲んで団らんしていた。
ぼんやりとした意識の中で、また母の夢を見ていたことを思い出す。いっそもう少し眠っていたかった、と淡い後悔が過るが、そんなネガティブな思考を払うために日向は机に突っ伏したままふるふると首を振った。
その件についてはもうすでに踏ん切りをつけたはずだ。今日という日は新しい毎日の第一歩。もっと明るく、清らかな気持ちでいるべきだ。
「うん、大丈夫」
そう言い聞かせて、無理やり心を切り替える。時計に目をやると、昼休みが始まってからすでに十分ほど経過していた。
「はっ、急がなきゃ」
ガタッと音を立てながら席を立ち、鞄を肩に引っ掛けてそそくさと教室を後にした。いつも楽しみにしている昼休み。十分間の遅れでさえももったいない。
日向の足は自然と早くなり、いつものあの場所へと向かう。そうだ、今日もみんなと――、
「あ……違うや」
ふと気がついて、ゆっくりと立ち止まる。
「何やってんだろ」
無意識に水泳部の部室へ向かおうとしていた自分に思わず苦笑する。
――違う。これは、ただの癖。……うん、そうだ、癖なだけ!
言い聞かせながら、動揺を誤魔化すために勢いよく向きを変えて駆け出した。その瞬間――、
「ちょ、あぶなっ!」
目の前の人影に気づかず、ぶつかってしまった。そんなに強く当たったわけではなかったが、相手は大げさに尻餅をついた。
「ご、ごめんなさい! だ、大丈夫かな?!」
日向は慌てて駆け寄って、体を支える。
「足痛ったー! コレハオレタカモー!」
「う、嘘! えと、救急車って何番だっけ……。えっとえっと――」
すると相手はぷっと吹き出し、弾けるように笑い出した。日向は何が何だかわからなくなり、その場に跪いたまま呆然とする。
「あはは! 冗談だよ、ジョーダン! ほんと、話に聞いてた通りのお人好しじゃんね。日向ちゃん」
パシャリと。いつ取り出したのか、最新スマホのレンズがこちらを向いていた。
「え? あ……写真?」
呆然としつつも、改めて顔を確認する。
「黒木……さん?」
陸上部のエース黒木春華。何かと香月と一緒にいることが多かったので、顔だけは見覚えがあった。
「おー、やっぱ知ってる? ウチひょっとしてユーメー人?」
「あはは……、そちらこそ、私のこと知ってるんだね」
春華の軽いノリに少々面食らいながらも、本人の言う通り大事に至っていないようで安心した。
「もちもち。香月ってば、口を開けばず〜っとあんたの話してんだから」
「……っ。そう、なんだ」
不意に心が締め付けられるような感覚に襲われ、日向は目を逸らした。そのささやかな動揺を春華の目は捉えたらしい。
「どったの?」
「う、ううん! なんでも……」
軽く笑ってごまかそうとしたが、返って不自然だったのだろう。黒木はじっと日向を見つめ、「……ふーん」と意味ありげに声を漏らした。と思えば、すぐに肩の力を抜いて、冗談めかした声に戻る。
「はーまったく、ちょ〜っと話しかけようと思って近づいたら、急に方向転換して突進してくるんだから。猪かと思ったよ」
春華はそんな軽口といっしょに立ち上がろうとする。しかし途端に顔をしかめ、ぐらりとよろめいた。
「わっ」
日向は慌てて支えに入る。その際、彼女の足元に目が留まった。ジャージの隙間から覗く、白いテーピング。
「あ、足が……」
「だいじょぶだいじょぶ、ただの捻挫だし。なーんかクセになってるみたいで、困ってるんだなーこれが」
春華は苦笑しながら、片足をかばうようにして立ち直る。その表情には余裕が伺えたが、同時に無理をしているようにも見えた。
「ほ、ほんとにごめんなさい……!」
「はは、もー謝んなくていいってー。てか、それよりさ――」
唐突に春華は声のトーンを少し落とした。不意に引き締まった空気に身体がこわばる。真っ直ぐな視線を向けられ、少し居心地が悪くて目を泳がせる。
「あんたさ、水泳やめたんだってね」
思ってもみなかった言葉に、一瞬、息が詰まった。
「……な、なんで知ってるのかな」
「うーん、ま、風の噂ってやつかな。でさ、どう? 今、どんな気持ちなん?」
「どうって……、なんでそんなこと――」
日向のそんな疑問は、黒木の目を見てすぐにどこかへ消えた。
それはからかいでもなければ興味本位でもなく、極めて直線的に、今、それを尋ねなければならないという確固たる意志から来る質問のように感じた。
彼女がただの野次馬でないことは分かっていた。陸上部のエースで、怪我をしてもなお、競争の場に身を投じ続けている。その姿勢を日向は少なからず尊敬の念を抱いていた。それに香月ほど近すぎず、けれど、まったくの他人でもない。
その絶妙な距離感だからこそ思えた。
――少しくらいなら話していいかな。
そうすれば、この心のもやもやは晴れるだろうか。日向はおそるおそる口を開く。
「……こうしなきゃ、前に進めないって思ったからだよ」
吐き出すように、ぽつりと呟いた。その声色は懺悔のようでも、覚悟のようでもあった。
「ふーん……」
春華は「よいしょ」と、おぼつかない足取りで歩き出しながらちらりとこちらを一瞥し言う。
「詳しく聞かせなよ。ジュース、奢っからさ」




