第1話:稲妻が走る
大陸の西部に位置し、豊かな水源と温暖な気候に恵まれた『グランツ王国』。
王都の中央にそびえる王城を囲むように、歴史ある貴族たちの豪奢な邸宅が立ち並んでいる。長きにわたり平和と繁栄を謳歌してきたこの国で、ひときわ華やかな空気を纏う一角があった。
王都でも随一と名高い高級サロンのテラス席。見事な薔薇が咲き誇り、心地よい午後の陽射しが降り注ぐその場所で、一人の金髪の青年が美しい令嬢たちに囲まれて甘いひとときを過ごしていた。
「ああ、今日の君は一段と綺麗だね。その髪飾り、君の瞳の色にぴったりで……まるで花の妖精が舞い降りてきたのかと思ったよ」
「まあ、フローリス様ったら。相変わらずお上手なのですから」
「本当のことだよ。俺はいつだって、君たちみたいな美しい女の子の味方だからね。さあ、俺の可愛いお姫様たち、美味しい紅茶はいかが?」
青年の名は、フローリス・ヴェイン。
王国で絶大な財力と権力を誇るヴェイン公爵家の末っ子であり、社交界では誰もが知る稀代の遊び人だ。
甘く整った顔立ちと、蜂蜜のようにとろける声、そして女性であれば誰にでも優しく気配りのできるフェミニスト。彼は毎日のように美しい女性たちと茶会や夜会を楽しんでおり、特定の婚約者を作る気など毛頭なかった。
(女の子はみんな可愛いし、誰か一人に縛られるなんてごめんだ。俺はこのまま、自由で甘い生活をずっと楽しんでいくんだから)
令嬢の手を取り、手の甲にふわりと口づけを落としながら、フローリスは自身の気ままなライフスタイルを心から愛していた。
しかし、そんな彼の甘い日常は、実家からの突然の呼び出しによってあっけなく終わりを告げることになる。
* * *
ヴェイン公爵邸の重厚なマホガニーの扉が閉まる音が、フローリスの耳にはまるで牢獄の鍵がかけられた音のように響いた。
「政略結婚……俺が?」
豪奢な執務室で、厳格な父から下された決定。それはヴェイン公爵家の末っ子であるフローリスにとって、青春の終わりを告げる死刑宣告にも等しかった。
「相手はモーランド公爵家の令嬢、キアラ殿だ。由緒正しき家柄であり、我が家にとっても非常に有益な結びつきとなる。すでに話はまとまっている」
「ちょっと待ってよ、父さん。俺、まだそんな身を固める気なんて全然ないんだけど!? だいたい、相手の顔も知らないのに結婚なんて……!」
「お前の意見など求めておらん。いいか、今の王国は国王陛下の御不例により、水面下で貴族たちの派閥争いが激化しつつある。我がヴェイン家が持つ『巨大な経済力』と、王国最強の騎士団を擁するモーランド家の『強大な武力』。この二つの力が結びつけば、王国内に確固たる均衡が生まれ、他の貴族どもは迂闊に手出しできなくなるのだ。これは家のため、そして国の平穏のために不可欠な同盟なのだよ」
「そんなの、上の兄貴たちがやればいいじゃないか!」
「次男もすでに有力な家との縁組を済ませている。お前だけだ、いつまでもフラフラと遊び歩いているのは」
父の鋭い眼光に、フローリスは言葉を詰まらせた。
「普段から遊び歩いているお前も、これで少しは落ち着くだろう。顔合わせは来週だ。くれぐれも粗相のないように」
とりつく島もない父の態度に、フローリスは深いため息を吐きながら部屋を後にした。
回廊を歩きながら、フローリスの頭の中は不満で渦巻いていた。
結婚なんてしたら、もう女の子たちと自由に遊べなくなる。自分の気ままなライフスタイルが、親同士の勝手な都合で終わるなど納得がいかなかった。
モーランド公爵家といえば、歴史と伝統を重んじる堅苦しい武門の家柄だと聞いている。その令嬢となれば、きっと面白みもない、古風でガチガチの堅物に違いない。分厚い本を抱えて、小言ばかり言うような女性だったらどうしよう。
フローリスは美しい女性が好きだった。華やかで、いい匂いがして、一緒にいるだけで楽しい女の子たち。彼女たちと過ごす甘い時間が奪われることに、心底うんざりしていた。
「あーあ、逃げ出したいな……」
窓から見える青空を見上げながら、フローリスはこれから始まるであろう退屈で窮屈な結婚生活を想像し、絶望的な気分に浸っていた。
* * *
そして迎えた、両家の顔合わせの日。
ヴェイン家が用意した格式高いホテルの特別室。緊張感の漂う空気の中、フローリスは仕立ての良いスーツに身を包み、退屈そうに足を組んでいた。
(どうせつまらないお見合いだ。適当に愛想笑いでも浮かべて、さっさと終わらせよう)
そう高を括っていたフローリスの耳に、扉が開く音が届いた。
「お待たせいたしました。モーランド公爵とそのご令嬢、キアラ様です」
案内人に導かれ、室内に一人の女性が足を踏み入れた。
その瞬間だった。フローリスの脳天を、目にもとまらぬ速度で凄まじい稲妻が貫いたのは。
(————え?)
時が止まったかのように感じた。
そこに立っていたのは、フローリスの想像を遥かに超える、この世のものとは思えないほど美しい女性だった。
燃えるような夕陽を思わせる鮮やかな赤みのあるブラウンの髪。澄み切った秋空のような、赤色の瞳。陶器のようになめらかな白い肌には、ほんのりと健康的な赤みが差している。
上品な仕立ての深紅のドレスに身を包み、少しはにかんだように伏せられた目元。そのすべてが、完璧にフローリスの心を撃ち抜いた。
ドクン、ドクン、ドクン。
心臓が、今までに経験したことがないほどの早鐘を打つ。息の仕方を忘れてしまったかのように、喉が張り付いた。
「初めまして。キアラ・モーランドと申します……。本日は、お招きいただきありがとうございます」
鈴を転がすような、それでいてどこか芯のある声。恭しくお辞儀をするその所作の美しさに、フローリスの頭の中は真っ白になった。
(可愛い……!! なんだこれ、めちゃくちゃ可愛い!! 女神か!? いや、天使!?)
つい数分前まで「結婚なんて最悪だ」と嘆いていた男は、完全に消滅した。
フローリスは無意識のうちに立ち上がり、ふらふらと吸い寄せられるようにキアラの御前へと進み出た。
「あの……」
戸惑うようにわずかに肩を揺らしたキアラの小さな手を、フローリスは両手で包み込むように取った。
「初めまして、キアラ嬢。俺はフローリス・ヴェイン……君の、未来の夫だ。ああ、なんて美しいんだ。君のような素晴らしい女性と出会えたなんて、俺は世界一の果報者だよ。まさに運命だね」
「えっ……? あ、あの……?」
「その綺麗な髪、君の瞳……どれも宝石みたいだ。ねえ、俺のことはフローリスって呼んで? これからよろしくね、俺の可愛いお姫様」
「へ……?」
顔合わせの席であることも、親たちが見ていることも忘れ、フローリスはその場でキアラの手の甲に熱い口づけを落とした。
甘く、とろけるような眼差しで見つめると、キアラは目を丸くして固まり、やがてじわじわと頬を赤く染めていった。
(ああっ、照れている顔もなんて可憐なんだろう!)
フローリスの紫色の瞳は、完全に獲物を見つけた肉食獣のように、あるいは飼い主を見つけた大型犬のように、キアラを真っ直ぐに見つめていた。
「ねえ、キアラ嬢…いや、キアラちゃん。緊張してる? 大丈夫、俺がずっとそばにいるからね」
「あ、あの……フローリス様……っ、少し、近い、ですわ……」
「フローリス、でいいよ。俺たち、夫婦になるんだから。照れてる顔もすっごく可愛いね」
「~~っ!!」
困り果てたように眉を寄せ、口元を震わせるキアラの姿を、フローリスは「奥ゆかしく恥じらう清楚な令嬢」として愛おしく受け止めていた。
両家の親たちは「若い二人はすっかり意気投合したようだ」と満足げに頷き合っており、フローリスはさらなる熱烈な言葉をキアラに囁き続けた。
初めまして。ゆっくりですがこれから更新してまいりますのでどうぞよろしくお願いいたします!




