第032話:Root Privilege ――権限譲渡と究極の選択――
バグ報告書:前回までの「異世界エンジニア」は~
教会の残酷な仕様を全世界へ一斉送信した零たち反逆のチーム『デバッガーズ』は、すべての元凶を絶つため本拠地『空中聖堂』の最深部、基幹サーバールームへと到達する。
しかしそこでは、囚われたセレスが巨大な大魔力炉と完全同期され、システム管理者である教皇グレゴリオが彼女の生殺与奪の権(タスクキル権限)を完全に握っていた。
自身もまた教団の犠牲者という悲惨な過去を持つ教皇は、人間の自由意志こそが悲劇を生むと断じ、全人類から心を奪い「意志なき幸福」へと強制アップデートしようと企んでいた。
さらに教皇の冷酷な矛先は零に向けられ、一つの残酷な記録を突きつける。
それは、零という異物を召喚するための莫大な魔力徴収の煽りを受け、セレスの親友・リリアの命が奪われていたという『原罪』の事実だった。
己の存在そのものが悲劇を生んでいたことに、零は激しい自責と絶望に押し潰され、冷たい床にうずくまってしまう。
だが、仲間たち(デバッガーズ)の熱い言葉と、相棒・ナビの不器用な励ましが、零の凍りついた心に火を灯す。
過去のバグ(罪)は一生消せなくとも、未来のコード(アップデート)を諦める理由にはならない。
痛みを伴う生理的なリブートを経て再び立ち上がった零は、エンジニアとしての苛烈なロジックで教皇の「過去への執着」を真っ向から論破し、セレスを基幹システムから強制解放すべく決死のハッキングを開始する。
教皇の絶対領域下で魔法を禁じられた絶体絶命の状況の中、アルフレッドの肉体やザイン、ハディージャたちの泥臭い物理的なサポートが、管理者の苛烈な攻撃をギリギリで凌ぎ切る。
正面突破が難航する中、ナビの皮肉とヨハネスの助言から「教皇はシステムを間借りしているだけで全容を把握していない」という弱点に気付いた零とアッシュは、足元に隠された古い物理区画からの迂回ハッキングを敢行。
ついに教皇の管理者権限を通さずにセレスを救出し、大魔力炉を沈黙させることで、教皇の「完璧な論理」を完全に打ち砕くのだった――!
「……私の、完全なる論理が……意志なき幸福が……こんな、醜く不完全な感情の寄せ集めなどに……」
教皇グレゴリオはその場に力なく膝から崩れ落ちた。
自らの震える両手を見つめるその瞳からは、もはや狂気も冷酷さも消え失せ、完全な敗北と、己の人生の空虚さだけが残されていた。
俺は腕の中で静かに眠るセレスを抱き上げると、背後に立つアルフレッドの大きな腕の中へそっと預けた。
「頼む」 「ああ。確かに引き受けた」 赤錆の魔導鎧を軋ませ、アルフレッドはセレスを優しく抱え込む。
俺は再び向き直り、冷たい大理石の床に這いつくばる教皇を見下ろした。
「お前の負けだ、グレゴリオ。お前の過去がどんなに悲惨でも、他人の未来を強制的に固定していい理由にはならない」
教皇はゆっくりと顔を上げた。その顔には、先程までの怒りも、絶望すらもなかった。
あるのはただ、長い悪夢から醒めたような、ひどく乾いた自嘲の笑みだけだった。
「……ええ。私の負けだ。……物心ついた時から、私を救った教会の恩義すらもが仕組まれたマッチポンプだと知ったあの日から。私の人生は、ずっと偽物だらけだった」
彼は自らの胸元――豪奢な法衣の奥に手を当てる。
「……異邦人よ。私の偽物だらけの人生を、お前の『正しい論理』とやらで上書きして見せてくれ」
それが、かつて「意志なき幸福」を目指した狂える管理者の、最期の遺言だった。
教皇が胸に当てた手から、凄まじい光が放たれる。
「なっ……!?」
俺が持っていたナビが、その光――いや、莫大な魔力の奔流に呼応して激しく振動した。
『――警告。対象から、システム管理者権限、および生命力を含む全リソースの強制転送(譲渡)を受信しています』
「おい、やめろグレゴリオ! 命まで渡す気か!」
俺が叫ぶが、光は止まらない。
莫大な魔力を手放していく教皇の肉体は、みるみるうちに水分を失い、急激に老化していく。
艶のあった肌が枯れ木のようにひび割れ、白髪が抜け落ち、文字通り干からびていくのだ。
それは、システムやデータなどではない、生身の「人間」としての、あまりにも生々しい最期だった。
やがて光が完全にナビへ吸い込まれると、教皇だった男は、ただの冷たい骸となって大理石の床に崩れ落ちた。
彼が長年囚われていた狂気と過去から、ようやく解放されたかのように、その枯れ果てた顔は穏やかに目を閉じていた。
「……グレゴリオ。お前の構築したシステムは致命的に間違っておったが……この教団の腐敗を憎み、世界を憂うその想いまでが偽物だったとは、私は思わん」
ヨハネスが静かに進み出、教皇の骸の傍らにひざまずいた。
「ゆっくりと休むがよい。……かつての友よ」
それに続くように、アルフレッドも重い足取りで歩み寄り、静かに目を閉じて祈りを捧げるように片膝をついた。
「……あなたの抱えた絶望も、歪んでしまった救済への願いも、この私が背負い、胸に刻もう。どうか、御魂に安らぎがあらんことを……」
かつて教皇のシステムに敗れた者と、教皇の正義を信じていた者。
二人の真摯なはなむけの言葉が、サーバールームの冷たい空気に静かに溶けていく。
『……マスター。教皇から譲渡された莫大なリソースの集計が完了しました』
静寂を破ったのは、限界まで熱を帯びたナビの合成音声だった。
『現在蓄積されたリソースを用いれば、元の世界(地球)への「帰還ゲート」を構築・出力することが可能です』
「え……?」
仲間たちから、息を呑む音が聞こえた。
「元の世界、だと……?」
アルフレッドが目を見開き、ヨハネスが信じられないという顔で俺を見る。
「グレゴリオが言っておった”異邦人”とは……”別の世界からの来訪者”という意味であったのか!」
ヨハネスの驚愕の声。デバッガーズの面々には、俺が異世界人であることは明確に伝えていなかった。
「……なるほど。あなたのその異常な技術と板の出所は、そういうことでしたか」 アッシュも目を丸くしている。
「ああ、そうだ。俺は……」 俺が口を開きかけた、その時だった。
「ちょっと待ちなさい!」
鋭いヒールの音が響き、ハディージャがずかずかと前に進み出てきた。
その美しい顔には、明確な怒りと焦りがないまぜになっている。
彼女の背後で、ザインが音もなく短剣の柄に手をかけ、俺を逃がすまいと立ち塞がった。
「まだ教会の残党も、仕組みも残ってるのよ。
私の莫大な投資の『リターン』を確定させずに、自分だけ元の世界へ逃げる気!? そんな莫大な投資の踏み倒し、私が許すとでも思って!」
彼女の剣幕に、俺は思わず口角を上げた。
この大混乱の最中にあっても、何よりもビジネスのリターンを優先するとは。さすがは最高の投資家だ。
だが、ナビの無機質な声が続く。
『しかしマスター。このエネルギーを帰還には使わず、
世界全土への「大規模修正パッチ(グランドパッチ)」の適用に回せば、魔法というバグの根源を完全に消去し、世界を正常化できます』
『……ただし、その場合、帰還リソースは消費され、元の世界へは二度と帰れません』
俺は、ハディージャに向かって不敵に笑いかけた。
「安心しろ、ハディージャ。俺が今から打つパッチで、教会の基幹システムは物理的に完全沈黙する。
教会の聖貨は、ただの重たい石ころに変わる」
俺は彼女の目を見据える。
「……お前の『旧硬貨』の、オープン経済圏の一人勝ちだ。これ以上ない、最高のリターンだろ?」
ハディージャは大きく目を見開いた。
彼女の頭の中で、猛烈な速度で皮算用が弾き出されるのが分かる。
やがて、彼女の顔に野心的な、極上の笑みが浮かんだ。
「ザイン、剣を収めなさい」
「……はっ」
「……ふふっ、ええ。悪くないビジネスね。やりなさい、奇蹟殺し」
ハディージャは、優雅に道を譲った。
俺は、熱を放つナビの画面に視線を落とした。 画面には、二つの選択肢が表示されている。
【地球への帰還ゲート構築(Return)】 【大規模修正パッチの適用(Grand Patch)】
――帰還。 その文字から、目が離せなかった。
深夜のオフィス、キーボードの乾いた打鍵音。 ぬるくなったエナジードリンクの味。
始発を待つ間の、コンビニの眩しい照明と、雨に濡れたアスファルトの匂い。
当たり前のように繋がるネットワークと、安全で、退屈で、愛おしかった日常。
……帰りたかった。 バグだらけの異世界で、這いつくばりながら前へ進み、命をすり減らすたびに、ずっと、ずっと帰りたかった。
俺が元いた場所。俺が積み上げてきたエンジニアとしてのキャリアが、そこにはある。
このボタンを左へスワイプすれば、俺は、あの退屈で平凡な日常へ帰れるのだ。
だが。
「……リリアの命を犠牲にしてまで呼ばれた俺が、バグだらけの世界を放り出して帰れるかよ」
俺は振り返り、アルフレッドの腕の中で静かに眠るセレスと、傷だらけになりながらも俺を信じてここまでついてきてくれた仲間たちを見渡した。
「それに……俺が命懸けでデバッグしたこの世界が、これから先どう動いていくのか……最後まで見届ける責任があるからな。それがエンジニアってやつだ」
迷いは、一ミリもなかった。
俺は晴れやかな笑顔で、「帰還」の選択肢を左へスワイプし、破棄(Uncommitted)した。
そして。
世界を救う「大規模修正パッチ」の実行(Enter)キーに、力強く指を置いた。




