02. 崩れてく
憂鬱と疑念が頭を埋め尽くして、何にも手がつかないまま昼休みを迎えた。
机に項垂れながら、外を見る。窓ガラスに隔てられた室内からは今ひとつ実感に欠けるが、悶えるように時化た海の騒々しさから察するに、外では風が吹き荒んでいるのだろう。
しかしその強風が空を覆っていた分厚い雲を払ったようで、雲間からは幾つかの光芒が降りている。光が照り、窓ガラスに映る香月の像がぼやける。まるで最初から確固たる輪郭などなかったかのようだ。
不意に白波の隙間から反射した光に、思わず目を逸らした。
――ああ、鬱陶しい。
他人のことだと割り切ることさえできない惨めな自分に嫌気が差す。心の底に溜まったヘドロのような感情が喉の奥で絡みつく。吐き出そうにも言葉にならず、飲み込もうにも息が詰まりそうで。
鏡に映っていると思っていたもの、それは自分ではなかった。鏡の彼女は実のところガラスの向こうの別人で。では、自分はどこにあるのか。光に照らされていないと、鏡が見えない。自分が――見えない。
香月は情けない自分から逃げ出すように、教室を後にした。
向かった先はプールに隣接した水泳部の部室兼更衣室。年季の入ったコンクリートブロックの建物で、トタンの屋根や雨樋は潮風ですっかり錆びついている。こんなみすぼらしい屋舎でも、水泳部員にとってはかけがえのない居場所だ。昼休みになると部員がぞろぞろと集まり、昼食を共にする。別に集まったからといって何をするわけでもない。一応は部活動としての業務連絡や技術共有をすることもあるが、基本的には取り留めのない雑談をして過ごしている。
もともと事務所として使われていた部室は、更衣室から一枚の引き戸で隔てられている。香月は少しためらいながらゆっくりとそれを開ける。
カビ臭い湿気と微かに塩素の残る空気が鼻を刺す。室内では、既に後輩たちがテーブルを囲んで談笑に花を咲かせていた。しかしたった一つの違和に苛まれ、輪に入ろうとは思えなかった。
日向は、いない。
無意識に指先をぎゅっと握り込む。香月は気づかれないように息を詰め、その場から離れようとした。
「あ、香月さん、お疲れっす!」
しかし後輩の一人、加賀湊がそんな香月に気づいたようで、目を輝かせながら駆け寄ってきた。
「先輩二人が揃って朝練来なかったんで、めっちゃ心配したんすよ!」
「……あー、まあ、別に」
ばつが悪く、上の空に口から言葉を垂れ流す。
「なんか元気ないっすねー」
「そういう時もあんだよ」
湊はいつも二人の後ろをついて回る、いわゆる小判鮫のような女だ。
水泳においてもなんとか二人にしがみついてこようとはするものの、残念ながら才能には恵まれなかったらしい。そもそも入部当初はカナヅチだった彼女だ。とてもではないが、水泳を続けることが賢い選択だとは言い難い。
しかしそんな現実を意に介さず、不器用ながらもがむしゃらに努力する彼女の姿は、どこかの誰かと重なる気がしていた。
「で、どうしてっすか?」
「用事、あったんだよ」
「ははっ、そんなわけないっすよ。香月さんに限って、水泳より優先することなんてないでしょ?」
そんな湊なので、相応に香月のことを理解しているようだ。いい加減なはぐらかしは通用しないようで、普段であれば見せないような神妙な表情で続ける。
「……なんかあったんすよね?」
ここまで気に掛けてもらって申し訳ないが、後輩に心配されるというのはプライドが許さなかった。だから素知らぬ顔を突き通すことにした。
「だから、なんでもねぇって」
「そっすか」
「そうだって。いいから中に入れさせろよ」
ここまで来て引き返すのは不自然だろう。本当は一人になりたい気分だったが、平静を装いながら、湊を押しのけるようにして部室に入った。
弁当の紐を解く。見慣れた具材のいつもの昼食。箸をつける気が起こらなかったのはなぜなのか。香月は器に目を落とし、ただ一点を見つめていた。
食べるべきものが、ただのものになった気がした。
「……そういや気になってたんすけど、そのお弁当、いっつも日向さんとおそろいっすよね」
鳥むね肉、ブロッコリー、もち麦といった、高タンパク低脂肪の具材が敷き詰められた弁当。レシピや献立は日向と一緒に考えた。かれこれ五年間もの間、毎日欠かさず食べ続けたルーティン。
「ほんと、お二人って仲いいっすよねー」
彼女がここに来ないだけで、その意味が崩れていく気がした。
――これはそういうものじゃねぇ。アイツは関係ねぇだろ。
「あ、そうだ」
まとまらない思考が不愉快な粘着質で付き纏う。湊のなんでもない言葉でさえも、今日はいつにもまして耳障りで。
「わたしにも教えて下さいよ! 先輩たちとおそろいに――」
「……うるせぇよ」
吐き捨てるように、言葉が勝手に口から落ちた。後悔する間もなく、後輩達の顔が驚きに染まる。
「え?」
「……っ。いや、すまん」
覆水盆に返らず。咄嗟に否定しようにも、言葉を取り返すことはできない。
自分が雰囲気を悪くしていることを自覚した。自らの首を絞め続けている。こんな状態でここにいられるはずはなかった。
どうしてこうなった? と、一瞬逡巡した後、香月はそそくさと弁当を仕舞い、靴を履き直す。
「え? ちょ、香月さん?」
「……ちょっと用事、思い出した」
困惑するような湊に目も合わせられないまま、ただ逃げるように戸を開く。
「香月さん!」
この部活には日向が必要だ。彼女がいれば、それだけで全部解決する。ならば今すぐにでも探し出して引き留めるべきだ。だから、できるだけ早足で。
などと心を取り繕うが、要は未練がましい自分から逃げ出したかっただけだった。
背後から大きな声が耳に届いた。
「何があったか知んないけど!」
――ああ。
「放課後は絶対来てくださいね! 待ってるんで!」
――もう、アタシを見ないでくれ。




