第36話:精霊契約と書いて優秀な手駒と読む
「君が『精霊』だってことくらい、とっくに調べがついてるんだよ」
フローリスのその一言は、アニスがこれまで必死に築き上げてきた精神の防壁を、木端微塵に粉砕した。
「あ……が……っ」
アニスの喉から、声にならない乾いた音が漏れる。
もはや、完璧な『気弱な使用人』の仮面を保つことなど不可能だった。彼の膝は完全に力を失い、ソファから滑り落ちるようにして、執務室の厚い絨毯の上にへたり込んだ。
フローリスはそんなアニスの様子を、ソファに深々と腰掛けたまま、薄氷のように冷たい黄金色の瞳で見下ろしている。その表情には、いつもの飄々とした軽薄さは微塵もなく、ただただ絶対的な力を持つ支配者としての威圧感だけが満ちていた。
「そんなに怯えないでよ。別に、君を解剖して精霊の生態を調べようとか、そういう悪趣味なことを考えてるわけじゃないからさ」
フローリスはティーカップを手に取り、優雅に口をつける。
「君のお姉さん……アルバちゃんだっけ。彼女なら、もううちの屋敷の客間で保護して、俺が治療してるから安心していいよ」
「————え?」
絶望の淵に突き落されていたアニスの顔が、弾かれたように跳ね上がった。
「ほ、保護、して……治療……?」
「うん。三日前かな。キアラちゃんと一緒に、北の山脈の麓にある打ち捨てられた廃村の小屋を掃除しに行った時にね、地下室で捕まってたのを見つけたんだ。……あの子、俺たちの顔を見るなり『キアラちゃん、迎えに来てくれたんだね』って言って、気絶しちゃったんだけどね」
その言葉を聞いた瞬間、アニスの赤い瞳から大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
姉は生きていた。しかも、自分が騙し、贄として差し出そうとしていたキアラの手によって救い出されたというのだ。
安堵で胸が張り裂けそうになる同時に、アニスの全身を強烈な『恐怖』と『罪悪感』が支配した。
フローリスはすべてを知っている。自分が姉を人質に取られて教団の犬に成り下がり、この公爵邸に潜り込んだ内通者であることも。
姉を救い出してくれたこの絶対的な魔法使いは、一体自分に何を要求するつもりなのか。
「だ、旦那、様……っ」
アニスは絨毯に這いつくばり、ガタガタと激しく震える体を抱きしめながら、懺悔するように口を開いた。
「……私の、姉は……教団の狂信者たちに、捕まっていたのです。彼らは姉の命と引き換えに、至高の魔獣を降臨させるための『贄』……つまり、深紅の瞳を持つ優れた武人であるキアラ様を、外へ連れ出し、結界のほころびに誘導しろと、私に命じました」
「ふーん。それで、君は庭師としてうちに潜り込んだってわけだ」
フローリスは相槌を打ちながらも、その視線は一切の温度を持っていなかった。
「はい……っ。私は、姉を助けるためなら、どんな罪でも犯すつもりでした。キアラ様を騙し、魔獣の餌食にしてでも……っ」
アニスの声は、嗚咽で途切れ途切れになっていた。
「ですが……キアラ様は、こんな正体も知れない下働きの私に、とても優しく接してくださいました。剣の腕を褒め、私の淹れた茶を笑って飲んでくださった。……あんなに気高く、真っ直ぐで純粋な方を裏切ることなど、私には、どうしてもできませんでした……ッ!」
だからこそ、あの夜。
アニスは教団の命令に背き、キアラの命を狙う狂信者たちの凶刃の前に、自らの身を投げ出したのだ。
もはや姉の命がどうなるかも分からないという絶望の中で、せめて自分の命と引き換えに、あの優しく気高い公爵夫人の命だけでも守りたかった。
「……なるほどね。大体俺の予想通りだったよ」
フローリスはコトリとティーカップを置き、ゆっくりとソファから立ち上がった。
そして、床で泣き崩れるアニスの前にしゃがみ込み、彼の真っ白な髪を乱暴に鷲掴みにして、無理やり顔を上げさせた。
「ひっ……!」
「君のその姉思いなところは、涙ぐましくて嫌いじゃないよ。……でもね、アニスくん」
至近距離で覗き込んでくるフローリスの黄金色の瞳は、爬虫類のように冷たく、残酷な光を放っていた。
「君、教団の連中に騙されてたんだよ。アルバちゃんはね、人質なんかじゃなかった。あの子、地下室の魔法陣の真ん中で、手足を鎖で繋がれて……狂信者どもの禁術を起動させるための『魔力電池』として、生命力を限界まで搾取されてたんだから」
「——なっ!?」
アニスの呼吸が止まった。
教団の連中は「姉は丁重に扱っている。贄を連れてくれば無傷で返す」と約束していた。それが全て嘘だったというのか。自分がキアラを差し出したところで、姉は使い捨ての道具として殺される運命だったのだ。
「俺たちが駆けつけるのがあと数日遅かったら、アルバちゃんは魔力を吸い尽くされて死んでたよ。……君が信じた連中は、そういうクズどもだったってこと」
「あ……ああ……ッ!!」
アニスの口から、獣のような絶望の叫びが漏れた。
自分は何て愚かだったのか。姉を救うどころか、結果的に姉を苦しませ続け、さらに何の罪もないキアラまで危険に晒してしまった。
「ごめんなさい……っ! 申し訳、ありませんでした……ッ! 私の命など、どうなっても構いません! どうか、どうか姉だけは……キアラ様には、何も……ッ!」
床に額を擦り付け、狂ったように謝罪と哀願を繰り返すアニス。
彼にとっては、キアラに真実を知られ、あの真っ直ぐな赤い瞳で軽蔑されることこそが、何よりも恐ろしかったのだ。
フローリスは、そんなアニスの無様な姿を冷ややかに見下ろしていたが、やがてフッと息を吐き、髪を掴んでいた手を離した。
「……まあ、いいや。今回は、これで許してあげる」
「え……?」
思いがけないフローリスの言葉に、アニスは顔を上げた。
「許すって言ったんだよ。君が教団の犬だったことも、キアラちゃんを騙そうとしてたことも。……あの夜、君が自分の身を呈してキアラちゃんを守ってくれたのは、紛れもない事実だからね」
フローリスは立ち上がり、懐から真っ白なハンカチを取り出して、アニスの目の前にポイと落とした。
「俺のキアラちゃんに傷一つつけなかったこと。そして、身を挺して俺の大切な妻を守ったこと。その温情に免じて、君の裏切りはチャラにしてあげる」
「旦那、様……」
「それに、キアラちゃんは君のことを『気の利く弟分』だってすっごく気に入ってるからね。今更『実はあの庭師は教団の内通者でした』なんて事実、キアラちゃんに知られたらショック受けちゃうでしょ。俺、キアラちゃんにはずっと笑っててほしいからさ。だから、この件は俺と君だけの秘密にしてあげる」
フローリスの言葉は、あまりにも優しく、そして底知れぬほど傲慢だった。
ヴェイン公爵家という国家権力の中枢にありながら、彼の行動原理は常に「妻が悲しむか、喜ぶか」という一点のみに集約されている。王国への反逆罪に等しい内通者の罪すら、妻の笑顔を守るためなら平気で握り潰す。
その純粋すぎる異常性に、アニスは背筋が凍るような畏怖の念を抱いた。
「……ですが、ただで許すわけじゃないよ?」
フローリスは、執務机の上に置かれていた一本の古びた短剣を手に取った。
それは、魔法使いが『契約』を交わす際に用いる、強力な呪縛の魔具だった。
「君たち姉弟を助けて、匿って、しかも罪を見逃してあげるんだ。それなりの対価は払ってもらわないとね」
フローリスは短剣の刃を自らの指先に当て、スッと引き裂いた。滲み出た赤い血の滴を空中に散らしながら、アニスの目の前で複雑な契約の魔法陣を描き始める。
「アニスくん。君にはこれからも、この屋敷の『庭師』としてキアラちゃんの傍にいてもらう。……でも、裏では『俺専用の隠密隊員』として働いてもらうからね。精霊の君なら、人間の目や結界を掻い潜って、情報収集したり暗殺したりするの、得意でしょ?」
フローリスの黄金色の瞳が、夜の獣のように妖しく光る。
「教団の残党狩り、王宮内のネズミのあぶり出し。全部、君に手伝ってもらう。俺と『精霊契約』を結んで、一生俺とキアラちゃんのためにその命を使い潰すこと。……それが、君たち姉弟を助けた代償だよ。できるよね?」
それは確認ではなく、絶対の命令だった。
もしここで断れば、自分と姉の命がどうなるか。いや、命を奪われる方がまだマシかもしれない。この規格外の魔法使いは、自分たちを永遠に後悔させるような地獄を平気で用意できる男だ。
だが、アニスの心に迷いはなかった。
姉を救ってくれた。自分の愚かな過ちを許してくれた。そして何より、自分が罪悪感に苛まれながらも敬愛してしまった、あの気高く美しい公爵夫人・キアラの傍で、今度こそ本当の意味で彼女を守る盾になれるのだから。
「……謹んで、お受けいたします」
アニスはゆっくりと立ち上がり、フローリスの前に片膝をついて、深々と頭を垂れた。
その美しい白髪が揺れ、透き通るような赤い瞳には、一切の迷いのない、強烈な忠誠の光が宿っていた。
「私の命、私の魔力、私の全ては、ヴェイン公爵閣下と、奥様のために。このアニス、我が精霊の核に誓って、生涯お二人の影となり、剣となることを誓約いたします」
「うん。良いお返事だね」
フローリスが空中に描いた血の魔法陣が、眩い黄金色の光を放ち、アニスの胸の奥へと吸い込まれていく。
心臓を鷲掴みにされるような絶対的な主従の呪縛。しかし、アニスにとってそれは、心地よいほどの安心感をもたらす楔であった。
「それじゃあ、契約成立ね。これからもよろしく、アニスくん」
「はい、我が主。……姉の命を救っていただき、本当に、本当にありがとうございました」
涙の痕が残る顔で、アニスは初めて、心の底からの安堵の微笑みを浮かべた。
「アルバちゃんの方も、目を覚ましたらちゃんと事情を説明しておくから。心配しないで、まずは庭仕事に戻ってね。あ、くれぐれもキアラちゃんには内緒だよ? 俺、キアラちゃんの前では『優しくてかっこいい旦那様』でいたいからさ」
「承知いたしました。私はただの、花と木を愛する新米庭師です」
アニスが深く一礼し、執務室を後にする。
パタンと重厚な扉が閉まり、部屋に再び静寂が戻った。
フローリスはソファに深く沈み込み、ふぅと大きく息を吐き出した。
冷酷な支配者の仮面を剥ぎ取り、いつもの「フローリス・ヴェイン」のヘラヘラとした顔に戻る。
(ふふっ、これで優秀な手駒が一つ手に入った。しかも、精霊の隠密隊員なんて、王宮の連中も教団のクズどもも絶対に出し抜ける最高の手札だ)
キアラを狙う不穏分子は、まだ王都のどこかに潜んでいる。王太子エーリヒも、面白半分で事態を引っ掻き回してくるかもしれない。
だが、もう恐れることはない。
キアラの背中を守る盾は強固になり、彼女に牙を剥く敵の喉元を掻き切るための見えない刃も手に入れた。
「……待っててね、キアラちゃん。君の生きる世界は、俺が全部、綺麗に掃除してあげるから」
フローリスは執務机の上に置かれた、妻が笑っている小さな肖像画を指先で優しく撫でた。
その黄金色の瞳には、狂気的なほどの深い愛情と、誰にも妻を傷つけさせないという絶対の決意が、静かに、だが激しく燃え盛っていた。
最強の魔法使いと、その狂信的な愛。
そして、すべてを知らぬまま夫の背中を守ろうと剣を握る武闘派の妻。
ヴェイン公爵夫妻の周囲で渦巻く陰謀は、この日を境に、フローリスの完璧な盤上へと引きずり込まれていくのだった。
次回はアルバが目を覚まします!
続きはまた明日の20時投稿です!よろしくお願いいたします!




