00. 太陽だったあの人
「日向ちゃん、泳いでるときは前を向いちゃダメだったよね」
「あ、そうだった……!」
それは夏の光が白く滲む、屋内プールでの淡い記憶。小五の夏、格好良く泳ぐ母に憧れて、赤羽日向はスイミングスクールに通い始めた。
「息継ぎの時は体ごと動かそうね」
「えー、どぉやって?」
体をねじって、よろけながら水を掻く。先生はそんな不格好な泳ぎ方の日向に、いつも付きっきりで教えてくれた。今になって思えば、あの手厚さは母の名前があったからかもしれない。もっともそんな事情は露知らず、少女はバシャバシャと泳ぐことを楽しんでいるだけだった。
日向には母のような水泳の才能もアスリートへの憧憬もない。だから、その泳ぎに技術と呼べるものは何もなくて。しかし彼女にとってはそれで良かったし、母にとっても同じだったのだろう。
ただひたすらに、
「ママ! 今日ね、クロールできるようになったんだ!」
「わあ、ひなは偉いね」
母に褒められたくて。その声が聞きたくて。頭を撫でてくれる、温かい手がうれしくて、泳いだ。それはもう感じることのできない母との記憶。
「かっこいい水泳選手の母」を誇りに感じていたこともあり、当時から泳ぐことに対してそれなりの思いはあったのだろう。苦手なクロールを夢中になって練習したことを覚えている。とはいえ、この頃はそのクロールで誰かと競い合うなんて考えもしなかった。いくつもある遊びのうちの一つ、その程度のものだった。
しかし、水鳥のように水の中を自由に飛び回る感覚は特別で、どんなことよりも楽しくて。いや――、
「今日もすっごく楽しかった」
「あはは、よかった。ひなは強くなるね」
やはり、母に褒めてもらえるから楽しかったのだろう。
その優しい笑顔を見たくて泳いでいた。だとすれば、日向にとって水泳はただの遊びなどではなかったのかもしれない。あの頃の日向にとって母こそが〝太陽〟で、その光に照らされるその瞬間こそが世界の全てだった。
―――――――――――――――――――
「――諦めるって悪いことじゃないと思うんだ」
仄かに暖かさを残す斜陽を肌に、茜の空を見上げながら日向は言った。
海岸に吹き抜ける晩秋の冷たい風が少女の、夕空を透かすような亜麻色の髪を解かす。
その傍らに立つ、もう一人の少女。日向と同じ高校の制服を身に纏った彼女は、ただじっと日向の足元を睨みつけている。
陽光を受けてキラキラと輝いていた水滴が波止場のコンクリートに跡を残して消えた。あの雫はどこから浚われてきたのだろう。
草葉の露か、波のしぶきか。それとも、彼女の瞳だろうか。
「でも、もったいねぇだろ」
その少女、風間香月は無気力に、さも当然のことのように返す。
「もったいないかな」
噛み締めるように言いながら、あちらを向いたまま顔を下げた。海を見ているのか。遠方には褪めたオレンジのブイがフラフラと揺蕩っている。
「……私、ダメみたいなんだ」
一息、間を置いた。本当に口にしていいのか、そんな小さな迷いを孕んだ声で言う。
「私じゃ、〝あの子〟みたいにはなれないから」
「別に、アイツにならなくたって――」
「ううん、もう決めたんだ……!」
少女はくるりとこちらを振り返る。大きく広がったスカートの裾は、波止場に咲く大輪の花のようだった。先ほどの弱々しい言葉が嘘のように、いつも通り向日葵みたいな笑みを湛える日向。
「ごめんね! それじゃ、帰ろっか」
「――ああ」
その表情がどこか痛々しく感じたのは、きっと背に指す夕焼けのせいだ。




