第9話:一人で出かけられるもん
ヴェイン公爵邸の執務室に、フローリスの情けない悲鳴が響き渡った。
「やだやだ! 俺もキアラちゃんと一緒にお買い物行く! 君の可愛いドレス姿を一番近くで見たいの!」
デスクには、今日中に処理しなければならない領地運営の書類が山のように積まれている。しかしフローリスは羽ペンを放り出し、お出かけ用のドレスに着替えたキアラの腰にすがりついて離れようとしなかった。
「フローリス、離れろ。お前は終わらせなければならない重要な仕事があるだろう。私一人で十分だ」
「え〜! だってキアラちゃん一人で街に出すなんて心配だし、それにキアラちゃん不足で俺の魔力が枯渇しちゃう……一緒に行くぅ……」
涙目で訴えかけてくる夫に対し、キアラはただ静かにため息をついた。
「フローリス様、奥様のおっしゃる通りです。この書類の山を片付けるまでは、一歩も外へは出しませんよ」
側近の冷ややかな宣告が下り、分厚い決裁書がフローリスの目の前にドンッと置かれる。
「ううっ……キアラちゃぁん……」
ついに観念したフローリスは、まるで飼い主に置いていかれる子犬のようにしゅんと肩を落とし、デスクに突っ伏した。
「気をつけてね……変な虫が寄り付いたら、俺がすぐ飛んでいって焼き払いに行くからね……」
「大袈裟なことを言うな。では、行ってくる」
この世の終わりのように落ち込む夫を残し、キアラは足早に執務室を後にした。
* * *
王都の目抜き通りは、多くの人々で賑わいを見せていた。
護衛を少し後ろに従え、キアラは石畳の通りをゆっくりと歩いていた。彼女の表面上の姿は『完璧に淑やかな公爵令嬢』そのものであり、背筋をピンと伸ばし、控えめな微笑みを浮かべる周囲には気品あるオーラが漂っている。
通りには様々な店が軒を連ねていた。
キアラは、きらびやかな宝石店や流行の帽子屋の前を優雅な足取りで通り過ぎる。しかし、一軒の武具店のショーウィンドウの前を通りかかった時、彼女の足がピタリと止まった。
ガラスの向こうに飾られているのは、見事な彫金が施された護身用の短剣と、実用的で丈夫そうな乗馬用の革ブーツだった。キアラは目を輝かせてガラスに少しだけ近づき、その刃の反り具合や革の質感を食い入るように見つめた。
しばらくじっとそうしていたが、やがてハッと気づいたように姿勢を正し、何事もなかったかのように再び歩き出す。
さらに通りを進むと、今度は少し離れた広場の方から、香ばしく肉を焼く匂いが漂ってきた。
キアラはピクッと肩を揺らし、匂いのする方へとスッと顔を向けた。美味しそうな肉の匂いに引き寄せられるように無意識に一歩踏み出そうとしたが、公爵夫人という自身の立場を思い出したのか、スッと扇を広げて口元を隠し、静かに軌道修正をして大通りへと戻っていった。
そうしていくつかの店を通り過ぎ、最終的にたどり着いたのが、貴族御用達の高級ブティックだった。
美しいシャンデリアが輝くその店内で、キアラは優雅な所作で新作のドレスを眺めていた。フリルやレースがふんだんに使われたドレスを前に、彼女は完璧な微笑みを崩すことなく、品定めの手を動かしている。
そんな彼女の優雅なひとときを打ち破るように、背後から甘ったるく、しかし棘のある声が響いた。
「あら。噂のヴェイン公爵夫人じゃなくて?」
キアラが静かに振り返ると、そこには色鮮やかなドレスで派手に着飾った三人の令嬢たちが立っていた。
彼女たちは結婚前、フローリスが夜会でよく侍らせていた取り巻きの令嬢たちだった。フローリスが結婚を機に夜の街へ一切出なくなり、妻であるキアラにべったりと張り付くようになったせいで、彼女たちはお呼びがかからなくなっていたのである。
「皆様、ごきげんよう。本日はお日柄もよくて絶好のお買い物日和ですわね」
キアラが完璧なお嬢様口調で優雅に微笑みかけると、令嬢たちの顔が苛立ちに歪んだ。
「お上品ぶるのはやめてくださる? 私たち、あなたがフローリス様をどうやって縛り付けているのか知っていてよ。でもね、無理な政略結婚で彼を繋ぎ止めるのは、もう限界じゃないかしら?」
リーダー格らしい赤髪の令嬢が、扇をパチンと鳴らしてキアラに詰め寄った。
「限界、とは……どういう意味でしょう?」
「とぼけないでちょうだい! フローリス様はね、本当はあなたとの義務的な結婚生活になんてうんざりしていらっしゃるのよ! 今日だって、あなた一人で買い物をさせているじゃない! 毎日毎日、愛してもいない堅苦しい妻の機嫌を取って……可哀想なフローリス様!」
別の令嬢が同調するように冷笑を浮かべる。
「ええ、その通りよ。フローリス様が心から愛していらっしゃるのは、私たちなの。あの自由で優しかったフローリス様を、義務感という鎖で縛り付けるのはおやめなさい。さあ、今すぐ身を引いて、フローリス様を私たちのところへ返してちょうだい!」
令嬢たちの言葉が店内に響き渡る。
キアラはしばらく黙って彼女たちの顔を見つめていたが、やがて憂いを帯びた表情を作り上げた。
「……皆様のお気持ちは、よくわかりましたわ」
キアラはそっと目を伏せ、か弱い令嬢のトーンで小さくため息をついた。
「わたくしにお暇を出して、フローリス様をお返ししろと仰るのね」
「ええ、そうよ! 話がわかるなら、さっさと離縁の準備を——」
「ですが、それは不可能ですわ」
キアラが静かに、しかし凛とした声で遮ると、令嬢たちは目を丸くした。
「な、なぜよ! あなただって愛されていない結婚なんて辛いだけでしょう!?」
「愛されているかどうかの問題ではございませんのよ」
キアラはゆっくりと顔を上げ、きらびやかな令嬢たちをまっすぐに見据えた。その黄金色の瞳には、公爵家の娘としての揺るぎない気高さが宿っている。
「わたくしたちの結婚は、ヴェイン公爵家とモーランド公爵家という、王国の行く末を左右する二大貴族の重い『政略結婚』ですの。わたくしやフローリス様の個人的な感情だけで、どうこうできるものではございませんわ」
「そ、それは……」
「わたくしの一存で『はい、別れます』などと、決して言えるはずがありませんの。……我が父であるモーランド公爵、そして、義父であるヴェイン公爵閣下の正式な許しがなければ、わたくしの口からはどのような答えも出せませんわ。お力になれず、本当に残念ですこと」
キアラは扇で口元を隠し、非の打ち所がない優雅な微笑みを浮かべた。
それは貴族社会における完璧で絶対的な『お断り』であった。
「なっ……! 公爵閣下を盾にするなんて、ずるいわよ!」
「ずるくなどありませんわ。これが、家に生まれた娘の『義務』というものですのよ。皆様も、ご自身の家の名に泥を塗るような振る舞いはなさいませんよう、お気をつけあそばせ」
キアラが美しくカーテシー(お辞儀)を決めると、取り巻きの令嬢たちは悔しさに顔を真っ赤に歪めた。公爵の名前を出されてしまっては、身分の劣る彼女たちにはこれ以上何も言い返せない。
令嬢たちは不満げな声を上げながら、逃げるようにブティックから立ち去っていった。
彼女たちの背中を見送りながら、キアラは扇を下ろし、小さく息を吐いた。
そして何事もなかったかのように再び上品な令嬢の歩幅に戻ると、軽い足取りでブティックを去ろうとするのだった。
また明日20時に投稿予定です!よろしくお願いいたします!




