7.聖女マリア
その日、ルシフェリアのVR空間には、いつもと違う“匂いのノイズ”が流れ込んでいた。
バグでも侵入でもない。
ただ、ひたすらに美味しそうな匂いだった。
「……クロワッサンの匂いがする」
ルシフェリアが眉をひそめる。
ガルディオスが即座に解析する。
「VR空間内に物質的匂いデータは存在しません。外部からの“持ち込み”です」
「持ち込みって何を?」
その答えは、すぐに現れた。
VR魔王城の回廊。
そこに、金色の光をまとった女が立っていた。
片手には布に包まれたクロワッサン。
そして、なぜか真剣な顔でそれを守っている。
「……ここです。間違いありません」
元魔王軍四天王・聖女マリアである。
「ちょっと待って、どうやって入ったの」
ルシフェリアの第一声はそれだった。
マリアはクロワッサンを見せるように持ち上げる。
「これに導かれて来ました」
「パンに?」
「はい。特にこの層のバター配分、通常の物理法則を超えています」
「怖い分析やめて」
マリアは一歩前に出る。
「魔王様にお願いがあります」
ルシフェリアは警戒する。
(また世界規模の聖域展開とか言い出すやつだこれ)
しかしマリアの目は戦場のものではなかった。
もっと単純で、もっと切実だった。
「私、孤児院を作りたいのです」
一瞬、VR空間が静止する。
ルシフェリアは聞き返す。
「孤児院?」
「はい。行き場のない子どもたちが安心して眠れる場所です」
ガルディオスが淡々と補足する。
「定義上は“長期滞在型保護施設”に該当します」
「言い方を柔らかくしても意味は同じだよ」
マリアは続ける。
「ですがここには孤児がいないのです」
ルシフェリアはすぐ理解する。
この世界は元々“戦闘・訓練・イベント”を前提に作られている。
プレイヤーは居ても孤児はいない。
マリアは少しだけクロワッサンを見つめる。
「この世界では、“孤児院”を作れないのですね」
ルシフェリアは答える。
「ニートのプレイヤーを見繕って孤児の代わりに出来ないこともないが」
「……それ孤児じゃないです」
そこでガルディオスが思い出したように言う。
「魔王様の本体がある世界なら同じような子供がいたような気がします」
「あー、そういえば孤児院ではないがこども食堂というのがあったな」
マリアが首をかしげる。
「こども食堂?」
ルシフェリアはニヤリと笑った。
「現実世界の東京で、“こども食堂”という形なら可能だ」
「それはどんな所ですの?」
「ある意味、行き場のない子供たちに食事を提供しながら、居場所も提供する仕組みだ」
マリアはクロワッサンを一口割る。
バターの香りがVR空間に広がる。
「魔王様、“こども食堂”に連れて行って下さい。そこで子供たちに美味しいパンを食べさせて上げたいです」
ルシフェリアはため息をつく。
「では私が現実世界へ案内してやろう」
ガルディオスも静かに言う。
「魔王様、店員ゲットですな」
「うるさいわ」
パンの匂いにつられてやって来ただけなのに、いつの間にかパン屋の店員をやらされそうな聖女がそこに居た。
マリアは少しだけ微笑む。
「私の手で、この世界の理不尽をおいしさに変えてみせます」
こうして、元魔王軍四天王・聖女マリアは、VR世界のクロワッサンに導かれて現実世界へ拠点を移し、
“孤児院”という理想を、“こども食堂”という形で実現していくことになる。
そしてその中心には、なぜかいつも焼きたてのパンの匂いがあった。




