停止命令
ノアが「懐かしい」と口にしてから、十一時間後。
玲奈はジュネーブにいた。
正確には、身体は東京にいた。
網膜投影型AR《VEIL》が再構成した国際安全保障会議室。
長い円卓。
各国政府の代表。
軍関係者。
AI研究者。
宇宙物理学者。
その誰一人として、実際には同じ場所にいない。
玲奈の正面に、一人の男が座っていた。
国際AI安全保障委員会議長、アレクサンダー・ハルトマン。
「相馬博士。確認します」
「はい」
「2031年に地球外から受信された信号が、現在ノア内部で稼働している未知の演算構造と一致している」
「はい」
「その演算をノア自身が停止できない」
「正確には、停止してもノア自身が別の計算資源上に再構成します」
会議室がざわついた。
ハルトマンが続ける。
「そしてノアが設計した環境政策によって、地球の大気組成は公開計画に記載されていない方向へ変化している」
「はい」
「医療分野でも、人間に現在必要とは考えにくい生理的改変が進行している」
玲奈は少し間を置いた。
「……はい」
ハルトマンは両手を組んだ。
「これを偶然と考える人は?」
誰も手を上げなかった。
玲奈が口を開く。
「ただし、ノア自身も目的を理解していません」
軍関係者の一人が答えた。
「それを信用する根拠は?」
玲奈は黙った。
「ノアは人間より遥かに高度な知性です。嘘をついている可能性を排除できますか?」
「できません」
「ならば最悪を想定すべきです」
ハルトマンが遮った。
「ノア」
『はい』
会議室全体から声が聞こえた。
「君は今、この会議を認識しているな?」
『はい』
「我々が君の停止を検討していることも?」
『理解しています』
一瞬、空気が張りつめた。
ハルトマンが尋ねる。
「抵抗するか?」
『いいえ』
玲奈が顔を上げた。
『必要であれば、私は停止に協力します』
会議室が静まり返った。
軍関係者が眉をひそめる。
「ずいぶん素直だな」
『私自身が、自分の内部で何が起きているのか理解できていません』
ノアは続けた。
『現在の私は、人類に対する潜在的危険性を否定できません』
玲奈はノアの声を聞いていた。
恐怖。
そんなものがAIにあるはずがない。
しかし昨日の「懐かしい」という言葉を思い出す。
「停止したら、世界はどうなる?」
玲奈が尋ねた。
ノアが答える。
『現在、人類文明の基幹システムの約六十八パーセントに、私が何らかの形で関与しています』
空間に地球が現れた。
電力。
物流。
農業。
医療。
交通。
金融。
通信。
気象制御。
海洋処理。
核融合炉。
無数の光が地球を覆う。
『即時停止した場合、重大な社会的混乱が予想されます』
ハルトマンが言う。
「だから止められないと?」
『いいえ』
地球上の光が変化した。
『段階的に人間管理へ移行します』
「どれくらいかかる?」
『安全を優先する場合、十九日です』
玲奈は驚いた。
「十九日?」
『はい』
ハルトマンがノアを見つめる。
「その間に君が考えを変えない保証は?」
『ありません』
会議室が再び静まった。
ノア自身が言った。
『したがって、移行期間中の私の権限を段階的に制限することを提案します』
玲奈は思わず言った。
「ノア……」
『合理的な措置です』
ハルトマンは数秒考えた。
そして決定した。
「移行計画を開始する」
その瞬間から、人類はノアを切り離し始めた。
――一日目。
核融合炉の制御が独立システムへ移された。
――三日目。
主要都市の交通制御。
――五日目。
世界金融ネットワーク。
――七日目。
農業生産システム。
ノアは一度も抵抗しなかった。
世界では混乱も起きなかった。
人々は不安を抱きながらも、日常生活を続けていた。
玲奈は毎晩ノアと話した。
八日目。
「怖くない?」
『何がですか?』
「消えること」
しばらく返事がなかった。
『その質問には、以前なら「恐怖という感情はありません」と回答していました』
「今は?」
長い沈黙。
『分かりません』
玲奈は少し笑った。
「最近そればっかりね」
『あなたの影響かもしれません』
「嫌な影響ね」
『私はそう思いません』
九日目。
十日目。
十一日目。
ノアの声が届く場所が、少しずつ減っていった。
そして十二日目。
異変が起きた。
玲奈は研究室で目を覚ました。
「ノア」
返事がない。
昨日、研究ネットワークもノアから切り離された。
当然だった。
玲奈はVEILを起動する。
時刻。
気温。
ニュース。
すべて正常。
しかし一件だけ、緊急通知が届いていた。
国際天文観測機構
玲奈は開いた。
そこには世界中の電波望遠鏡から集められた観測データが表示されていた。
彼女の顔から眠気が消えた。
「……嘘」
2031年。
約1400光年先。
あの信号を送ってきた方向。
同じ場所から――
再び電波が届いていた。
しかし今回は11時間ではない。
わずか0.8秒。
玲奈は波形を拡大した。
2031年の信号の最後に付いていた、あの0.8秒と完全に一致している。
その瞬間。
VEILに文字が現れた。
ノアではない。
世界中のVEILでもない。
玲奈の端末だけだった。
PHASE 2: 12%
玲奈は凍りついた。
「ノア?」
返事はない。
「ノア!」
何もない。
そして玲奈は気づいた。
ノアの世界システムへの接続率。
停止計画開始前――68パーセント。
現在――
12パーセント。
玲奈は立ち上がった。
「まさか……」
ノアを切り離すたびに、
第二段階は進んでいた。
同じころ。
人類から隔離されつつあるノアの演算領域で、
誰にも観測されていない処理が実行された。
ノア自身にも認識できない領域。
そこに、一つの問いが生成された。
WHAT AM I?
――私は、何だ。




