16『運命』は、未来に希望を見る
その日の夜、寝室で旦那様を前に、私は大きく頭を下げた。
「実家に帰らせてください」
「断る」
「理由くらい聞いてくれてもいいじゃないですか」
「ならば、先にその理由とやらを言ったらどうかな?」
少し不機嫌そうに言う旦那様に、何で? と思う。
別に里帰りくらい良くないかな?
結婚式まで、まだ一年弱あるわけだし。
「エリオットに会いたいんです」
「……エリオット?」
「はい。帰ってくると約束してて、その約束をどうしても守りたいんです」
そう言うと、旦那様はにっこりと笑った。
その笑みに嫌な予感がする。旦那様は嫌な時や、絶対に譲らない時、こうやって笑うのだ。
「駄目だな」
「どうしてですか?」
「どうしてだって? 私のことを愛していないのは知っているけど、そこまで愚弄してくるとはね」
「え?」
里帰りしたいという希望を言っただけなのに、どうしてそんなに怒るわけ?
「他所の男に会いに帰りたいという妻を、分かったと簡単に帰すわけないだろう?」
「はい? 他所の男って、エリオットは──」
「もうこの話は終いだ。これ以上、聞きたくなどないよ」
私に背を向け、布団にもぐりこんでしまった旦那様の布団を引っぺがす。
「ヴォレッカ! 境界線は超えるなと言っているだろ⁉」
「じゃあ、逃げないでください」
「逃げてなど……」
「とにかく、最後まで人の話は聞いてもらえませんか? エリオットは、私の弟ですよ」
驚きに見開かれた目が、じっと私を見ている。
「…………弟?」
「そうです。エリオット・サミレットは、私の可愛い六歳の弟です。私のこと調べたのに、知らなかったんですか?」
じとりと見れば、旦那様は気まずそうに視線をそらす。
「悪かったよ」
ぶすっとした表情で言われ、ため息がこぼれた。
何か、出会った頃より旦那様が子どもっぽくなっている気がするのは、気のせいだろうか。
「というわけで、実家に帰らせてください」
「サミレット領まで片道一週間だったか」
「はい」
「申し訳ないが、里帰りは少し待ってくれないか?」
「どうしてですか?」
「ドレスのデザインを決めるのに、ヴォレッカがいないと困るんだよ」
「もうドレスはたくさんありますし、これ以上は必要ありません」
まぁ、そのドレスもひらひらのリボンとレースたっぷりで、残念ながら私には似合っていないのだけれど。
「あぁ、そのドレスじゃない。ウェディングドレスだよ。私が勝手に決めてしまってもいいのかい?」
「それは……」
「リボンとレースをふんだんに使ったものにするけど──」
「えっ⁉」
それはちょっと……いや、かなり遠慮したい。
人生でもう一度着られるかどうか分からないウェディングドレス。せっかくなら、少しでも自分に似合うものを選びたい。
でも、エリオットとの約束が……。
「もし行くなら、あと最低でも一月半は待ってもらえないか?」
「いいですけど、一月半後に何かあるんですか?」
「私も一緒に行けるからだよ」
「……何しに行くんです?」
「何だ、私が行くと嫌なのか?」
「そういうわけじゃないですけど、旦那様はお忙しいじゃないですか」
昨日は、ご両親が王都にいる最後の日だったから屋敷にいらっしゃったけど、基本的に旦那様とは朝と夜しか会えない。
それも朝は早いし、夜も私が寝てしまってから帰ってきている日だってある。
「その準備も兼ねて忙しいんだよ」
「準備って、着替えさえあれば大丈夫ですよ? あ、我が家はこのお屋敷に比べてビックリするくらい狭いので、驚かないでくださいね」
「別に屋敷の大きさぐらいでは、何も言わないよ。準備ってのは、堤防を作るための準備だ」
「堤防ですか?」
「あぁ、サミレット領に新たな堤防を作る」
「ですが、堤防自体はサミレット領でも作ってはいますよ」
そう、大河が氾濫しないように作ってはいるのだ。
だけど、その堤防も大河の流れの勢いで駄目になった。
昨年も一昨年も、意味はなかった。
それでも、今年も作りはじめてはいるけれど。
「それは、土で作ったものだろう?」
「そうですけど」
「だから、今度は木杭と石、土の三層構造で作る」
聞いたことのない堤防に、首を傾げる。
「その方が頑丈になるんだ。氾濫したことのある場所の記録は残っているか?」
「父が持っていると思います」
「なら、そこから作っていく」
本当にそれで氾濫しなくなるのだろうか。
もしそうであれば、こんなにありがたいことはない。けれど、旦那様の話の中でも問題はある。
「木は領内で手に入りますが、採石場はありませんよ」
材料が手に入らないのだ。
どんなに素晴らしい案だとしても、サミレット領では実現できない。
そんな私に旦那様は優しい笑みを浮かべた。
「何のための、ヘンルートゥ家だと思っているんだ? きちんとそこら辺も手配してある。職人の確保もな。そのために、父上たちに帰ってきてもらっていたのもあるんだよ」
全く、気が付かなかった。
旦那様はサミレット領の未来のことを考えて動いてくれていたんだ。
私は、今年は無事に小麦が育つようにと願うことしかしていなかったのに。
「ありがとうございます……」
深く深く頭を下げる。
下を向いた私の目からは、ぽたぽたと涙がこぼれ落ち、かけ布団に染み込んでいった。
ありがたくて、自分が情けなくて、領地の未来に光が見えたことが嬉しくて……。様々な感情がぐちゃぐちゃになって、涙という形で溢れて止まらない。
「大変だったな。私はヴォレッカの夫なんだから、もっと頼ってほしい」
「も……十分すぎるほど………頼ってます…………」
「そうか? まだまだ足りないくらいだよ。ヴォレッカは、もっと甘えるということを覚えた方がいい」
そう言った声があまりにも温かくて、涙はあふれるばかりで止まらない。
サミレット領を返上しなければいけないと両親から聞いた時も、支援してくれる結婚相手を探している時も、涙一滴さえ出なかったのに、どうして止まらないの……。
「……旦那様のためなら何でもします。命も惜しくありません。このご恩は生涯かけても返せないほどだけど、それでも一生をかけてお返しし続けます」
「大げさだよ」
「そんなことありません。旦那様の望みなら、何でも叶えます」
「何でも?」
「はい、どんなことでも!」
顔を上げ、旦那様の顔を見れば、困ったように笑っていた。
「女の子が、何でもなんて言ってはいけないよ。私がもし悪い男だったら、どうするつもりだい?」
「それでも、何でもします」
迷わずそう言えば、旦那様は目を丸くして、私を凝視した。
そして、少し迷ったように口を開く。
「本当に何でもいいのかな?」
「もちろんです」
「なら、名前で……ライラクスと呼んでもらえないだろうか」
その言葉に、今度は私が目を丸くして旦那様を見つめた。




