第6話:盲目すぎて
ヴェイン公爵邸の執務室。
分厚いマホガニーのデスクに向かい、フローリスは凄まじいスピードでペンを走らせていた。
「よし、これでこの決裁書は完璧! 次、領地の予算案ね。はい、計算バッチリ!」
かつては「面倒くさい」「適当にやっといてよ」と側近に仕事を丸投げし、昼間から女の子と遊び歩いていた男とは思えないほどの集中力である。
今のフローリスを突き動かしているのは、ただ一つの強烈なモチベーションだった。
(早く仕事を終わらせて、キアラちゃんのところに行くんだ! 今日の午後は一緒に庭で剣の特訓(という名目のイチャイチャ)をする約束だからね!)
愛しの妻との甘い時間を一秒でも長く確保するため、フローリスは持てる頭脳をフル回転させて、その日の業務を爆速で消化していた。
「ふぅ……終わった! 完璧だ!」
フローリスは満足げにペンを置き、山積みになった書類の束を、デスクの前に立つ側近へと押し出した。
「どう? いつもより一時間も早く終わったよ。俺ってば、愛の力で仕事の効率まで上がっちゃう天才かもしれないね。じゃあ、俺はキアラちゃんが待ってるからこれで……」
「……お待ちください、フローリス様」
席を立とうとしたフローリスの背中に、側近の冷ややかな声が突き刺さった。
振り返ると、書類に目を通している側近の眉間には、これまでに見たことがないほど深いシワが刻まれていた。
「え、なに? どこか間違ってた? 計算は何度も確認したし、視察の報告書も要点は全部まとめてあるはずだけど」
フローリスは不思議そうに首を傾げた。
自分でも驚くほど頭が冴えていたのだ。ミスなどあるはずがないと本気で思っていた。
しかし側近は、重いため息をつきながら、書類の束をフローリスの目の前にドンッ!と突き返した。
「フローリス様。不備が多すぎます。これでは一つも決裁に回せません」
「ええっ!? 嘘でしょ? どこが!?」
「どこが、ではありません。まずはこちら、ヴェイン領の農業支援に関する重要な決裁書です」
側近が指差したのは、書類の最後にある署名欄だった。
そこには、流麗な筆記体でこう書かれていた。
『キアラちゃんの世界一愛する夫・フローリス』
「…………あれっ?」
フローリスは目を瞬かせた。
「俺、普通に『フローリス・ヴェイン』って書いたつもりだったんだけど……。おかしいな、手が勝手に真実を書き記しちゃったみたいだ」
「公的な書類に真実は不要です。次、来月の領地運営の予算案です」
側近は無表情のまま、次々と書類をめくっていく。
「なぜか『領地開発費』の項目に、『キアラちゃんへ贈る新作ドレスと宝石代』として、国家予算に匹敵する額がしれっと計上されていますが。これは公費では落ちません」
「えー!? なんで!? キアラちゃんが綺麗に着飾ることは、ヴェイン家の威光を示すための立派な必要経費でしょ!?」
「私財から出してください。……さらに、こちらの視察報告書」
側近が広げた数枚の報告書を見て、フローリスは「あちゃー」と頭を掻いた。
文章の余白という余白に、可愛らしい女の子の似顔絵がびっしりと描き込まれていたからだ。しかも、ご丁寧に注釈まで添えられている。
『今日のキアラちゃん、剣の素振りがキレキレでかっこいい』『お肉を食べてる時のほっぺたが最高にキュート』『好きすぎて死ぬ』
「……仕事に集中していたはずなのに、おかしいなー。いつの間にかキアラちゃんの要素が混ざり込んじゃうなんて」
「頭の中が奥様で埋め尽くされているからですよ。ご自身の異常性を自覚してください」
「異常だなんて心外だな。これは愛の深さゆえの不可抗力だよ。ねえ、この似顔絵、すごくよく描けてると思わない? このキアラちゃんの怒った顔とか、めっちゃそっくり——」
バンッ!!
その時、執務室の扉が勢いよく開け放たれた。
「フローリス! まだ仕事は終わらないのか!? もう待ちくたびれて、素振りを五百回もやってしまったぞ!」
動きやすいシャツとズボン姿に、うっすらと汗をかいたキアラが、腰に手を当てて立っていた。
「あっ、キアラちゃん! ごめんごめん、今行こうと思ってたんだけど、ちょっと書類に不備があったみたいでさ〜」
フローリスがヘラヘラと笑いながら歩み寄ろうとした瞬間、側近がすかさず動いた。
「奥様。フローリス様が真面目に仕事をされないので、少し説教をしてやってはいただけないでしょうか。こちらが本日の成果物です」
側近は容赦なく、不備だらけの書類——キアラへの愛と欲望が詰まった証拠品の数々——をキアラの前に差し出した。
「ん? なになに……『キアラちゃんの世界一愛する夫』……『新作ドレスと宝石代』……『お肉を食べてる時のほっぺたがキュート』……」
書類に目を通していくキアラの顔が、みるみるうちに沸騰したように真っ赤に染まっていく。
「あ、あのねキアラちゃん、これは違うんだよ! 仕事を早く終わらせて君に会いたいって強く念じてたら、無意識のうちにペンが——」
「バ、バ、バカフローリスーーーッ!!!!」
キアラの怒号が執務室に響き渡った。
「なんだこのふざけた書類は! 公的な決裁書に私の名前を書くな! 似顔絵まで描いて、お前は仕事を何だと思っているんだ!!」
「ひえっ! ごめんなさい! でもキアラちゃんが可愛すぎるのが悪いんだよー!」
「人のせいにするな! 腕立て伏せ百回の刑だ! いいから早く書き直せ!! 私が見張っててやるからな!」
真っ赤な顔で怒りながら、バンバンと机を叩くキアラ。
フローリスは「スパルタなキアラちゃんも好き!」と抱きつこうとして見事に躱されながらも、どこか嬉しそうに再びデスクへと向かった。
(まあ、キアラちゃんがそばにいてくれるなら、残業も悪くないか)
怒られてばかりなのに、その顔はデレデレに緩みきっている。
そんなフローリスの様子を冷ややかな目で見守りながら、側近は「今日ヴェイン家は平和だな」と、密かに胃薬を飲み込むのだった。
今日はここまでです!
また明日20時に更新いたします!




