第2話:俺のお姫様
それから数ヶ月後。
華々しい結婚式を経て、フローリスとキアラの二人はヴェイン家の所有する別邸で新婚生活をスタートさせた。
「キアラちゃ〜ん、起きて。朝だよ」
「んん……」
フローリスがベッドを覗き込むと、キアラがゆっくりと目を覚ました。
「おはよう、俺の可愛い奥さん。今日も世界一綺麗だね」
「ひゃっ!? だ、旦那様……っ、近いですわ!」
ガバッと飛び起きたキアラは、シーツを胸元まで引き上げながらベッドの端へと後ずさった。
結婚生活が始まってからというもの、フローリスのキアラに対する執着と溺愛は、留まるところを知らなかった。
朝目が覚めれば熱烈なモーニングキスを迫り、朝食の時は向かい合わせの席があるにもかかわらず、わざわざキアラの隣に椅子を移動させる。日中、キアラが読書や刺繍をしていると、いつの間にか背後から抱きしめるのが日課になっていた。
「旦那様って呼ぶのはよそよそしいから寂しいなって、俺ずっと言ってるんだけどな〜」
「そ、そのようなはしたないこと……わたくしには、できませんわ」
「え〜、じゃあフローリスって呼んでくれるまで離さない」
言うが早いか、フローリスはキアラを軽々と抱き上げ、自分の膝の上に座らせた。
「わあっ!? だ、旦那様、降ろしてくださいませ!」
「んふふ、キアラちゃんはいい匂いがするねぇ。ずっと抱きしめていたいよ」
フローリスはキアラの首筋に顔を埋め、すりすりと甘えるように頬を擦り寄せる。キアラはビクッと身をすくませ、困惑したように視線を泳がせていた。
フローリスが以前のように夜の街へ出かけることは、完全に無くなっていた。仕事以外の時間はすべてキアラの傍で過ごし、片時も離れようとしない。
大人しく控えめな妻を愛でることは、今のフローリスにとって何よりも至福の時間だった。
「ねえ、キアラちゃん。今日は二人で街へ買い物に行こうか。君に似合うドレスや宝石、全部買ってあげる」
「お、お気遣い痛み入りますわ。でも、わたくしは今あるもので十分……」
「ダメだよ。俺の可愛い妻を、もっと綺麗に着飾りたいんだ。それとも、俺と出かけるのは嫌?」
しゅん、と子犬のように眉を下げて見せると、キアラはわずかに眉根を寄せ、躊躇うように口を開いた。
「……いえ、そんなことはありませんわ。ご一緒させていただきます」
「ほんと!? やった、大好きだよキアラちゃん!」
ちゅっ、と頬にキスをすると、キアラはまたしても硬直し、顔を真っ赤にしてうつむいた。
* * *
フローリスの異常なまでの執着は、社交界でもすぐさま噂になった。
『あの遊び人のヴェイン公爵家末子が、妻に骨抜きにされている』と。
ある夜、二人が揃って出席した夜会でのこと。
美しい赤のドレスに身を包んだキアラは、会場の注目を一身に集めていた。しかし、誰も彼女に安易に声をかけることはできない。
なぜなら、フローリスがキアラの腰にぴったりと腕を回し、少しでも近づこうとする男たちに、笑顔でありながら絶対零度の殺気を放っていたからだ。
「やあ、フローリス殿。素晴らしい奥様を迎えられたそうで」
一人の若い貴族が、愛想笑いを浮かべて挨拶に来た。彼の視線が、ちらりとキアラに向けられる。
その瞬間、フローリスの空気が変わった。
「ええ、ありがとう。俺には勿体ないくらい、愛しくて可愛くて、誰にも触れさせたくない自慢の妻だよ」
フローリスはキアラの腰を抱く手に力を込め、さらに強く引き寄せる。そして貴族の男を、冷ややかな黄金の瞳で見下ろした。
「——だから、不用意に見つめないでくれるかな。彼女の美しさを堪能していいのは、この世界で俺だけなんだよね」
「ひっ……! し、失礼いたしました……!」
逃げるように去っていく男を見送ると、フローリスは満足げに微笑んだ。
「あの、旦那様……少し、やりすぎでは……」
キアラが居心地悪そうに声をかけてくる。
「そう? 俺はキアラちゃんを守ってるだけだよ。あんな虫ケラどもに、君の指一本だって触れさせないからね」
フローリスは優しく微笑みながらキアラの髪を撫でた。キアラはドレスの裾をきつく握りしめ、何か言いたげに口を少し開いたが、結局何も言わずに静かに伏し目がちになった。
その時、会場に優雅なワルツの調べが流れ始めた。
「さあ、踊ろうか。俺の可愛いお姫様」
フローリスが恭しく手を差し出すと、キアラは引きつり気味の笑みを浮かべて、おずおずとその手を取った。
ダンスホールの中央に進み出ると、フローリスはキアラの腰を抱き寄せ、周囲に見せつけるように甘く囁いた。
「ああ……キアラちゃん。君の熱が伝わってくる。このまま二人きりで、誰もいない世界へ逃げてしまいたいね」
「だ、旦那様……皆が見ておりますわ……」
「見せておけばいいさ。君が俺のものだって、全員に分からせる良い機会だ」
音楽に合わせてステップを踏み始めるが、フローリスの腕の中にあるキアラの体は、先ほどから石のように強張っていた。
フローリスが優雅にリードしようとするものの、なぜか彼女の体幹は恐ろしくブレない。通常、か弱い令嬢であれば男性の動きに身を預けてふらつくところだが、キアラの足腰は大樹のように床に根を張っているかのようだった。
時折、彼女がうっかり力強くフローリスをリードしそうになる瞬間すらあったが、キアラはハッとしたように慌てて足元の力を抜き、わざとらしくヨロリと体勢を崩してみせた。
「おっと、危ない」
すかさずフローリスの腕がキアラの体を強く抱きとめる。
「大丈夫? ごめんね、俺としたことが。君のようなガラス細工みたいに繊細な子を、少し強くリードしすぎたみたいだ」
フローリスは申し訳なさそうに眉を下げ、愛おしげにキアラの額に口づけた。
すると、キアラは「ガラス細工」という言葉にビクッと肩を震わせ、なぜか痛む胃のあたりを押さえるようにしてうつむいてしまった。
無理をして顔色を悪くしている妻を心配し、フローリスはさらに耳元でとろけるような声を落とす。
「疲れたなら、すぐに帰ろうか? それとも、あそこのソファで俺の膝の上に座って休む? 君が望むなら、一晩中抱きしめて温めてあげるよ」
「い、いえ! 大丈夫ですわ! まだ踊れます、踊らせてくださいませ!」
キアラは血相を変え、ぶんぶんと勢いよく首を横に振った。至近距離での甘やかしを全力で回避しようとするその動きは、令嬢らしからぬ素早さだった。
しかし、フローリスはその必死な様子すらも「健気で可愛い」と都合よく変換しているらしく、黄金の瞳をさらに細めて嬉しそうに微笑む。
周囲の貴族たちが「なんという情熱的なご夫婦だ」「ヴェイン卿の溺愛ぶりは本物ね……」と羨望の眼差しを向ける中、フローリスは腕の中の愛しい妻を、さらに甘く、絶対に逃がさないように抱きしめながらステップを踏み続けた。
今回短くてすみません(;_;)




