第40話:キアラのドキドキお茶会
ヴェイン公爵邸の主であり、王国筆頭の魔法使いでもあるフローリス・ヴェインは、自身の広大な執務室の中で、落ち着きなく右へ左へとウロウロと歩き回っていた。
「ああもう、やっぱり俺も行くべきだったかな。いや、でもキアラちゃんが『私一人でやり遂げてみせる』ってあんなに真剣な顔で言ってたし……でも、でもなぁ……っ!」
フローリスがこれほどまでに取り乱しているのには理由がある。
現在、このヴェイン公爵邸の美しい庭園に設えられたサロンでは、フローリスの愛する妻であるキアラが主催する『お茶会』が絶賛開催中なのである。
これまで生粋の武闘派として剣の修練ばかりをして生きてきたキアラにとって、貴族の令嬢や夫人たちを招いての社交の場を一人で取り仕切るなど、魔獣の群れに単身で突っ込むよりも難易度が高い任務のはずだった。
フローリスとしては当然、隣に立って全ての悪意や面倒事から彼女を完璧にガードする気満々だったのだが、数日前にキアラから「私はヴェイン公爵夫人なのだから、この程度の社交は一人で何とか頑張れるようになりたい!」と強い眼差しで宣言されてしまったのだ。
あんなに真っ直ぐな瞳で頼み込まれてしまえば、フローリスに「ノー」と言えるはずもない。結果として「絶対に手出しはしないし、覗き見しない」という約束を交わし、彼女を一人で送り出したのである。
しかし、頭では分かっていても、心が全くついていかない。
貴族社会の社交界というものが、どれほど陰湿で、嫉妬と悪意に満ちた毒蛇の巣窟であるかを、フローリスは誰よりもよく知っている。
美しく、純粋で、裏表のないキアラは、あのような腹黒い令嬢たちからすれば格好の標的だ。言葉の裏に毒を仕込んだ嫌味を言われていないだろうか。無作法だと笑われていないだろうか。最悪の場合、いじめられて泣いていないだろうか。
「……無理。やっぱり無理。俺のキアラちゃんが令嬢たちに苛められているかもしれないなんて、想像しただけで胃に穴が空きそう」
フローリスはピタリと足を止めると、執務室の隅で息を潜めていた「庭師」こと隠密のアニスを、黄金色の鋭い瞳でギロリと睨みつけた。
「アニスくん」
「ひっ……は、はいっ、フローリス様! 何でございましょうか……っ!」
「君、ちょっと自分の魔力を使って、今すぐ庭園のお茶会の様子をこの鏡に映し出してよ。音声付きでね」
フローリスの無茶苦茶な命令に、アニスは顔を真っ青にして首を横に振った。
「む、無理です! キアラ様から『絶対に覗き見しないように見張っておけ』と厳命されているんです! もし私が手引きしたとバレたら、キアラ様に何と叱られるか……っ!」
「へぇ? キアラちゃんに叱られるのは怖いのに、俺にこの場で消し炭にされるのは怖くないんだ? アニスくんも随分と偉くなったものだよねぇ」
「〜〜〜〜ッ! やります! 今すぐやりますぅぅ!」
フローリスの底冷えのする脅迫に屈したアニスは、震えながら自らの魔力を練り上げ、独自の魔法を発動させた。
執務室の壁に立てかけられた大きな姿見の表面が水面のように波打ち、やがて庭園のサロンの風景が鮮明に映し出される。
『――まあ、キアラ様。こちらの焼き菓子、とても美味しくてよ』
『本当ですね。ヴェイン公爵邸の庭園も、噂に違わず素晴らしい美しさですわ』
鏡の中に映し出されたキアラは、フローリスの心配を他所に、思いのほか堂々とした態度で令嬢たちをもてなしていた。
初めは少し緊張の面持ちだったが、令嬢たちの言葉に一つ一つ丁寧に頷き、上品な笑みを浮かべながら応対している。
『皆様、お気に召して頂けて何よりですわ。本日はようこそいらしてくださいました』
完璧に教育された公爵夫人としての社交辞令を凛とした声音で紡ぐその姿に、一部の令嬢たちは好意的な笑みを返していた。
「あぁ……よかった。キアラちゃん、すごく頑張ってる。偉いなぁ、可愛いなぁ……」
鏡の前にへばりつきながら、フローリスはすっかり蕩けた顔で安堵の吐息を漏らした。
令嬢たちと気高く交流を深める妻の姿は、見ているだけでフローリスの胸を温かいもので満たしていく。このまま無事に終われば、後で思い切り褒めちぎって、頭を撫で回してやろう。
そう思っていた、次の瞬間だった。
『――それにしても、キアラ様のようなご武勇で知られた方が、あのフローリス様のお目に留まるなんて、世の中何が起こるか分かりませんわね』
楽しげな空気を切り裂くように、ひときわ派手なドレスを着た令嬢が、扇子で口元を隠しながら冷笑を浮かべた。
その令嬢の取り巻きらしい数人の令嬢たちも、一斉にクスクスと嫌な笑い声を上げる。
鏡越しに見つめるフローリスの黄金色の瞳から、一瞬にして光が消え去った。
室内の温度が急激に下がり、背後に立つアニスが「ひぃっ」と短い悲鳴を上げてガタガタと震え出す。
鏡の中の茶会では、キアラが新しい紅茶のポットをメイドから受け取り、自ら令嬢たちのカップへ注ごうと歩みを進めていた。
すると、先ほどの派手なドレスの令嬢が、すっとテーブルの下で足を伸ばし、キアラの進路を露骨に塞いだのだ。あわよくば転ばせて、熱い紅茶を浴びせてやろうという浅ましい嫌がらせである。
「……あの女、殺す」
フローリスの右手に、致死量の魔力がバチバチと音を立てて収束していく。アニスが泡を吹いて倒れそうになる中、しかし、鏡の中のキアラはフローリスの手助けなど全く必要としていなかった。
令嬢が引っ掛けようと伸ばした足。
キアラは手元のポットを全く揺らすことなく、視線すら下に向けることなく、武術で鍛え上げられた無駄のない足さばきで、その令嬢の足を『ヒョイッ』と見事に跨ぎ越してみせたのだ。
そして、何事もなかったかのように、隣の席の令嬢のカップへ美しい所作で紅茶を注ぐ。
足を伸ばした令嬢は、完全に空振りに終わり、間抜けに足を宙に浮かせたまま顔を真っ赤にしてワナワナと震えている。
「ふふっ……さすがキアラちゃん。あんな小賢しい足掛け、歴戦の武人であるキアラちゃんに通用するわけないよね」
フローリスは手のひらの魔力を霧散させ、誇らしげにクスリと笑った。
だが、嫌がらせを躱されて引っ込みがつかなくなった令嬢たちは、今度は言葉という刃を直接キアラへと向け始めた。
『っ……キアラ様! 貴女、少しばかり公爵夫人になったからといって、いい気にならないでくださいな!』
『そうですわ! そもそもフローリス様といえば、昔から夜会で数多の女性たちと浮き名を流してきた、生粋の遊び人ではありませんか!』
『ええ、あの方の甘い言葉に騙されて泣きを見たご令嬢は数知れず。今は貴女のような変わり種を面白がっているだけですわ! どうせすぐに飽きられて、捨てられるに決まっておりますのよ!』
それは、かつて「完璧な貴公子」として外面を取り繕いながら、適当に女性たちと遊んでいたフローリスに対する、消しようのない過去の悪評だった。
令嬢たちの一方的な嘲笑に、茶会の場はピリついた気配に包まれる。
執務室のフローリスは、血の気が引くのを感じた。
自分が過去に撒き散らした火種が、こうして愛するキアラを傷つける刃となって向けられている。キアラがその言葉を聞いて、不安になったらどうしよう。自分を軽蔑したらどうしよう。
今すぐあの場に転移して、令嬢たちを黙らせ、キアラを抱きしめて弁明しなければ。
焦燥に駆られ、フローリスが一歩前に踏み出そうとした、その時。
『――それが、どうしたのですか?』
鏡の中から響いたキアラの凛とした声に、フローリスは思わず足を止めた。
見れば、キアラは怒るでもなく、取り乱すでもなく、ただ静かにティーカップをソーサーに置き、冷笑を浮かべていた令嬢たちを真っ直ぐに見据えていた。
その表情には、一点の曇りも、揺らぎもない。
『夫の過去がどうであれ、私には些末なことにございます。彼は誰に対しても優しかったですから、不要な誤解を招くこともあったのでしょう。ですが、あの者はただ少し不器用なだけなのですわ』
キアラは、貴族の令嬢らしい優雅さと気品をまとった物腰で、挑発的な令嬢たちを完璧に圧倒した。
その声は、どこまでも澄み切っていて、迷いがなかった。
『彼が過去に誰と関わろうと、彼が最後に選び、妻として隣に置いたのは、他でもないこの私にございます。私は、今の夫を心から信じておりますわ』
令嬢たちは、キアラのあまりにも気高く完璧な反論に気圧され、言葉を失して口をパクパクとさせている。
そんな彼女たちに対し、キアラは極めつけとばかりに、少しだけ頬を染めながらも、凛とした声で言い放った。
『それに、どなたに何を言われようと……私は、我が夫であるフローリスを、心から愛しておりますもの。ですので、皆様の無用なご心配には及びませんわ』
――私は、フローリスを心から愛している。
その言葉が執務室に響き渡った瞬間。
フローリスの頭の中で、何かがパーンと弾け飛ぶ音がした。
「き、キアラちゃんが……っ、俺のこと、愛してるって……っ! みんなの前で、あんなに気高く堂々と……っ!!」
フローリスの黄金色の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
令嬢たちの嫌味を気高い社交辞令で完全論破し、あまつさえ自分への愛を宣言してくれた妻の尊さに、フローリスの情緒は完全に決壊してしまった。
「ああっ、キアラちゃん! 俺の天使! 俺の女神! 好き! 大好き!! 愛してる!!」
「ひっ!? フ、フローリス様!? なぜ私に向かってくるんですか!?」
感極まって大号泣を始めたフローリスは、そのままの勢いで、側にいたアニスにガバッと抱きついた。
キアラがここにいない以上、誰かにこの爆発しそうな感情をぶつけなければ狂ってしまいそうだったのだ。
「うわあああん! アニスくん聞いた!? キアラちゃんが俺を愛してるって! 俺を信じてるってぇぇぇっ!!」
「ぐぇぇぇっ!? フ、フローリス様っ、苦しっ、力が、魔法使いの力じゃ、ないっ……! 骨が、私の肋骨が折れま、ぐはぁっ!!」
普段は魔法にしかステータスを振っていないはずのフローリスだが、極限状態の愛と歓喜によって火事場の馬鹿力を発揮し、アニスを万力のような力で締め上げている。
アニスが白目を剥いてバタバタと暴れていることなど、フローリスの耳には一切入っていない。彼はただただ、愛しの妻の言葉を脳内でリフレインさせながら、子供のように歓喜の涙を流し続けていた。
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それから数時間後。
無事にお茶会を終え、令嬢たちを笑顔で見送ったキアラが、さすがに疲れた様子で二人の私室へと戻ってきた。
ガチャリ、と扉を開けて部屋に足を踏み入れた瞬間――。
「キアラちゃああああん!!」
「うわっ!?」
待ち構えていたフローリスが、弾丸のようなスピードで飛びついてきて、キアラを思い切りその腕の中に抱きしめた。
「俺も! 俺もキアラちゃんのこと愛してるよぉぉぉ!! 宇宙で一番、いや世界中の誰よりもキアラちゃんを信じてるし愛してるからねぇぇぇ!!」
「なっ、ななな、なんだ急に!? フローリス、お前、どうしたのだ!?」
突然の猛烈なハグと、耳元で叫ばれる愛の言葉の連呼に、キアラはいつもの調子に戻って目を白黒させて完全にパニックに陥っている。
フローリスはキアラの首元に顔を埋め、スリスリと頬ずりをしながら、なおも嬉しそうに叫び続けている。
「キアラちゃんかっこよかったよぉ! 足引っ掛けられても華麗に避けてたし! 俺の悪口言われても、すっごく優雅にビシッと言い返してくれてさ! もう最高だった! あんなに完璧な奥様、世界中どこを探してもいないよぉぉ!」
「あ、足……? 悪口……?」
キアラはフローリスの腕の中でもがきながら、ピタリと動きを止めた。
足掛けの嫌がらせも、フローリスの過去に関する悪口も、ほんの数時間前のお茶会での出来事だ。フローリスは執務室にいたはずであり、その場にいるはずがない。
思考を巡らせたキアラは、ハッとある可能性に思い至った。
「フ、フローリス……お前、まさか……」
「ん〜? なに、キアラちゃん?」
「お茶会の様子を……覗き見していたのか!?」
キアラの鋭い声に、フローリスは抱きついたまま「えへへ」とだらしなく笑った。
「ごめんねぇ。どうしても心配で、アニスくんに魔法で鏡に映してもらっちゃった。でも見てて本当によかった! キアラちゃんの愛の告白、しっかり受け取ったからね!」
「の、覗き見しないと約束したではないか!! お前という奴は、いつもいつも過保護で、約束も守らなくて……っ!」
顔を真っ赤にして怒るキアラ。
しかし、フローリスは全く意に介していない。むしろ、怒っているキアラの顔すらも愛おしくてたまらないというように、にまにまと気持ちの悪い(しかし顔が良すぎるせいで無駄に輝かしい)笑顔を浮かべ続けている。
「ごめんごめん、怒らないでよぉ。でもさ、キアラちゃんが俺を信じてるって言ってくれて、俺、すっごく嬉しかったんだよ」
「うっ……そ、それは……」
フローリスが少しだけ腕の力を緩め、キアラの目を真っ直ぐに見つめて微笑む。
その黄金色の瞳には、嘘偽りのない、純粋な愛と喜びだけが溢れていた。
「俺も愛してるよ、キアラちゃん。誰が何と言おうと、俺の妻は一生、君だけだからね」
真っ直ぐな言葉に、キアラはこれ以上怒る気力を無くしたのか、ふいっと真っ赤な顔を背けてしまった。
「……ッ、わ、分かったから! もう離れろ、暑苦しいっ!」
「えー、やだ。今日は一生離れないもんねー」
「フローリスっ!!」
覗き見をしたことを怒られ、胸元をバシバシと叩かれながらも、フローリスの顔からそのにやけた笑みが消えることはない。
キアラが自分を愛してくれている。その揺るぎない事実さえあれば、フローリスにとってこの世界は最高に輝く楽園なのだ。
窓から差し込む夕日が、ドタバタとじゃれ合う二人を、どこまでも温かく照らし出していた。
明日また更新予定です!
20時です!よろしくお願いいたします!




