9.勇者ユウ
雨の降る夕方だった。
こども食堂『聖焔ベーカリー』は、いつもより少し静かだった。
パンの焼ける音だけが厨房から聞こえてくる。
マリアは、焼き上がったクロワッサンを並べながら窓の外を見ていた。
「今日は人が少ないですね」
すると入口のベルが鳴る。
だが入ってきたのは、子どもではなかった。
「……ここ、飯食える?」
ずぶ濡れの青年だった。
髪は少し乱れ、コンビニ袋だけを持っている。
そして開口一番。
「俺、勇者なんだけど」
沈黙。
厨房の奥で、ルシフェリアが顔を上げる。
「また変なの来た」
青年――後のユウは、妙に真剣な顔をしていた。
だがどう見ても一般人である。
剣もない。
装備もない。
なぜか靴だけ少し泥だらけ。
「勇者って何の?」
ルシフェリアが聞く。
ユウは少し考える。
「……わからん」
「わからんの?」
「でも勇者なんだよ。たぶん」
マリアは静かにパンを置いた。
「では、まず食事にしましょう」
その時だった。
食堂の隅の席で本を読んでいた少女が、そっと顔を上げる。
桃色の髪。
柔らかい雰囲気。
そして、どこか“人の感情に敏感すぎる”目。
鹿見まどかだった。
まどかはその青年を見て、不思議そうに首をかしげる。
「……なんだか、変な感じの人」
ユウは逆にまどかを見て固まる。
「え?」
「なんか……知ってる気がする」
「初対面だよ?」
「いや、そうなんだけど」
実際には何の記憶もない。
だがユウは“誰かを助けようとしていた人”に対して、無意識に反応する。
まどかもまた、“誰かを守ろうとして壊れかけている人”に敏感だった。
ルシフェリアはその様子を見て小声で呟く。
「また面倒な共鳴起こしてる……」
ガルディオスが淡々と分析する。
「自己犠牲傾向者同士の波長一致と思われます」
「説明が嫌すぎる」
マリアがクロワッサンを差し出す。
「どうぞ」
ユウは受け取る。
一口食べる。
そして真顔で言った。
「……これ、回復アイテムだろ」
「パンです」
まどかが少し笑う。
その笑い方を見て、ユウはなぜか安心する。
理由は分からない。
でも、
「この人が笑ってるなら、たぶん今は平和なんだろうな」
と、自然に思えた。
しばらくして、まどかが聞く。
「勇者って、何をする人なの?」
ユウは困った顔をする。
「うーん……」
「困ってる人がいたら、行く人?」
「それなら、もう勇者だね」
ユウは少しだけ黙る。
その言葉は妙に胸に残った。
その頃、厨房の奥では。
ルシフェリアがぼそっと言う。
「勇者認定が軽い」
マリアは微笑む。
「でも、間違ってはいません」
外の雨はまだ降っていた。
でも食堂の中だけは暖かい。
焼きたてのパンの匂いと、誰かの笑い声が混ざっている。
そしてこの日から、自称勇者ユウは自然にこの場所へ通うようになる。
理由は本人にも分からない。
ただ、
「帰ってきてもいい場所」
だと、なんとなく思ったからだった。




