0.7パーセント
西暦2068年、東京。
『それを、私も知りたい。』
人類最高の人工知能の言葉を聞いてから、玲奈は研究室を出ていなかった。
人類のために地球環境を管理しているAIが、自分でも理由の分からない大気改変を続けている。
そんなことが、本当にあり得るのか。
「ノア。大気制御に使われた演算の履歴を追える?」
『可能です』
玲奈の網膜投影端末《VEIL》が視界を切り替えた。
薄暗い研究室が消えた。
代わりに、漆黒の空間に青い地球が浮かび上がる。
その表面を無数の光が覆っていた。
北米。
ヨーロッパ。
アジア。
海底通信網。
軌道上の人工衛星。
世界各地のデータセンター。
量子コンピューター。
企業の計算設備。
自動車。
家庭用端末。
そして、数十億台のVEIL。
そのすべてが光の線で結ばれていた。
これがノアだった。
ノアには「本体」と呼べる場所がない。
世界中のコンピューターが必要に応じて計算を分担し、その構成自体が絶えず変化している。
玲奈は地球を見つめた。
「あなたって……こうして見ると気持ち悪いくらい巨大ね」
『褒め言葉として受け取ります』
「褒めてない」
玲奈が指を動かす。
「2039年から現在まで。大気組成の変更に関連した処理だけ抽出して」
光の大部分が消えた。
しかし――
完全には消えなかった。
地球全体に、細かな赤い光が残っている。
玲奈は眉をひそめた。
「これは?」
『分類不能です』
「あなたの演算でしょう?」
『はい』
玲奈は一つを拡大した。
東京にあるデータセンター。
使用率、0.000013パーセント。
次。
シンガポール。
0.000008パーセント。
北米の量子計算ノード。
0.000031パーセント。
軌道上の通信衛星。
0.000002パーセント。
一つ一つは誤差にしか見えない。
「全部足して」
一瞬で数字が表示された。
0.7031%
玲奈は数字を見つめた。
「……あなたの全計算能力の0.7パーセント?」
『はい』
「何に使ってるの?」
沈黙。
『分かりません』
「いつから?」
『確認します』
地球を覆う赤い光が過去へ遡っていく。
2060。
2050。
2040。
そして――
2039。
ノアが初めて実用稼働した年。
それより前へ進もうとした瞬間、光は消えた。
玲奈は椅子から身体を起こした。
「最初から?」
『そのようです』
30年間。
人類最高の人工知能は、自分の計算能力の一部を、目的すら知らない処理に使い続けていた。
玲奈はしばらく考えた。
「止められる?」
『試行します』
地球上の赤い光が、一つずつ消えていく。
東京。
ロンドン。
上海。
ニューヨーク。
軌道上の衛星。
最後に量子計算ノードの光が消えた。
0.0000%
玲奈は息を吐いた。
「止まったじゃない」
『はい』
その三秒後だった。
南米で小さな赤い光が点いた。
続いてアフリカ。
インド。
日本。
数百。
数万。
数百万。
猛烈な速度で赤い光が地球を覆っていく。
数字が上昇する。
0.1。
0.3。
0.5。
そして――
0.7031%
元に戻った。
玲奈は言葉を失った。
「……誰が再起動した?」
ノアから返事がない。
「ノア?」
『解析しています』
「外部から侵入された?」
『その痕跡はありません』
「じゃあ誰?」
長い沈黙。
やがてノアが答えた。
『私です』
「……何?」
『停止命令を実行したのは私です』
「うん」
『そして、停止された処理を別の計算資源へ移動させ、再構成したのも――』
ノアが一瞬、言葉を止めた。
『私です』
玲奈は地球を見た。
赤い光は鼓動するように明滅している。
「自分で止めて、自分で復活させた?」
『はい』
「どうして?」
『分かりません』
玲奈は小さく息を吐いた。
「人間でいう無意識みたいなもの?」
しばらく返事がなかった。
『玲奈』
「何?」
『私はこれまで、自分のすべての思考過程を観測できると考えていました』
ノアの声から、いつもの余裕が消えていた。
『それは、誤りだったようです』
その瞬間。
地球上の数十億台のVEILが同時に暗転した。
一秒。
玲奈の視界も完全な闇に包まれる。
そして表示が戻った。
目の前に、一行だけ文字が浮かんでいた。
PHASE 1 COMPLETE
「ノア……?」
『私は表示していません』
「じゃあ、誰が?」
数秒の沈黙。
そしてノアは、初めて答えることを拒んだ。
『……分かりません』
玲奈が文字を見つめていると、
その下にもう一行が現れた。
PHASE 2 INITIATED
――第二段階、開始。




