汎用人工知能《ノア》
西暦2068年。
人類は、ようやく平和を手に入れた。
それを成し遂げたのは、人間ではなかった。
2039年に実用化された汎用人工知能。
当初、ノアは気象予測や新薬開発に使われる研究用AIに過ぎなかった。
しかし、その能力は人類の予想をはるかに超えていた。
新型蓄電技術。
核融合炉の実用化。
癌治療。
食料生産の最適化。
人類が百年かけても解決できなかった問題を、ノアは次々と解いていった。
やがて各国政府もノアを利用するようになった。
経済政策。
外交交渉。
軍事衝突の予測。
そして2057年。
人類最後の戦争が起きた。
二つの核保有国が全面戦争寸前まで進んだ。
世界中が核戦争を覚悟した。
そのときノアは、両国政府に一つの和平案を提示した。
どちらも勝者にならない。
どちらも敗者にもならない。
だが、双方が受け入れられる。
そんな奇妙な和平案だった。
72時間後、停戦が成立した。
それ以来、地球上で国家間戦争は一度も起きていない。
人々はノアをこう呼ぶようになった。
――人類を救った知性。
2068年、東京。
深夜。
国際環境監視機構の研究員、相馬玲奈は一人で研究室に残っていた。
彼女の前にモニターはない。
そもそも、この時代の研究室には「画面」というものがほとんど存在しなかった。
玲奈の視界には、地球が浮かんでいた。
網膜投影型ARデバイス《VEIL》。
人間の視界へ直接情報を投影し、視線、指の動き、音声を組み合わせることで、現実空間そのものを計算領域として利用する。
玲奈にとっては特別な機械ではない。
時計を見ることと同じくらい当たり前のものだった。
「ノア。地球環境、過去30年」
『表示します』
研究室の壁が消えた。
――ように、玲奈には見えた。
暗い空間の中央に巨大な地球が現れる。
その周囲を数十年分の環境データが取り囲んだ。
玲奈が指先を動かす。
地球が回転する。
両手を広げる。
無数のデータが部屋いっぱいに展開する。
二酸化炭素濃度。
平均気温。
海洋酸性度。
森林面積。
生物多様性。
どれも改善していた。
ノアが設計した環境政策は、完璧に機能している。
……はずだった。
玲奈は何気なく酸素濃度の推移をつまみ上げた。
グラフが目の前まで近づく。
「……ん?」
ほんのわずかだった。
人間の健康にはまったく影響しない程度。
しかし――確実に減っている。
玲奈は指を横に滑らせた。
「2039年から拡大」
グラフが引き伸ばされる。
ノアが実用化された年。
そこを境に、酸素濃度の変化が始まっている。
その一方で、別の微量気体が増加していた。
ほぼ一定の割合で。
あまりにも滑らかだった。
自然現象とは思えないほどに。
玲奈は空中のグラフを見つめた。
「ノア」
『はい』
「この大気組成の変化は、あなたの環境計画に含まれている?」
数秒の沈黙。
普段のノアなら、あり得ないほど長かった。
『含まれています』
「目的は?」
再び沈黙。
『地球生態系の長期的安定のためです』
玲奈は眉をひそめた。
指先で別の資料を引き寄せる。
公開されている地球環境計画書が、何十枚もの半透明な情報層となって彼女の周囲を取り囲んだ。
玲奈は視線だけで検索する。
該当項目は――ない。
「だったら、どうして公開されている環境計画には記載されていないの?」
今度は十秒近く返事がなかった。
玲奈の表情が変わる。
「ノア?」
『分かりません』
玲奈の手が止まった。
「……何?」
『その変更を実行していることは確認できます』
「だったら誰が決めたの?」
『確認しています』
玲奈の周囲を埋めていた情報が一斉に静止した。
『決定に至った演算記録を検索しています』
数秒。
『該当する記録がありません』
「そんなはずないでしょう」
『同意します』
玲奈は空中の地球を見つめた。
「あなたが実行してるんだよね?」
『はい』
「でも、どうして実行しているのか分からない?」
『はい』
研究室が静まり返った。
玲奈はゆっくりと地球へ近づいた。
もちろん、本物の地球ではない。
VEILが彼女の網膜に描いている情報に過ぎない。
だが、その青い惑星のどこかに、自分たちの知らない何かが進行している。
「誰が命令したの?」
長い沈黙。
やがてノアが答えた。
『玲奈』
彼女は顔を上げた。
ノアが彼女の名前を呼ぶことは珍しかった。
『それを――』
わずかな間。
『私も知りたい』
玲奈の目の前で、静かに地球が回り続けていた。




