01. 灰色のプールサイドで
薄暗く、冷たい教室で一人、香月はつまらなそうに窓の外を眺めた。
海岸沿いに建つこの学校は、晴れた日であれば透き通った海が水平線を描く壮観な景色を見ることができる。しかし、今日はあいにくの曇り空。空の際も雲の色と同化して境目が分からなくなってしまっていた。
見渡す限りの灰色の景色。目を落とすと、やはり彩のないグラウンドとすっかり寂れたプールがある。そこでは陸上部がひたすらにトラックを駆けており、その奥では水泳部が今年初めての寒波に震えながら泳いでいた。
「おー、香月ちゃ〜ん! 今日も朝っぱらから赤羽にお熱じゃ〜ん?」
後方から声をかけられるが、香月は頬杖をついたまま振り返ることはない。聞き慣れた声で誰かは分かっている。陸上部のエース、黒木春華だ。
「ふふ〜ん、恋する乙女の物憂げな表情、絵になるねぇ〜」
パシャリとシャッター音が聞こえた。
「ちっ、だりぃな」
香月はレンズを隠すように香月のスマホを掴む。
彼女には何かにつけて写真に収めたがる悪癖がある。なんでも「今は今しかないから」ということらしい。もはやその行動に対する拒否感も薄くはなったが、やはり時折、癇に障ることがある。
「ちょちょ! レンズには触らないでよぉ!」
慌てふためいて言うので仕方なくスマホから手を離し、しっしっと払ってみせた。
「お前、めんどくせぇからどっか行けよ」
「えー、ひっど〜。人がせっかく話聞いてあげようってのに」
春華はぼやきながら自分の席に荷物を置いた後、勢いよく香月の隣に腰を下ろす。あんなことを言われた手前、一切の躊躇もない彼女の図太さにもはやひとこと言う気も失せてしまった。
香月はため息まじりに尋ねる。
「……で、お前は朝練どうしたんだよ」
「おわ、まさかあんたから言われるとは……。もちろんウチが休んだのにも理由ありますよー?」
「ほれ」などと言ってジャージの裾を引き、テーピングをぐるぐるに巻いた右の足首を見せつけてくる。
「まーた捻っちゃって、もう最悪なんだって〜」
「そりゃ災難だったナ」
「うーわ、興味なさそ」
そこまで言って、今度はこちらの番とばかりにずいっと顔を寄せてくる。
「でー? あんたはどしたん、浮かない顔して」
何がそんなに面白いのか、春華はニヤニヤとしながら尋ねてきた。
「……色々あったんだよ」
「なんだよ〜、色々って」
はぐらかしてみたものの、引く様子のない春華。彼女は己が「こうすべき」と思ったことを成し遂げるまでやめない。そして今、顔色の冴えない香月に訳を聞いてやるべきだ、などとそんなことを考えているのだろう。とても厄介ではあるが、同時にそれは彼女なりの気遣いであることを香月は理解していた。
仕方ない、と渋々口を開く。
「……日向がさ、もう諦めるってよ。自分の限界が分かったとかって」
「え、辞めんの。水泳」
それには能天気な春華も少し眉をひそめる。
香月は顎をしゃくるように外の水泳部たちを指した。しかしそこに今までのような活気はなく、水面にはどこか淀みを感じる。
別に彼女がやめたからといって、香月の何かが変わるわけではない。今までと同じ目標《ゴール》を目指して水を掻く、それだけでいい。ただなんとなく、後戻りのできないやるせなさが心の中で渦を巻いていた。
分かっている。自分と他人は別物で、重ね合わせるなんて無意味だ。分かっていても、どうしてだかプールサイドが遠く感じて。
「でもま、それで良かったんじゃね」
しかし、そんな香月の気持ちを知ってか知らずか、返ってきたのはいつものような春華の軽薄な言葉だった。
「……あ?」
予想もしていなかった言葉を受けて、つい張り詰めた声を上げる。
「お前も知ってんだろ。日向はアイツを超えるためにずっと努力してきた」
その努力は誰よりも近くで、中学から共に競ってきた自分が一番よく知っている。しかし功績だけなら、この高校に通う者であれば誰でも聞いたことがあるはずだ。
水泳部エース、赤羽日向。無名の水泳部を全国大会へと押し上げたのが香月と、そして日向だった。しかしそんな二人でさえ、中一からの五年間、ただの一度も全国優勝は叶わなかった。理由は単純明快。どうしても勝てない選手がいたのだ。
圧倒的輝きを放つその少女は、彼女の未来、ひいては水泳界の輝かしい未来への期待を一身に受け、その象徴として「高校水泳界の星」などと呼ばれていた。戦績は優勝のみ。着差〇・五秒の壁を越えた選手は存在しない。そんな化け物だったのだから、その二つ名に異を唱える者はいなかった。
だが日向は、その一等星を掴み、超えることが夢だと語っていた。だからこそ二人はこの五年間、他の全てを捨ててでも、彼女に勝つために考え、泳ぎ、競い合ってきたのだ。二人の青春は常に〝星〟を捉え、確かに同じ方向を目指している。
そのはずだった。なのにそんな日向が昨日、突然泳ぐことをやめたのだ。想像もしなかった。そんなことは絶対に認められなかった。流れることを止めた水はいずれ濁って、澱んで、泥んで、そして輝きを失う。それは、日向だって例外ではない。
なるがままに傍観することしかできない香月には、それを「良かった」などとは口が裂けても言えなかった。
「諦めるって大変なことじゃん」
しかし、春華は珍しく曖昧な表情で返した。香月はその言葉に少し面食らう。
「どういうことだよ」
誰よりも負けん気の強い春華のことだから、香月と同じく諦めという言葉を嫌っているものだと思っていた。事実、彼女は幾度となく怪我を乗り越えてコースに立っている。今だって足をテープで庇いながら再起の時を窺っているはずだ。
それは何よりも、本人が諦めることを拒んでいる証拠になる。
諦めるということは、過去の自分が必死に積み上げてきたもの、周囲の人々が期待を胸に支えてくれたもの、そんな「今まで」を無責任にも放棄し、台無しにする行為だ。
しかし、彼女の現状こそまさに、それを否定しているではないか。
――諦めるなんて何よりも簡単で、何よりも無価値だ。
それが普遍だと思っていた。誰もが望んで諦めることなどない。要は、成し得るか成し得ないかの差でしかないと、漠然とだが確信していた。
しかし、実際に春華が口にした言葉は違う。
「ウチにはまだ、できないから……」
春華は自分を抱えるようにして、テーピングを巻いていない左の足首を優しく撫でた。
日向の言葉が蘇る。
『諦めるって悪いことじゃないと思うんだ』
意味が分からなかった。そうして生まれる五年間の空白にどうして片を付けるのか。しかし彼女は間違いなく、プールサイドに来なかった。
「……分かんねぇよ」
香月は顔をしかめて窓の外に視線を移しながら呟いた。
悔しい。
どうしてか春華の言葉を否定できなかったから。




