第4話:仮面を捨てても愛おしくてかっこいい
妻が『大人しく淑やかな令嬢』という偽りの仮面を被っていたと知ったあの日。
フローリス・ヴェインの人生は、あの日初めて顔合わせをした時以上の、強烈な二度目の稲妻に撃ち抜かれた。
(ああ……どうしよう。俺の奥さん、めちゃくちゃ可愛い……!!)
爽やかな朝の風が吹き抜ける、ヴェイン家の広大な庭園。
かつてのフローリスなら、昼過ぎまでベッドの中でまどろんでいるのが当たり前だった。朝の陽射しなんて眩しいだけで、何の価値もないと思っていた。
けれど今は違う。朝日が昇ると同時に、フローリスは誰に言われるでもなくパッチリと目を覚まし、そそくさと着替えを済ませて庭へ飛び出すのが日課になっている。
「いっち、にっ! さん、しっ! よし、フローリス! 今日もいい天気だな! 足腰をしっかり鍛えるぞ!」
目の前には、動きやすいズボン姿で元気いっぱいに準備体操をしているフローリスの太陽がいるからだ。
「おはよう、キアラちゃん。朝から元気だねぇ。そんなに張り切って、俺の可愛いお姫様は今日も世界一輝いてるよ」
「だから姫と呼ぶのはやめろと言っているだろう! 姫というより、私は騎士だ!」
「ふふっ、そうだね。じゃあ俺の凛々しい騎士様、今日も俺を守ってね」
フローリスが背後から回り込んでその細い腰を抱きしめ、首筋にチュッとキスを落とすと、キアラは顔を真っ赤にして暴れ出した。
「わーっ! バカフローリス! 外でくっつくな、暑苦しい!!」
「え〜、いいじゃん。夫婦なんだから。それにキアラちゃん、すっごくあったかくていい匂いがするんだもん」
バンバンとフローリスの腕を叩くキアラの力は、以前の「きゃっ」と恥じらっていた頃よりずっと強い。でも、それがたまらなく愛おしい。
無理して作っていた弱々しい悲鳴なんかより、こうして「暑苦しい!」と本気で照れながら怒ってくれる今の姿の方が、何百倍も、何万倍も心に響くのだ。
初対面の時、フローリスはお淑やかに微笑むキアラを見て「なんて綺麗な人だ」と一目惚れした。
温室育ちの可憐な花。壊れないように、汚れないように、己が大切に守ってあげなくちゃいけない。フローリスはそう思っていた。
けれど、本当のキアラは違った。
木に登り、木の枝を振り回して大口を開けて笑うキアラは、温室の花なんかじゃなかった。
泥を跳ね上げ、風を切り裂き、自らの足で大地を踏みしめて笑う、眩しすぎる『太陽』だったのだ。
「フローリス、お前走るペースが落ちてるぞ! ほら、もっと腕を振って!」
「待ってよキアラちゃ〜ん……俺、もう体力の限界かも……」
「だらしがないな! よし、私が手を引いてやろう!」
そう言って、汗ばんだ小さな手がフローリスの手をぎゅっと力強く握ってくれる。
振り返って笑うキアラの顔は、朝陽を浴びてキラキラと輝いていた。陶器のように白かった肌は健康的な赤みを帯び、黄金色の瞳には生き生きとした強い光が宿っている。
ドクン、と。
また心臓が大きく跳ねた。
毎日見ているはずなのに、キアラの笑顔を見るたびに、フローリスの心は初めて恋に落ちた少年みたいに騒がしくなるのだ。
(ダメだ、本当に……。好きすぎて、どうにかなっちゃいそう)
「……フローリス? どうした、急に黙り込んで。顔が赤いぞ、まさか熱中症か!?」
彼が足を止めて見惚れていると、キアラが心配そうに顔を覗き込んできた。 その無防備な近さに、フローリスは咄嗟に悪戯心を働かせた。
(ここで少し弱ったフリをしたら、もっと優しくしてもらえるかも……)
「う、うん……ちょっと眩暈が……。ごめんねキアラちゃん、俺、もう一歩も歩けないや……」
わざとらしく肩で息をして、キアラの華奢な(しかし筋肉はしっかりついている)肩にコツンと額を預ける。 ふふっ、と内心でほくそ笑むフローリス。
これで彼女がオロオロと戸惑いながら背中をさすってくれれば、そのまま抱きしめ返して甘いキスでも——。
「なんだと!? それは一大事だ!」
「えっ?」
次の瞬間、フローリスの視界がグルンと反転した。 背中と膝の裏に力強い腕が差し込まれたかと思うと、ふわりと体が宙に浮く。
「心配するなフローリス! 私が部屋まで運んでやろう!」
「えっ!? ちょっ、キ、キアラちゃん!?」
なんとキアラは、自分よりも長身であるはずの夫を、軽々と『お姫様抱っこ』で抱き上げてしまったのだ。 しかもそのまま、微塵もブレない体幹で「タタタタッ!」と芝生の上を力強く走り始める。
「わ、わわっ! ストップ、キアラちゃん! 落ちる、落ちる!」
「しっかり掴まっていろ! 私の腕力なら、お前一人くらい甲冑を着ていても余裕で運べるからな!」
「そういう問題じゃなくて!」
大の大人が、小柄な妻にお姫様抱っこされて庭を猛ダッシュしている。 客観的に見れば、公爵家の威厳も何もあったものではない。遠くで庭の手入れをしていた庭師たちが、ぽかんと口を開けてこちらを見ているのが分かった。 普通の貴族の男なら、プライドを粉々にされて激怒する場面だろう。
しかし、フローリスは違った。
(……やばい。俺の奥さん、めちゃくちゃかっこいい……っ!)
自分の体を軽々と抱き抱え、真剣な横顔で風を切って走るキアラ。そのたくましくも美しい姿を特等席で見上げながら、フローリスの胸の奥で、またしても激しい恋の炎がボワッと燃え上がった。 恥ずかしさよりも、彼女の『頼れるナイトっぷり』に対するトキメキが限界を突破してしまうのだ。
「あははっ! キアラちゃん、本当にかっこいいね! もう、俺の心臓盗んだ責任とってよね!」
「何を呑気なことを言っている! ほら、着いたぞ!」
屋敷のテラスに到着するなり、キアラはフローリスを長椅子の上にドサリと(しかし丁寧に)降ろした。
「はあ、はあ……よし、少し休んでいろ。医者を呼んでこよう!」
「んふふ、ありがとう、俺のかっこいい奥様。……でも、医者より先に、特効薬が欲しいんだけどな〜」
言うが早いか、フローリスは踵を返そうとしたキアラの腕を引き寄せ、そのまま自分の胸の中へと転がり込ませた。
「わっ!? な、何をするフローリス! 病人は大人しく寝ていろ!」
「キアラちゃんに抱っこされたら、すっかり治っちゃった。それに今は、キアラちゃん成分を補給しないと死んじゃう病気にかかってるんだ」
「バカなことを言うな! 離せ、この暑苦しい男ーっ!」
ジタバタと腕の中で暴れる愛しい妻を、フローリスは「可愛い」「好き」と呟きながら、隙あらばその赤い頬にキスを落とし続ける。 屋敷の窓の内側では、そんな二人のドタバタ劇を毎朝見せられているメイドたちが「……今日も旦那様は、奥様に運ばれて帰っていらっしゃいましたね」「ええ、本当に幸せそうに抱えられていましたわ」と、すっかり慣れた生温かい目でお茶を淹れ始めていた。
明日も更新予定です。20時からです。




