第3話:本当の君
そんな生活が数ヶ月続いたある日の午後。
フローリスは領地の視察のため、朝から外出していた。しかし、キアラに会いたい一心で予定を前倒しで済ませ、馬を飛ばして予定より随分早く邸宅へ戻ってきた。
「ただいまー! キアラちゃん、どこにいるの?」
使用人たちに尋ねると、奥様はご自室で休まれているとのことだった。
しかし部屋を覗いても姿はなく、ふと窓の外を見ると、邸宅の裏手にある広大な庭園の森の中へ、見慣れない人影が足を踏み入れるのが見えた。
(誰だ? こんな時間に……それに、あの髪の色は)
フローリスは急いで邸宅を出て、木々が鬱蒼と茂る庭の奥へと足を踏み入れた。
そこは普段、誰も近寄らない少し荒れたエリアだった。
足音を忍ばせて進んでいくと、開けた場所から聞こえてくる声にフローリスは足を止めた。
「とうっ! はあっ! そこだああっ!!」
カサッ。
茂みを掻き分けたフローリスの目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
動きやすい乗馬用のズボンとゆったりとしたシャツ姿のキアラが、手頃な木の枝を剣に見立てて、凄まじい勢いで宙を斬っていた。
風を斬る音が鋭く鳴り響く。
「ふふっ、ははは! やっぱり体を動かすのは最高だな! お茶を飲んで微笑んでいるだけなんて、私の性に合わないぞ!」
彼女は木々の間を軽やかに走り抜け、高い木の枝にヒラリと飛び乗った。
「よし、このまま屋根の上まで……っ」
その顔には、今までフローリスの前で見せていた控えめで大人しい微笑みとは全く違う、太陽のように眩しい、満面の笑みが浮かんでいた。
「あれ、キアラちゃん……? そんなところで何してるの?」
フローリスが声をかけると、木の枝に跨っていたキアラがビクンッ!!と全身を跳ねさせた。
ゆっくりと振り返ったキアラの顔は、一瞬にして真っ青に染まっていた。
「あ、あ、あ、あの……だ、旦那様……っ、これは、その……」
キアラは激しく動揺し、バランスを崩して木から滑り落ちそうになった。
「ああっ、危ない!」
フローリスが咄嗟に両手を広げ、落ちてきたキアラをしっかりと受け止める。二人はそのまま芝生の上に倒れ込んだ。
「いっ……」
「キアラちゃん、大丈夫!? ケガはない!?」
フローリスが体を起こして確認すると、腕の中にいるキアラはガクガクと小刻みに震えていた。
「ご、ごめんなさい……っ! 騙すつもりはなかったのです……でも、わたくし、本当はこんな、ガサツで、男勝りで……っ」
キアラの瞳からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ、本当の私は、全然、可愛くなんてないんです……っ」
顔を両手で覆い、彼女は泣きじゃくり始めた。
フローリスは、目の前で起きている事態を必死に理解しようとしていた。
淑やかで大人しいはずの妻が、男物のズボンを履いて木に登り、木の枝を振り回して豪快に笑っていた。
そして今、まるで恐ろしい罰を与えられる罪人のように、怯えて泣いている。
しばらくの沈黙の後。
フローリスの口から漏れたのは、怒声でも冷ややかな言葉でもなく。
「…………ぷっ。あはははははは!!!」
爽やかな、心からの大爆笑だった。
フローリスがお腹を抱えて笑い出すと、キアラは驚いたように顔を上げた。
「だ、旦那様……?」
「あー、びっくりした! キアラちゃん、木登りなんてするんだね!? しかもその格好、すっごく似合ってるし、さっき木の枝振り回してた動き、めちゃくちゃキレが良かったよ!」
「えっ……? 怒って、ないのですか……?」
「怒る? どうして?」
フローリスは優しく微笑み、キアラの目元の涙を指で拭った。
「だって、わたくし……大人しくて淑やかな令嬢じゃないんですよ!? こんなオテンバで、品がなくて……」
「そんなの、関係ないよ」
フローリスはキアラの頬を両手で包み込み、まっすぐにその黄金の瞳を見つめた。
「俺はね、初めて君を見た時から、君の全部に惹かれてたんだ。大人しく微笑む君も、綺麗で儚げで好きだった。でも……」
フローリスの瞳に、今まで以上の強烈な熱と愛しさが灯る。
「さっき、心の底から楽しそうに笑って、元気いっぱいに走り回ってる君を見たら……もっと、もっと好きになっちゃった。なんだ、俺の奥さん、太陽みたいに明るくて最高に可愛い子じゃないか、って」
「旦那様……」
「俺の前で、無理して猫かぶってたんでしょ? 苦しかったよね。気付いてあげられなくてごめん。……これからは、俺の前では『本当のキアラちゃん』でいてよ。どんな君でも、俺は世界一愛してるから」
その言葉を聞いたキアラは、しばらく呆然としていたが、やがて顔を真っ赤にして、フローリスの目をしっかりと見返した。
「……本当だな?」
「えっ?」
キアラの口調が突然変わったことに、フローリスは目を瞬かせた。
「本当の私でいろと言ったのは、お前だからな! 私は本当は、よく食べるし、声もデカいし、じっとしているのが大の苦手なんだ! 朝起きたら一緒にランニングをして、夜は一緒に肉を食うぞ!!」
勢いよく宣言するキアラ。その堂々とした姿に、フローリスは一瞬呆気に取られ——やがて、最高に嬉しそうな笑顔を弾けさせた。
「あははっ! うん、いいよ! ランニングでもなんでも付き合う! あー、もうダメだ。やっぱり俺、君のこと好きすぎて死にそう」
フローリスはキアラをきつく抱きしめ、その首筋に顔を擦り寄せた。
「ちょっ、待て、フローリス! 苦しいぞ、離れろっ!」
「えっ、今『フローリス』って呼んでくれた!? やったぁ! もっと呼んで、キアラちゃん!」
「うるさーい! くっつくな、暑苦しい!!」
ジタバタと暴れるキアラと、嬉しそうに彼女を抱きしめて離さないフローリス。
木漏れ日が降り注ぐ庭園には、キアラの張りのある声と、フローリスの楽しげな笑い声がいつまでも響いていた。
次の更新は明日の20時です。




