第39話:様子がおかしいキアラ
ヴェイン公爵邸に、再び穏やかな日常が戻ってきていた。
精霊の女王であるアルバが目を覚まし、あの騒々しい(そしてフローリスの神経を大いに逆撫でする)初対面を果たしてから、ちょうど一週間が経過していた。
長期間にわたって教団の黒魔術師軍団に魔力を搾取され続けていたアルバのダメージは思いのほか深く、彼女は現在も客間のベッドで一日の大半を眠って過ごしている。時折目を覚ましては、見舞いに訪れるキアラにすり寄って甘えたり、キアラが不器用ながらに手作りした菓子を嬉しそうに頬張ったりして少しずつ体力を回復させているようだったが、まだまだ本調子には程遠いようだった。
そして、アルバを捕らえていた得体の知れない「上位魔術師」の正体や、黒魔術師軍団の残党狩り、さらには失踪した精霊たちの捜索といった胃の痛くなるような厄介事の一切合切を、フローリスは王太子であるエーリヒに完全丸投げすることに成功していた。
時折、王宮の方角からエーリヒの嫌味や愚痴がびっしりと綴られた親書(という名の呪いの手紙)が速達で届いていたが、フローリスはそれをヘラヘラと笑いながら暖炉の火にくべ、「俺は今、可愛い奥さんとの新婚生活で忙しいからねぇ」と全てを黙殺している。
アニスも再び「気弱で真面目な新米庭師」という表の顔を被り、キアラの護衛兼、フローリスの隠密としての任務を完璧にこなしていた。
屋敷の警備は万全。不穏な影は全て王宮に押し付けた。
フローリスにとって、今のヴェイン公爵邸は、愛する妻であるキアラと心ゆくまで甘い時間を過ごすための、完璧に隔離された楽園のはずだった。
――そう、はずだったのだ。
「ねぇ、キアラちゃん。今日のお茶、すごくいい香りだね。キアラちゃんが淹れてくれたのかな?」
昼下がり。陽光がさんさんと降り注ぐ明るいサンルームで、フローリスは向かいの席に座る妻に、いつものように甘く蕩けるような声で語りかけた。
美しい金糸の髪を揺らし、黄金色の瞳を細めて微笑むその姿は、王国中の令嬢たちがため息をつくほどに洗練された「完璧な貴公子」のそれである。
しかし、その声を聞いた瞬間。
ソファに浅く腰掛け、ティーカップを手にしていたキアラの肩が、ビクゥッ! と大袈裟なほどに跳ねた。
「あっ、う、うむっ! そ、そうだなっ! 私が淹れた! 少し茶葉が多かったかもしれんが、その、なんだ……美味しいなら、よかった、ぞっ!」
キアラはティーカップとソーサーをガチャガチャと鳴らしながらテーブルに置くと、フローリスの顔をまともに見ようともせず、明後日の方向(窓の外の植え込み)を凝視しながら早口でまくしたてた。
その真っ白な頬から耳の先まで、まるで茹でダコのように真っ赤に染まっている。
「……ん? どうしたの、キアラちゃん。なんかすごく落ち着きないけど」
フローリスが不思議そうに首を傾げ、少しだけ身を乗り出して彼女の顔を覗き込もうとした、その時だった。
「ち、ちちち、近いぞっ、フローリスっ!!」
「えっ?」
「だ、だから、顔を近づけるなっ! その……息が、かかる距離にくるなと言っているのだっ!」
キアラはガタッと音を立ててソファから立ち上がると、フローリスから逃げるように三歩ほど後ろへ飛びずさった。両手で自分の赤い顔を隠すように覆い、あたふたと視線を泳がせている。
普段は身の丈ほどもある大剣を軽々と振るい、魔獣の群れを前にしても一歩も引かない武闘派の妻が、夫がほんの数十センチ顔を近づけただけで、ひどく怯えたように逃げ腰になっているのだ。
(…………最近、キアラちゃんの様子がおかしいんだよね)
フローリスは、ソファに一人残されたまま、アワアワと慌てふためく愛しい妻の姿をじっと観察していた。
実は、ここ数日、キアラはずっとこんな調子なのだ。
昨日もそうだった。フローリスが廊下ですれ違いざまに「おはよう、キアラちゃん」と笑いかけ、彼女の髪に触れようとしただけで、「お, おおおおはようっ!」と謎の奇声を上げて逃げ去ってしまった。
一昨日は、夕食の席でフローリスが「キアラちゃん、今日も可愛いね」とウインクを飛ばしただけで、彼女はむせ返り、顔を真っ赤にして食事もそこそこに自室へ引きこもってしまった。
物理的な距離を詰めようとしたり、フローリスが顔を覗き込んだりすると、決まってキアラは顔を真っ赤にしてキョドり出す。目線を合わせようとせず、言葉を噛み、手足をどう動かしていいか分からないといった様子でオロオロと戸惑うのだ。
(もしかして、俺、何か嫌われるようなことしちゃったのかな……?)
一瞬、フローリスの脳裏にそんな不安が過ぎる。
しかし、キアラの瞳に嫌悪感や恐怖の色はない。むしろ、ちらちらとフローリスの方を盗み見ては、目が合うと「ひゃっ!」と小さく悲鳴を上げて目を逸らすという、なんとも奇妙な反応を繰り返している。
悲しいかな、王国一の頭脳を誇る天才魔法使いであるフローリス・ヴェインは、魔法の深淵や政治の裏側を読むことには長けていても、この不器用な妻の機微を正確に読み解くことに関しては、致命的なまでに鈍感であった。
「……ふふっ」
フローリスの口から、甘い吐息のような笑い声が漏れた。
(なんだかよく分からないけど、あわあわして照れてるキアラちゃん、すっごく可愛いなぁ……)
フローリスはただ単に、「最近のキアラちゃんは、やたらと恥ずかしがり屋になっていて可愛い」という、極めて表層的な(そして自身の性癖に深く刺さる)解釈で完結してしまっていたのだ。
フローリスはゆっくりとソファから立ち上がると、逃げ腰になっているキアラの方へと、面白がるように一歩、また一歩と足を進めた。
「ちょっとちょっと、そんなに離れないでよ。俺、キアラちゃんに避けられるとすごく傷つくんですけどぉ?」
「さ、避けてなどいないっ! ただ、少し、今日のフローリスは……その、顔が、顔が良すぎるというか……っ!」
「え? 顔? 俺の顔がどうかしたのかなぁ?」
キアラの精一杯の遠回しな言葉も、フローリスの耳にはただの照れ隠しにしか聞こえていない。
フローリスは意地悪な笑みを浮かべると、キアラが後ずさるよりも速いスピードでスッと距離を詰め、彼女の退路を断つように壁際へと追い詰めた。
「ひっ……!」
「キアラちゃん、さっきからずっと顔が赤いよ? もしかして、どこか具合でも悪いのかな。俺、心配になっちゃうな」
フローリスはキアラの目の前で立ち止まると、逃げ場を失って壁に背中を預けた妻の顔を、至近距離からじっと覗き込んだ。
長いまつ毛に縁取られた黄金色の瞳が、キアラの赤い瞳を真っ直ぐに射抜く。微かに香る、フローリス特有の甘く上品な香水と魔力の匂いが、キアラの鼻腔をくすぐった。
逃げ場を失ったキアラは、ギュッと目を閉じて両手で自分の顔を覆い隠してしまった。
「ぐ、具合など悪くないっ! ただ、少し暑いだけだ! だから、もう見ないでくれ……っ、恥ずかしいのだ……っ!」
「えー? 暑いって言っても、今日はけっこう涼しい日だと思うけどなぁ」
フローリスは、顔を覆って小さくなっているキアラの姿を、愛おしさで胸を締め付けられながら見下ろしていた。
耳の裏まで真っ赤にして、一生懸命に強がる不器用な妻。今まで剣の道一筋で生きてきた彼女が、自分に対してだけこんなにも可愛らしい顔を見せてくれる。
その事実が、フローリスの心の奥底にある少し歪んだサディスティックな独占欲を、チクチクと刺激してやまない。
「本当に熱はないの? もしかして、また無茶な修練でもして風邪ひいたんじゃない? ちょっと俺に確かめさせてよ」
「だ、だから大丈夫だと……っ、わわっ!?」
フローリスはキアラの顔を覆っていた両手を優しく、しかし有無を言わさぬ力で引き剥がすと、彼女の額に、自分の額をコツンと直接くっつけた。
――っ!!!
キアラの全身がビクンと跳ねた。
おでことおでこが触れ合う距離。フローリスの体温が直接伝わってくる。ほんの数センチの距離で、フローリスの美しすぎる黄金の瞳が至近距離で自分を見つめ返している。
「うーん……熱はなさそうだけど。でも、やっぱりすごく熱いね、キアラちゃんの顔」
「〜〜〜〜〜っ!!」
もはや、キアラの口からは言葉すら出てこなかった。
彼女は言葉にならない悲鳴を上げると、バツンッ! と凄まじい力でフローリスの胸を押し返し(フローリスは「ぐぇっ」と情けない声を出してよろめいた)、そのまま脱兎の如き凄まじいスピードでサンルームから逃亡した。
「ま、また後でなっ! 私は剣の素振りをしてくるっ!!」
バタンッ! と、屋敷が揺れるほどの勢いで扉が閉まる。
後に残されたのは、突き飛ばされた胸をさすりながら、呆然と立ち尽くすフローリスただ一人であった。
「…………痛ぁ。キアラちゃん、手加減なしだなぁ……」
フローリスは苦笑いしながら、キアラが走り去っていった扉を見つめた。
突き飛ばされた胸は少し痛んだが、フローリスの心の中は、不思議なほどの幸福感で満たされていた。
「でも、あんなに真っ赤になって逃げていくキアラちゃん……最高に可愛かったなぁ。なんか、いじめたくなっちゃう可愛さっていうか……ふふっ、俺ってば性格悪いかも」
フローリスは、自分の掌に残るキアラの体温を愛おしむように握りしめ、ふにゃりとだらしない笑みを浮かべた。
自分が面白半分でキアラをからかい、距離を詰めるたびに、妻がどれほどのパニックに陥っているかなど露知らず。
「さてと。剣の素振りが終わる頃に、冷たいおしぼりでも持って迎えに行こうかな。……また真っ赤になって逃げられちゃうかもしれないけど、それはそれで楽しみだしね」
フローリスはご機嫌な鼻歌を歌いながら、足取り軽くキッチンへと向かって歩き出した。
完璧な頭脳を持ちながら、肝心なところで見事にポンコツな夫と、顔を真っ赤にして逃げ回る不器用な妻。
ヴェイン公爵邸の平和な午後は、今日も二人の微笑ましくも壮大なすれ違いによって、穏やかに、そして賑やかに過ぎていくのだった。
次は明日20時です!
よろしくお願いいたします!




