17『運命』は、名前を呼ぶ
名前で呼ぶなんて、領地の未来を見据えて動いてくれている旦那様への対価としてあまりにも不釣り合いで、驚きのあまり言葉がすぐに出なかった。
「駄目だろうか?」
それなのに、どうしてそんなにも私の様子を窺うように見てくるのだろう。
不安そうにしているのだろう。
「そんなことありませんよ、ライラクス様」
「できれば、ライラクスと……」
懇願の色が交じった声に、旦那様にとって名前で呼ぶということがとても重要なのだと伝わってくる。
以前、名前で呼んでほしいと言われて断ったことがあったけど、その時の旦那様はどんな気持ちだったのだろうか。
線引きしたいという気持ちだけで断ってはいけなかったのかもしれない。
「ライラクス」
そう言った瞬間、あまりにも嬉しそうに笑うものだから、思わずその笑顔に視線が奪われた。
だって、名前を呼んだだけなのだ。
それだけなのに、どうしてこんなに嬉しそうにできるのだろう。
「これで、やっと本当の家族になれた気がするよ。ありがとう、ヴォレッカ」
「家族も何も、私とライラクスはもう夫婦でしたよ」
「そうだね。それでも、私にとっては特別なことなんだ。様付けで名前を呼ばれることはあるけれど、ライラクスと私を呼ぶのは両親だけで、いつか誰もそう呼んでくれる人はいなくなると思っていたから」
少し寂しそうに言ったライラクスに、やっとほんの少し分かった気がする。
きっとライラクスにとっての私との結婚は、単に安心して眠れて、社交界での女避けという役割だけじゃなかったんだ……。
「これから先、いくらでも私がライラクスの名前を呼びますよ」
「うん、ありがとう」
「あと、絶対にライラクスより長生きしてみせるので、誰もあなたの名前を呼ぶ人がいなくなるなんてことはありません」
「そうか……」
他の『運命』の人が現れるまでとか、仮初の妻だとか、そんなことを考えるのはもうやめよう。
ライラクスが私をいらないと思える日までそばにいて、彼の名前を呼び続けよう。
当たり前の日常を一緒に送ろう。
これは、恋としての好きではない。それでも、たしかに私の中でライラクスへの想いが生まれた。
きっとそれは、尊敬であり、親愛であり、名前も知らない感情の形だ。
「抱きしめてもいいだろうか?」
「もちろんですよ」
そう言って手を広げれば、ライラクスはギュッと私を抱きしめた。
私よりも大きな体は、いくら美しいといえど男の人のもので、いつかエリオットもこんな風になるんだろうなと思う。
「なぁ、ヴォレッカ」
「何ですか?」
「その、結婚式のドレスなんだが、私も一緒にデザインを考えてもいいかな?」
おずおずと聞かれた言葉に「いいですよ」と答えようとして、おや? と思う。
「デザインを考えるんですか?」
「あぁ、デザイナーと一緒に考えていくことになる。来週の頭に我が家に来ることになっていたはずだよ」
当然のように言われ、私を抱きしめていたライラクスの胸を押して少し距離を取る。
「聞いてないんですけど」
「今言ったからね」
悪びれることなく言われ、またか……と思う。
「いいですか、ライラクス。相談してとまでは言いませんから、私が関わることは必ず報告と連絡をしてください」
「すまなかった」
少ししょんぼりとしてしまったライラクスには、さっきまでの頼もしさはない。
「次から気を付けていただければいいですよ」
思わず笑って言えば、また抱きしめられる。
「必ず言う」
「はい。お願いしますね。さ、そろそろ寝ましょうか」
「そうだね」
そう言うと、ライラクスはいそいそと私と彼の間にクッションの境界線を作る。
「あの、それってやっぱりいるんですか?」
「襲ってもいいなら、いらないけど」
真剣な顔でそう言われ、もしや冗談ではない? と思う。
その真偽は分からないけれど、境界線は必要だと私の直感が言っている。
「いえ、やはり必要だと思います」
「うん。サミレット領での結婚式が終わるまではあった方がいいよね。これから、やらなければならないことは山積みなわけだし。妊娠したら一週間かけてサミレット領へ行くの、心配で許可できなくなるしね」
暗に結婚式が終われば抱くと言われている気がするのは、気のせいだろうか。
いや、跡継ぎは必要なわけだし、当たり前といえば当たり前なんだけど。
「だから、今はこれだけお願いしてもいいかな?」
そう言いながら、器用にクッションを崩すことなく私の陣地に差し込まれた手。
「えっと……」
この手は何を求めているんだろう。
まさか、手を繋ぐとか? いやいや、エリオットじゃないんだし、さみしいから手を繋ぎたいとはならない……はず。
うーん、他に考えられるのは手のマッサージと、手相を見るくらい?
手相はあり得ないだろうし、手のマッサージが有力かな。お疲れだろうし、夫を労わるのも妻のつとめだよね。
「んー、ヴォレッカは何をしているのかな?」
「手のマッサージです! 気持ち良くないですか?」
「いや、気持ちいいよ」
良かった! 両親からは好評だったんだよね。
「でも、私は手を繋ぎたかったんだけどね」
「…………え?」
「だから、手を繋ぎたかったんだよ」
……まさかのパターンだったのか。
私は横になると、何事もなかったかのようにライラクスの手を握る。
「おやすみなさい」
「あ、あぁ、おやすみ」
クッションの向こう側にいるライラクスの返事を聞きながら、目を閉じる。
なるほど。ライラクスは、さみしんぼうだったのか。
これで、安心して寝てくれるといいな。
あぁ、人の体温ってどうしてこんなに眠たくなるんだろう。
ライラクスが緊張でなかなか寝付けなくなるなんて知るわけもなく、私はあっという間に深い眠りについた。




