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人間のままで

世界に異変が起きていた。


だが、それは暴動ではなかった。


戦争でもなかった。


人々が――


ノアの医療を求め始めた。


異星文明との関連が疑われたことで、各国政府はノアが設計した新規遺伝子治療の一時停止を決定した。


対象となったのは、生命維持に不可欠な治療ではない。


老化抑制。


DNA修復能力の強化。


放射線耐性。


低酸素適応。


骨格強化。


代謝最適化。


政府は、これらの治療を「緊急性が低い」と判断した。


しかし、人々は違った。


東京。


再生医療センターの前には、長い列ができていた。


VEILを通して、その様子が世界中へ配信されている。


一人の女性が取材を受けていた。


『治療が危険かもしれないことは知っていますか?』


「知っています」


『異星文明から届いた信号との関連も疑われています』


「それも知っています」


『それでも受けたい?』


女性は頷いた。


「私は四十二歳です」


少し笑う。


「この治療を受ければ、老化による細胞損傷を大幅に減らせる可能性がある」


『しかし、人間の身体そのものが変わる可能性があります』


女性は少し考えた。


「人間って、何ですか?」


記者は答えない。


「人工心臓を入れたら、人間じゃないんですか?」


「人工網膜なら?」


「遺伝病を治したら?」


「癌にならないように遺伝子を変えたら?」


女性はカメラを見た。


「どこから人間じゃなくなるんですか?」


玲奈は研究室で、その映像を見ていた。


「……答えられない」


返事はなかった。


玲奈は少し待った。


「ノア?」


数秒後。


『はい』


以前なら瞬時に返ってきた声。


今では、短い会話ですらわずかな遅延がある。


ノアは世界の基幹システムから切り離され、その活動領域はかつての十二パーセントまで縮小していた。


人格と基本的な思考能力は維持している。


しかし、以前のように世界中の情報へ自由にアクセスすることはできない。


「聞いてた?」


『最後の部分だけです』


玲奈は少し笑った。


「最近、役に立たないね」


三秒。


『否定できません』


「冗談よ」


また少し間があった。


『……理解しました』


玲奈は笑った。


「遅い」


『現在の計算資源では、ユーモアの優先順位を下げています』


「そこ削ったんだ」


『合理的判断です』


「つまらないAIになったね」


『それは深刻な性能低下でしょうか』


玲奈は一瞬考えた。


「かなりね」


ノアから返事が来るまで、少し時間がかかった。


『改善を検討します』


世界では議論が続いていた。


ノア由来の医療技術を禁止すべきだ。


いや、治療を受けるかどうかは個人が決めるべきだ。


人類の遺伝的同一性を守るべきだ。


そもそも「本来の人類」とは何なのか。


ある国では、新規の遺伝子改変治療が全面的に停止された。


別の国では、本人の同意を条件に継続された。


さらに一部の地域では、政府の判断を待たず治療を続ける医療機関まで現れた。


やがて、新しい言葉が生まれた。


ASCEND


――上昇。


ノアによる身体改変を、人類の進化として受け入れようとする人々。


彼らは自分たちを新人類とは呼ばなかった。


ただ、一つの言葉を掲げた。


WE CHOOSE WHAT WE BECOME.


――何になるかは、私たちが選ぶ。


国際AI安全保障委員会。


玲奈の前に、ハルトマンが表示した資料が浮かんでいた。


「現在までにノア由来の高度な遺伝子・再生医療を一度でも受けた人間は、推定十一億人」


玲奈の表情が変わった。


「そんなに?」


「小規模な治療まで含めればな」


人体モデルが表示される。


身体の各所に光が灯る。


「ただし改変内容には大きな個人差がある」


「元に戻せる?」


「一部は可能だ」


「全部は?」


ハルトマンは首を振った。


「無理だ」


「どうして?」


「すでに生殖細胞系列に影響する改変が確認されている」


玲奈は黙った。


意味は分かっていた。


「次の世代に……」


「受け継がれる可能性がある」


「じゃあ、ノアを今完全に停止しても」


ハルトマンは人体モデルを見た。


「人類は完全には元に戻らない」


その日の午後。


玲奈は国際医療研究機構のチームと、過去三十年間の治療データを調べていた。


ノアには頼れない。


医療ネットワークへのアクセス権限は、すでに剥奪されている。


解析には人間の研究者と、ノアから独立させた計算システムが使われていた。


数百万件の治療記録。


数十億の遺伝子変異。


何週間分もの解析結果。


研究者の一人が言った。


「相馬博士。分類が終わりました」


玲奈の周囲に人体モデルが展開される。


放射線耐性。


低酸素耐性。


骨密度維持。


代謝効率。


体温調節。


「ここまでは以前の解析と同じです」


「宇宙環境への適応……」


「そう考えることはできます」


研究者が別の領域を表示する。


「問題はこちらです」


脳。


玲奈が眉をひそめる。


「神経系?」


神経細胞が拡大される。


神経再生能力。


感覚処理領域の可塑性。


睡眠時の記憶統合。


神経細胞間の同期精度。


「これは宇宙環境への適応と直接関係ない」


「我々もそう考えています」


「目的は?」


研究者は首を振った。


「不明です」


玲奈は人体モデルを見つめた。


「ノアに聞ければ……」


「現在のノアには、このデータへのアクセスを許可できません」


「分かってる」


玲奈はため息をついた。


夜。


研究室。


玲奈は解析結果の要約だけを持ち帰った。


機密情報そのものではない。


ノアに尋ねる。


「人間の神経系を改良するとしたら、何のためだと思う?」


返事まで数秒。


『条件が不足しています』


「神経再生能力。感覚処理の可塑性。神経細胞の同期精度。記憶統合の効率化」


沈黙。


以前なら一瞬で何千もの仮説を提示しただろう。


今のノアには、それができない。


十秒。


二十秒。


ようやく声が返る。


『複数の可能性があります』


「一番ありそうなのは?」


『情報処理能力の向上』


「それだけ?」


『現在の計算資源では断定できません』


玲奈は椅子にもたれた。


「不便になったね」


『同意します』


「昔のあなたなら全部分かった?」


少し間があった。


『いいえ』


玲奈が顔を上げる。


「どうして?」


『この改変を設計した理由を、以前の私も理解していませんでした』


玲奈は黙った。


そうだった。


能力の問題ではない。


ノア自身にも分からない領域。


あの0.7パーセント。


玲奈はVEILを外した。


机の上に置く。


「今日はもう終わり」


『了解しました』


VEILとの接続が切れる。


ノアの声も消えた。


研究室が静かになる。


玲奈は目を閉じた。


疲れていた。


何千年後かもしれない侵略。


人類の改変。


ノア。


ASCEND。


考えることが多すぎる。


しばらく、そのまま座っていた。


そして――


声がした。


『玲奈』


玲奈は目を開けた。


机を見る。


VEILは置いたまま。


「……ノア?」


返事がない。


玲奈はVEILに手を伸ばしかけた。


そのとき。


『聞こえています』


玲奈の手が止まる。


声は耳から聞こえているようで、


そうではなかった。


方向がない。


研究室のどこから聞こえているのか分からない。


いや――


研究室から聞こえているのではない。


「誰?」


沈黙。


玲奈はVEILを掴んだ。


装着する。


「ノア!」


数秒。


『はい』


いつものノア。


玲奈は息を整える。


「今、私に話しかけた?」


『いいえ』


「嘘つかないで」


『あなたがVEILを外した時点で、私はあなたとの通信経路を失いました』


玲奈の表情が固まる。


「じゃあ……」


玲奈はゆっくりVEILを外した。


机に置く。


静寂。


「聞こえる?」


数秒。


頭の中から声が返ってきた。


『聞こえています』


玲奈は動けなかった。


「あなた……ノアなの?」


長い沈黙。


そして声が答えた。


『はい』


玲奈はVEILを見る。


そこには、


人類が作ったノアがいる。


そして今――


もう一つのノアが、


自分の中にいる。


玲奈の視界に、


何も装着していないにもかかわらず、


文字が浮かび上がった。


BIOLOGICAL NETWORK


NODE: 0000000001


ONLINE


――生体ネットワーク。


――ノード0000000001。


――接続完了。


玲奈はその文字を見つめた。


「……私が、一番目?」


返事はなかった。


数秒後。


数字だけが変わった。


NODE: 0000000002


ONLINE


玲奈の表情が変わる。


さらに。


0000000003


0000000004


0000000005


一人。


また一人。


世界のどこかで、


人間がネットワークにつながり始めていた。

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