第8話:天才魔術師様
執務室での騒動から数日後。平和なヴェイン邸に、王宮からの急使が駆け込んできた。
内容は、宮廷の魔法局からの緊急の協力要請。国の防衛結界を維持する大規模な術式に異常が発生し、国内最高の魔法の天才であるフローリスの力をどうしても借りたいというものだった。
「えーーっ、絶対やだ! 行かない! 今の俺は愛しのキアラちゃんとの甘い新婚生活を満喫するのに忙しいの! 国の危機とか知らなーい!」
執務室のソファでクッションを抱きしめ、子供のように駄々をこねるフローリス。
以前の彼なら「可愛い宮廷魔術師の女の子たちとお茶でもしに行くか」と軽いノリで出向いていたかもしれないが、今の彼の頭の中はキアラで100%満たされており、妻のそばから一歩でも離れることは苦痛でしかなかった。
「はあ、そんなに嫌がらなくても……」と側近が頭を抱えていると、バンッ!と扉が開いた。
「フローリス!! 王宮からの要請を断る気か!!」
現れたのは、木刀を片手に持ったままのキアラだった。彼女の黄金色の瞳は、正義感と使命感でメラメラと燃え上がっている。
「王宮が困っているということは、この国の民の平和が脅かされているということだ! そんな一大事に、自分の能力を出し惜しみするなんて男が廃るぞ! お前は魔法の天才なのだろう!?」
「天才だけどぉ……俺の魔法はキアラちゃんを笑顔にするためにあるんだよ? 離れ離れになるなんて寂しくて死んじゃう……」
「情けない声を出すな! いいか、お前のその力で国を救ってみせろ! 私はお前の妻として、お前が立派に使命を果たすことを期待しているからな! 頑張ってこい、フローリス!!」
キアラは満面の笑みでビシッと親指を立て、フローリスの背中を力強くバンバンと叩いた。
「……期待、してる?」
フローリスの表情が、ピタッと止まる。
(『キアラちゃんが』俺の活躍に『期待している』……!?)
その瞬間、フローリスの脳内で何かがスパークした。
「……ふふっ。そっか、俺の可愛い奥さんがそこまで言うなら、かっこいいところ見せないわけにいかないよね!」
フローリスは勢いよく立ち上がり、キアラの手を取って手の甲にチュッとキスをした。
「行ってくるよ、キアラちゃん! 俺、君の期待に応えるために、超特急で国を救って帰ってくるから! 帰ったらご褒美のハグ、よろしくね!」
「わ、わかった! だから早く行け!」
顔を赤くするキアラに見送られ、フローリスは凄まじいモチベーションを胸に王宮へと向かったのだった。
* * *
宮廷魔法局。
重厚な扉が開き、フローリスが足を踏み入れた。
「やっほー、みんな。急に呼び出すなんて人使い荒いなぁ」
ひらひらと手を振りながら現れたフローリスは、相変わらずの軽いノリと、遊び人のような気怠げなオーラを纏っていた。
出迎えた研究員たちは「相変わらず不真面目そうだな……」「本当に彼で大丈夫なのか?」とヒソヒソと囁き合っている。
そこへ、一人の人物が小走りで駆け寄ってきた。
「フローリス様、お待ちしておりました。緊急の呼び出しに応じていただき、ありがとうございます」
小柄で、まるで小動物のように愛らしい容姿を持つ金髪の少女——王宮の魔法務局に勤める魔術師……宮廷魔法局局長のノア・カプセラだ。
ノアは内心、深くため息をつきながら身構えていた。
(またフローリス様の相手か……。どうせまた、「ノアちゃんは今日も可愛いね〜、俺とお茶しない?」なんて、くだらないナンパをしてくるんだろうな……)
ノアは真面目な性格であり、昔から顔を合わせるたびに距離を詰めてきては甘い言葉を囁き、仕事の邪魔をしてくるフローリスのことが少し苦手だった。
「今回の防衛結界の術式トラブルの資料です。原因が全く特定できず……フローリス様?」
ノアが警戒しつつ資料を差し出す。
しかし。
「ん、ありがとう。貸して」
フローリスの口から出たのは、甘ったるいナンパ文句ではなく、短く的確な返答だった。
彼はノアの容姿を褒めることも、お茶に誘うこともなく、差し出された分厚い資料の束をパッと受け取ると、その黄金色の瞳を鋭く細め、凄まじい速度でページをめくり始めた。
「…………え?」
ノアは目を丸くした。
いつもなら、ここで必ず茶化してくるはずなのに。お茶を要求して、ソファーに寝転がって、散々女の子たちにちょっかいを出してからようやく渋々仕事に取り掛かるはずのフローリスが、到着して五秒で資料を真剣に読み込んでいる。
ノアの肩や髪に触れることすらしない。
「あー、なるほどね。大体わかった」
数十秒後、フローリスは顔を上げ、ホワイトボードの前に立った。
「ここの第七術式の魔力回路、接続が甘いよ。これじゃあ地脈からの魔力負荷がかかった時にショートする。……それに、こっちの第九式も古すぎる。最近の気候変動に魔力波長が合ってない」
フローリスはペンを手に取ると、誰もが頭を抱えていた複雑怪奇な魔法陣の数式を、息をするようにスラスラと書き換え、再構築し始めた。
「俺が今から式を全部組み直すから。ノアちゃん、魔力石のスペアと増幅器を用意して。あとの連中は俺の書いた術式を転写する準備。急ぐよ」
「……はい? あ、えっと……?」
「どうしたの? 早くして」
フローリスが振り返り、真剣な——王国の最高峰たる『魔法の天才』としての顔で指示を飛ばす。
「は、はいっ! ただいま準備いたします!!」
ノアは慌てて走り出しながら、頭の中がパニックに陥っていた。
(えええええっ!? なにこれ!? フローリス様が、全然ナンパしてこない!? しかも、到着してすぐに的確な指示を出して、あんな恐ろしい速度で複雑な術式を解いてる!? 明日、槍でも降るのか!?)
周囲の研究員たちも同様だった。
「あ、あのフローリス殿が、女の子に目もくれずに働いているぞ……!」
「信じられん、あれほど難解だった術式トラブルを、たった数分で……! これが、天才……!」
静まり返った研究所内に、フローリスのペンが走る音だけが響き渡る。
やがて、わずか一時間足らずで、王宮の魔術師たちが総出で数日かけても解決できなかった術式の再構築が完了した。
「よし、これで完璧。結界の強度は以前の三倍にはなるはずだよ。あとは君たちで起動テストよろしくね」
ペンを放り投げ、フローリスは軽く伸びをした。
「お、終わった……フローリス様、本当にありがとうございます……!」
ノアが信じられないものを見るような目で感謝を伝えると、フローリスはようやくいつものふにゃっとした笑顔に戻った。
「フローリス様、今日は……その、どうされたんですか? いつもみたいにふざけたり、お茶に誘ったりしてこないので、すごく驚きました」
ノアが恐る恐る尋ねると、フローリスは「あー」と少し照れくさそうに笑い、自慢げに胸を張った。
「実はさ、家に帰ったら世界一可愛くてかっこいい、俺の愛しの奥さんが待ってるんだよね」
「え? 奥様……?」
「そう! 俺が王宮に行く時、『期待しているからな!』ってすっごく可愛い笑顔で応援してくれたんだ〜。だから、少しでも早く終わらせて帰りたいし、彼女の期待に応えて『俺、国を救ってきたよ!』って褒めてもらわなきゃいけないからさ!」
キアラの話をした途端、先ほどまでの天才魔術師の威厳はどこへやら、フローリスの顔は完全にデレデレに溶け落ちていた。
「他の女の子とお茶してる暇なんて一秒もないんだよね。俺が触れたいのも、褒められたいのも、キアラちゃんだけだから! ノアちゃんも仕事お疲れ様!」
「…………」
ノアと研究員たちは、ポカンと口を開けたまま立ち尽くした。
つまり、この国を揺るがす危機をわずか一時間で解決したこの凄まじい集中力と真面目さは、すべて『家にいる妻に褒められたいから』『他の女の子に目もくれず、早く帰って妻に会いたいから』という理由から叩き出されたものだというのか。
(……愛の力って、恐ろしいな)
呆れ果てるノアをよそに、フローリスは「それじゃ、俺は愛の巣へ帰るね! ばいばーい!」と、来た時よりも数倍軽い足取りで、愛するキアラの待つ邸宅へと風のように帰っていったのだった。
* * *
王宮の危機を光の速さで解決し、風のように邸宅へと帰還したフローリス。
その夜のヴェイン邸の寝室では、ご褒美の特大ハグを獲得して大満足のフローリスが、ベッドの上でキアラにピタリとくっついて離れなくなっていた。
「えへへ……キアラちゃんからハグしてもらえた……。俺、やっぱり世界一幸せな天才魔術師かも……」
「わかった、わかったから少し離れろ。暑苦しいぞ」
ゆったりとした寝間着姿のキアラは、フローリスの金色の頭をポンポンと適当に撫でながら、ふと天井を見上げた。
彼女の頭の中には、前にバルコニーで見せてもらった光の流星群や、側近から聞いた『フローリスは魔法の天才』という言葉がグルグルと回っていた。
「……なあ、フローリス。前々から少し疑問だったんだが」
「んー? なぁに、キアラちゃん。俺への愛の告白ならいつでも聞くよ?」
「違う。魔法のことだ」
キアラが真剣な顔で尋ねると、フローリスは不思議そうに体を起こした。
「魔法って、一体どうやって使えるようになるんだ? 特別な修行をして、山ごもりをして、滝にでも打たれないと使えないのか?」
「滝行!? いやいや、そんなことしなくても使えるよ」
フローリスは笑いながら、自分の右手の指にはめられた、青みがかった美しい宝石のついた指輪をキアラの目の前にかざした。
「基本的には、この『魔法石』を使うんだ。魔法石は自然界の魔力を蓄える性質があってね。これを指輪とかネックレスみたいなアクセサリーに加工して身につけ、そこに自分の魔力を溜め込んでおくんだよ」
「ほほう。なるほど、この石が力の源というわけか」
「そう。そして魔法を使いたい時は、石に溜めた魔力を引き出しながら『魔法陣』を展開する。普通の人は、石に特定の魔法陣をあらかじめ彫り込んでおいて、決まった呪文を唱えることで発動させるんだよね」
キアラはフローリスの指輪をまじまじと見つめた。
「……しかし、お前は夕方バルコニーで魔法を使った時、呪文なんて一言も唱えていなかったぞ? 石に何か彫ってあるようにも見えないし」
その指摘に、フローリスはふんわりと得意げな笑みを浮かべた。
「それはね、俺が頭が良いからだよ」
「自分で言うな」
「事実だもん! 俺の場合、あらかじめ魔法陣を用意しておく必要がないんだ。頭の中で一瞬にして術式の計算をして、空中に直接、最適な魔法陣を展開できる。おまけに状況に合わせて、発動するまでのコンマ数秒の間に式の書き換えまでやっちゃうからね」
つまりフローリスは、他の魔術師たちが「決まった武器」しか使えないのに対し、その場で「最強の武器を瞬時に作り出せる」という、桁外れの演算能力を持っているということだ。
「瞬時に魔法陣を構築して、書き換える……? なんだそれ、頭の中がどうなっているんだお前」
「んふふ、キアラちゃんのことでいっぱいだよ?」
「真面目に答えろ!」
ペチッ、と額を叩かれながらも、フローリスは嬉しそうにキアラの手に頬ずりをした。
「要するに、俺の演算速度に普通の魔術師じゃついてこれないんだよね。だから王宮の連中が何日もかけて解読できなかった防衛結界のバグも、俺ならひと目見れば『あ、ここの式の接続がおかしいな』ってすぐに分かっちゃうし、その場でサラサラっと書き直せちゃうわけ」
「……なるほど」
キアラは、目の前でへらへらと笑っている夫を改めて見つめ直した。
普段は「キアラちゃーん」と甘ったれた声を出し、公文書にハートマークを描こうとする呆れた男。しかしその頭脳は、国中の秀才たちが束になっても敵わない領域に達しているのだ。
(なんてことだ……。こいつ、本当に、とんでもない天才なのでは……?)
「どうしたの、キアラちゃん。俺のあまりの才能に言葉を失っちゃった? かっこよすぎて惚れ直した?」
フローリスが顔を近づけ、黄金色の瞳をキラキラと輝かせて期待の眼差しを向けてくる。
「っ……ま、まあ、その。少しだけ、見直してやらんこともない、というか……」
キアラが照れ隠しにぷいっと視線を逸らし、耳まで真っ赤にしてモゴモゴと呟くと、フローリスの口角が限界まで跳ね上がった。
「っっあーーー!! 可愛い!! 俺の奥さん素直でめちゃくちゃ可愛い!!」
「わあっ!? バカ、乗っかってくるな重い!!」
フローリスは勢いよくキアラに覆い被さり、そのままベッドの上に押し倒した。
「俺ね、本当は魔法の計算なんてどうでもいいんだ。俺の魔法石に一番魔力を溜め込めるのは、キアラちゃんが俺を褒めてくれた時なんだから! 今の『見直した』で、王都を十回くらい救える魔力が湧いてきた!!」
「そんな理屈があるか! 離れろ、この変態天才魔法使い!」
「やだー! キアラちゃんに褒められたから、ご褒美にもう一回ハグとキスする!」
「一回やっただろうが! 欲張るな!!」
ジタバタと暴れるキアラの抵抗も虚しく、フローリスは「キアラちゃん大好き!」と甘い言葉を連呼しながら、愛しい妻をベッドの海へと沈めていく。
王国の危機を救うほどの類まれなる天才的な頭脳は、今夜もただ一人のオテンバ令嬢を愛でるためだけにフル回転しているのだった。
今回は魔法について色々と設定練ってみました!
感想など貰えると嬉しいです!
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