第34話:おかしな話
ヴェイン公爵邸の主として、そして何より愛する妻・キアラを守る夫として、フローリスは自身の領分における全ての不穏分子に目を光らせていた。
あの夜、妻が一人で外壁に飛び出し、危機に陥った事件。その場に居合わせ、身を挺してキアラを庇った新米の庭師・アニス。
表向き、彼は「おとなしく、気弱で、花を愛する純朴な平民の青年」ということになっている。キアラもすっかり彼を「気の利く頼もしい弟分」として信用し、怪我の件以来、以前にも増して彼に親しみを持っているようだった。
だが、フローリスの胸中には拭い去れない違和感が巣食っていた。
(おかしな話だよねぇ……)
執務室のデスクに肘をつき、フローリスは手元の資料に目を落しながら、静かに思考を巡らせる。
アニスが受けた傷は、あの場にいたカルト教団の狂信者たちが放った凶刃によるものだった。一般人であれば即死しかねないほどの深手を負っていながら、彼の治癒の過程は妙に早かった。いや、それだけではない。傷の塞がり方、そしてあの夜の現場に残されていた微弱な魔力の残り香——人間のものではない、どこか冷たくて透き通った異質な気配が、どうしても彼の脳裏から離れなかったのだ。
——それに、だ。
(あの子があの日、あんなピンポイントでキアラちゃんの危機に駆けつけられるものかな?)
まるで最初からそこで何が起きるかを知っていたかのように、タイミングよく現れ、完璧にキアラの盾になってみせた。結果としてキアラの信頼を勝ち取り、今や屋敷の中で何の疑いも持たれずに過ごしている。
それがただの偶然である確率など、フローリスのような卓越した魔法使いの計算上ではゼロに等しかった。
(もし彼が、あの教団の回し者なのだとしたら……いや、たとえそうだとしても、現時点でキアラちゃんは彼を全く疑っていない。むしろ、恩人として大切に扱っている。ここで下手に表立った排除をすれば、キアラちゃんがショックを受けるだろうし、何より彼女の心をまた曇らせることになってしまう)
キアラの平穏と笑顔を守ること。それが今のフローリスにとっての絶対の最優先事項だった。
だからこそ、彼が本当に敵なのか、それともただの偶然なのか、自分の手ではっきりと見極めておく必要があった。
コン、コン。
静かなノックの音が響き、フローリスは思考を切り替えて「はーい、入っていいよ」といつもの軽いトーンの声を返した。
「失礼いたします。旦那様、アニスです。お呼びと伺いまして」
扉が開き、そこに入ってきたのは、見慣れた純白の髪と、整った中性的な顔立ちをした青年だった。アニスは恭しく一礼し、相変わらず儚げで穏やかな笑みを浮かべている。
その佇まいはどこからどう見ても、無力で善良な庭師のそれだった。
「やあ、アニスくん。来てくれてありがとう。まあ、そこに座ってよ」
「はい、失礼します……」
アニスは促されるままに来客用のソファに腰を下ろす。フローリスも向かい側に座り、あらかじめ用意しておいた温かい紅茶を彼の前に差し出した。
「体調はどう? もう傷口は痛まない?」
「はい。旦那様の素晴らしい治癒魔法のおかげで、すっかり良くなりました。このような一介の庭師のために、公爵閣下自らお力を使っていただき、本当に申し訳ありません」
謙虚に頭を下げるアニスの仕草は完璧だった。粗の付けようがないほど、従順な使用人の態度そのものだ。
だが、フローリスはその様子を観察しながら、心の奥で冷ややかに笑っていた。
(——演技なら、なかなかのものだね。パッと見じゃ、本当にただの気弱な男の子にしか見えない)
「そんなの気にしなくていいよ。むしろ、俺の方こそアニスくんには頭が上がらないんだから。あの夜、キアラちゃんを命懸けで守ってくれたこと、どれだけ感謝しても足りないくらいなんだからさ」
「もったいないお言葉です。私はただ、奥様がご無事であればと、体が勝手に動いてしまっただけで……」
伏し目がちに微笑むアニス。
フローリスはその言葉を肯定するようにうなずきながら、さりげなく、しかし逃れられない核心へと話を転がしていく。
「そうだよね、本当に勇敢だった。だからこそ、ちゃんとお礼がしたくて呼んだんだ。怪我の慰謝料も兼ねてね。アニスくん、何か欲しいものはある? お金でも、王都の一等地にある家でも、あるいはもっと地位の高い仕事でもいいよ。君が望むなら、なんでも叶えてあげる」
白紙の小切手も同然の申し出。
普通の人間であれば、その誘惑に目が眩むか、あるいは喜んでそれに飛びつくはずの条件だ。
だが、アニスは穏やかに首を振った。
「旦那様、お心遣い、本当にありがとうございます。ですが、私には過ぎたお話です。私はただ、花や木々を育て、この美しい庭を手入れすることに喜びを感じておりますので……それに、キアラ様というお優しい方にお仕えできること自体が、私にとって何よりの報酬なのです。どうかこのまま、この屋敷の庭師として働かせていただけないでしょうか」
その返答を聞きながら、フローリスは心中で小さく息を吐いた。
(欲を見せない、か。いよいよ怪しいねぇ。普通の平民なら、ここぞとばかりに金や地位をねだるか、あるいはもっと露骨に動揺するはずだ。それなのに、この徹底した『理想の庭師』の演じっぷり……逆に不自然すぎるんだよ)
フローリスの黄金色の瞳の奥で、冷徹な理知の光が微かに揺らめいていた。
彼の正体を暴くためのカードは、すでに手元に揃っている。
あの夜の不自然な治癒の痕跡、王都の裏社会を徹底的に洗わせた結果浮かび上がってきた微かな違和感、そして——彼がひた隠しにしている「たった一つの事実」。
フローリスはカップに口をつけ、紅茶の温もりで微かに喉を潤すと、ゆっくりと顔を上げた。
そして、これまでの穏やかな笑みをすっと消し去り、底知れない冷たさを宿した目で、目の前の青年をじっと見据えた。
「……そっか。本当に、何も望まないんだね」
「……ええ。私は、このままで十分に……」
アニスの表情に、ほんの一瞬、わずかな強張りが走ったのを見逃さなかった。
フローリスは優雅に頬杖をつき、まるですべてを見透かすような、ねっとりと絡みつくような低い声で呟いた。
「ねえ、アニスくん。君さ……」
執務室の空気が、ピリッと張り詰める。フローリスの纏う魔力が、意識せぬまま室内の重力を変えていくかのような錯覚を呼ぶ。
「たしか、天涯孤独の身って言ってたっけ?」
「……は、はい。孤児院で育ちましたので、身寄りなどは特に……」
「へぇ。不思議だなァ」
フローリスはふっと、悪戯っぽく、けれど一切笑っていない冷たい笑みを浮かべた。
「君の戸籍を徹底的に洗ったらさ、どこにもそんな記録は出てこなかったんだよね。それどころか、君がずっと大事に隠し持っている『血の繋がったお姉さん』の存在まではっきりと確認できちゃったんだけど……おかしくない? 誰にも教えていなかったはずの家族のことを、どうして俺が知っているんだろうね?」
ビスッ、と空気が凍りついた。
「————ッ!!」
その瞬間、アニスの顔から血の気が完全に引いた。
完璧に作り上げていた『無害な庭師』の仮面が、音を立てて剥がれ落ちる。彼の瞳孔が恐怖で限界まで見開かれ、呼吸が完全に止まった。
自分が誰にも教えていないはずの「姉」の存在。そして、それが外部の人間、しかもこの公爵家に完全に把握されていたという事実。それは彼にとって、自身の秘密裏の計画や正体が、すでにすべて裸にされていると同義だった。
「あ……が……」
震え、言葉を失うアニスを、フローリスは冷ややかに見下ろしたまま、トドメとばかりに優しく、残酷に囁いた。
「そんなに驚かないでよ。……だって、君が人間じゃない、『精霊』だなんてことまで、もうとっくに調べがついてるんだからさ」
執務室の静寂の中に、フローリスの静かな声だけがいつまでもこだましていた。
アニスは何なのか……!
感想や評価良ければお願いいたします!
明日も20時に投稿予定です!




