第37話:女王
ヴェイン公爵邸の奥深く、最も厳重な警備が敷かれた客間に、柔らかな朝日が差し込んでいた。
天蓋付きのふかふかなベッドの中で、三日三晩眠り続けていた白髪の少女——アルバの長いまつ毛が、微かに震える。
ゆっくりと持ち上げられた重い瞼の奥から、透き通るような美しい赤い瞳が姿を現すのを、フローリスは静かに見下ろしていた。
(よかった。魔力回路の損傷も完全に塞がっている。これで一安心だ)
ベッドの傍らの椅子に腰掛けたフローリスは、胸中で安堵の息を吐き出しながら、いつものようなヘラヘラとした優しげな笑みを顔に浮かべた。
彼の心は今、これ以上ないほどに晴れやかだった。
つい先ほど、自身の執務室にて、裏で教団と繋がっていた庭師のアニスの正体を暴き、彼を自身の隠密として『精霊契約』で縛り上げたばかりなのだ。妻の背中を守るための強力な手駒を手に入れ、屋敷内の不安要素は完全に排除された。
「あ、気がついたみたいだね。おはよう、アルバちゃん」
フローリスの声に、アルバはぼんやりとした視線を巡らせた。
そこへ、フローリスの隣に立っていた妻のキアラが、心配そうに身を乗り出して覗き込んでくる。
「……おい、大丈夫か? まだ顔色が悪いぞ。無理はしなくていいからな」
愛する妻の、不器用だが真っ直ぐな優しさが滲む声。
フローリスは、そんなキアラの横顔を愛おしく見つめていた。数日前に互いの本音をぶつけ合い、真の意味で心を通わせたキアラが、本来の飾らない言葉遣いで隣にいてくれる。この平穏な日々は、今のフローリスにとって至上の喜びであり、自らの全てを懸けて守り抜くべきものだった。
しかし——次の瞬間。
フローリスの目の前で、信じられない光景が繰り広げられた。
キアラの顔を見たアルバの赤い瞳に、パァァッと星が弾けたような強烈な光が宿ったかと思うと。
「キアラちゃぁぁぁん!!!」
「えっ、うわっ!?」
つい数秒前まで死に体のようにぐったりしていたはずのアルバが、弾かれたようにベッドから飛び起き、ものすごい勢いでキアラの胸元へとダイブしたのだ。
あまりの勢いに、鍛え抜かれたキアラでさえ一歩後ずさってしまう。
「久しぶりぃぃ! ずっと、ずーっと会いたかったぁぁ!!」
アルバはキアラの首に細い腕をしっかりと巻きつけ、フローリスすら滅多に堪能できないキアラの胸元に、自分の頬をスリスリと嬉しそうに擦り付け始めた。
その様子は、長年離れ離れになっていた飼い主と再会した子犬……いや、自らの宝物を絶対に手放すまいと抱え込む猛禽類のようだった。
「お、おいっ!? ちょっ、お前、急にどうしたのだ!? ていうか、苦しい……ッ!」
「ああっ、キアラちゃんの匂い! キアラちゃんの温もり! 本物だぁ……っ、夢じゃないんだね! 私、ずっとこの日を待ってたんだよぉぉ!」
完全に戸惑い、両手をバンザイの状態で固まっているキアラ。
そんな妻の胸に顔を埋め、至福の表情で頬ずりし続ける見知らぬ(美)少女。
その光景を目の当たりにしたフローリスのこめかみに、ピキッ、と青筋が浮かんだ。
(……は?)
フローリスの黄金色の瞳から、一瞬にして理性の光が消え去った。
キアラはフローリスの妻だ。フローリスが命懸けで愛し、守り、ようやく「ありのままのキアラちゃんが好きだ」と伝え合い、心から愛し合えるようになったばかりの、世界で一番大切な「フローリスのキアラちゃん」である。
それを、どこの馬の骨とも(精霊とは分かっているが)知れない小娘が、あんなに密着して、あまつさえスリスリと頬ずりだと?
(許せない。絶対に許せない。俺だってまだあんな風に堂々と抱きついたことないのに……!)
嫉妬と独占欲で頭が沸騰しそうになるのを必死に抑え込み、フローリスは氷点下の作り笑いを顔に貼り付けた。
「……ちょっとちょっと。君、起きて早々元気なのはいいけどさ」
フローリスは立ち上がると、アルバの首根っこ(襟首)をヒョイと掴み、愛しのキアラからベリベリと強引に引き剥がした。
「俺の大切なキアラちゃんに、あんまりベタベタくっつかないでもらえるかな? 悪いけど、キアラちゃんは『俺の』奥さんなんだよね。ちょっと、俺のキアラちゃんなんだけど」
二回言った。フローリスにとってはそこが最も重要な主張だった。
普通であれば、王国一の魔法使いから放たれる凄まじい威圧感と嫉妬のオーラに当てられ、怯えて泣き出すところだろう。
だが、宙吊りにされたアルバは怯えるどころか、フローリスに向かってシャアァッ! と猫のように激しい威嚇の声を上げたのだ。
「なにするのよ、この金髪! 私とキアラちゃんを引き離す気!?」
「引き離すも何も、キアラちゃんは俺の妻だもん。君みたいな得体の知れない子に、大事な奥さんを触らせるわけにはいかないでしょ」
「はあ!? 得体の知れない!? ふざけないでよね! 私とキアラちゃんは、深く繋がれた存在なの! 引き離すなんて誰にもさせないんだからーッ!」
ジタバタと暴れながらフローリスをギロリと睨みつけるアルバ。
その瞬間だった。
彼女の赤い瞳の奥で、魔力の波長が劇的に変化したのを、フローリスの卓越した魔法使いの感覚が捉えた。
アルバの視線が、フローリスの全身を覆う微細な『魔力のパス』をなぞるように動き、ピタリと止まる。
「……ちょっと、あんた」
アルバの顔から、先ほどまでの子供のような無邪気さがスッと消え失せ、底知れぬ嫌悪感と怒りが浮かび上がった。
「あんた……うちのアニスと『精霊契約』したでしょ!?」
「えっ」
フローリスの心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
(嘘だろ……!?)
アニスと交わした精霊契約は、つい先ほどフローリスが自身の強大な魔力で幾重にも隠蔽を施した、極秘の術式だ。たとえ宮廷魔法局の局長であるノアでさえ、一目見ただけで見破ることは不可能なはずである。
それを、この少女は目覚めてほんの数分で、しかもフローリスの魔力の奥底に繋がれた魂のパスを完璧に視認してみせたのだ。
「あんた、なんか脅したの!? 無理やり契約を押し付けたんでしょ! なんか胡散臭い顔してるもんね!」
「いや、脅してないし。あっちから一生忠誠を誓うって言んだけど……」
「嘘よ! いつもはヘラヘラ笑って女を騙してるくせに、裏では冷酷に人を切り捨てるような顔してるじゃない! あ! そうやって、純粋で優しいキアラちゃんのことも騙して囲ってるんでしょ……! この変態野郎!!」
これにはフローリスもぐうの音も出なかった。
なぜなら、彼女の指摘は、フローリスの『王国一の魔法使い(裏の顔)』としての本質を一寸の狂いもなく正確に言い当てていたからだ。
だが、キアラのこととなれば話は別である。
「ちょ、変態じゃないし! 俺たちは神様の前で誓い合った正当な夫婦だし! むしろ俺の方がキアラちゃんにベタ惚れで……ッ」
「まあまあ、二人とも落ち着け! ここは病室だぞ!」
取っ組み合いの喧嘩を始めそうな勢いの二人(公爵閣下と見知らぬ少女)の間に、たまらずキアラが割って入った。
「アルバ、と言ったか? フローリスはお前たちを傷つけるような男ではない。あの地下室で縛られていたお前を助け出したのも、お前をここまで治療したのも、他ならぬこのフローリスなのだ」
「キアラ、ちゃん……」
「だから、そんなに威嚇しないでやってくれ。こいつは少し過保護で独占欲が強すぎるきらいがあるが、根は良いヤツなのだ」
キアラの言葉に、フローリスは(過保護で独占欲が強いのは認めるけど!)と内心でツッコミながらも、妻が自分を庇ってくれたことに少しだけ胸を撫で下ろした。
アルバも、大好きなキアラに宥められたことで、少しだけ毒気を抜かれたようにシュンとした。
しかし、すぐに再びキリッとした顔つきになり、フローリスの手から抜け出すと、キアラの手を両手でギュッと握りしめた。
「キアラちゃん、大丈夫!? あの変態に、何か変なことされたりしてない!? 痛いこととか、無理やり変な格好させられたりとかしてない!?」
「え? い、いや……別に何もされてないが……(変な格好といえば、私が勝手にドレスを着てフローリスに泣かれたくらいか)」
「よかったぁ……! でも安心して、キアラちゃん! もう私がいるからには、手なんて出させないんだから!」
アルバはキアラの腕にピタリと抱きつき、フローリスに向かって「べーっ」と勝ち誇ったように舌を出した。
「なんせ、私とキアラちゃんは『契約』で繋がれた者同士だもんね!」
「……は?」
その爆弾発言に、フローリスの思考が完全に停止した。
静まり返る客間。
キアラも信じられないというように、自分の腕にしがみつくアルバの顔をマジマジと見つめている。
(キアラちゃんと、契約……!?)
フローリスの脳内で、猛烈な勢いで情報処理が行われる。
あり得ない。キアラは魔力を持たない、生粋の武闘派の人間だ。精霊と契約を交わすなど、物理的にも魔術的にも不可能である。
それなのに、目の前のこの少女は、嘘をついているようには見えなかった。
「ちょっと待って」
その和やかな(?)空気を切り裂くように、フローリスの低く冷たい声が響いた。
先ほどまでの、嫉妬に狂う夫としての態度は綺麗に消え去り、そこには王国筆頭の魔法使いとしての、底知れぬ凄みが現れていた。
フローリスの黄金色の瞳が、針のように細められ、アルバを真っ直ぐに射抜く。
「……君、なんなの? ただの精霊じゃないよね」
フローリスの見立てでは、アルバは確かに強力な魔力を持った高位精霊だと思っていた。
だが、フローリスがつい先ほど結んだばかりの極秘の魔力パスを一瞬で見破り、魔力を持たない人間と魂の契約を交わしているというあり得ない事実。
彼女の放つ魔力の質は、ただの自然現象の具現化などではない。もっと古く、もっと巨大で、神の領域に近い何かだ。
フローリスの放つ本気のプレッシャーに、アルバは先ほどまでのキャンキャンと吠えるような態度をピタリと止めた。
彼女はキアラの腕から離れると、ベッドの脇にスッと居住まいを正して立った。
ボロボロの衣服を着ているというのに、その佇まいはまるで王宮の玉座に座る君主のように、圧倒的で優雅な気品に満ちていた。
フローリスの見つめる先で、アルバは両手でドレスの裾を摘むような仕草をし、フローリスとキアラに向かって、完璧で古式ゆかしい最敬礼をして見せた。
「……失礼いたしましたわ、ヴェイン公爵閣下」
空気が、変わった。
客間を満たしていた空気が、アルバの魔力に呼応して、神聖で荘厳なものへと塗り替えられていく。フローリスの肌が、その途方もない質量の魔力にチリチリと粟立った。
「改めて名乗らせていただきます」
アルバの赤い瞳が、宝石のように煌々と輝きを放ち、愛しいキアラを見上げる。
「私は、キアラちゃんと契約し、彼女の全てを守ると誓った大精霊アルバ……この世の全ての精霊を統べる、女王です」
その爆弾のような自己紹介が、ヴェイン公爵邸の客間に静かに、しかし世界を揺るがすほどの衝撃を持って響き渡った。
「……女王、だと?」
キアラが呆然と呟く。
フローリスは押し黙ったまま、目の前の少女から放たれる規格外の魔力波動を肌で感じ取っていた。
(精霊の女王……。神話の時代から存在すると言われる、自然界の絶対的支配者。そんなバケモノが、なんで魔力を持たないキアラちゃんと……!?)
妻を溺愛する規格外の天才魔法使いのフローリスと、妻の魂に異常な執着を見せる精霊の女王。
そして、自分がいつの間にそんなとんでもない存在と契約していたのか全く身に覚えがない、生粋の武闘派令嬢キアラ。
(あー……これ、絶対面倒くさいことになるやつだ……)
ヴェイン公爵邸の騒がしくも愛に溢れた日々は、この精霊の女王の目覚めによって、フローリスの頭痛の種をさらに一つ増やす形で、よりカオスな方向へと加速していくこととなるのだった。
アルバは女王様だった……!
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