第33話:嫌われたくない
王宮での執務をすべて放り出し、フローリスは風の魔法を全開にしてヴェイン公爵邸へと飛んで帰ってきた。
「旦那様!? お戻りが早かったのですね、お出迎えの準備が——」
「キアラちゃんは!? どこにいるの!?」
エントランスで目を丸くする執事の言葉を遮り、フローリスは息を切らしながら尋ねた。
ただならぬ当主の様子に、執事は慌てて「奥様でしたら、今はサンルームで刺繍を……」と答える。
それを聞くや否や、フローリスは再び屋敷の廊下を猛スピードで駆け出した。
(謝らなきゃ。俺の不格好で自分勝手な本音を、全部キアラちゃんに伝えなきゃ……ッ!)
サンルームの前に辿り着くと、フローリスは大きく深呼吸をして、乱れた金髪を手櫛でサッと整えた。
そして、ゆっくりと重い木製の扉を押し開ける。
陽光がたっぷりと降り注ぐ明るいサンルームの中央。
そこには、今朝と同じ、首元までびっしりとレースで覆われた重厚なドレスに身を包んだキアラがいた。彼女は背筋をピンと伸ばし、ひどく窮屈そうに、けれど完璧な姿勢で刺繍枠に向かっていた。
「……キアラちゃん」
フローリスが声をかけると、キアラの肩がビクッと跳ねた。
彼女はゆっくりと振り返り、フローリスの姿を認めると、すぐさま立ち上がって完璧なカーテシー(淑女の礼)をして見せた。
「あら……フローリス様。どうなさいましたの? 本日は夕方まで宮廷魔法局でのお仕事だと伺っておりましたが……」
鈴を転がすような、感情の抜け落ちた『令嬢口調』。
いつもなら「おいフローリス! もう帰ってきたのか!」と無邪気に駆け寄ってくるはずの妻の、そのあまりにもよそよそしい態度に、フローリスの胸がギュッと締め付けられる。
「ごめんね、仕事、途中で抜け出してきちゃった。……どうしても、キアラちゃんに今すぐ言わなきゃいけないことがあって」
「私に、ですか? それは一体……」
不思議そうに小首を傾げるキアラの元へ、フローリスはツカツカと歩み寄った。
そして、彼女の手から刺繍枠をそっと取り上げ、近くのテーブルに置くと、彼女の両手を自分の両手でしっかりと包み込んだ。
「っ……フローリス、様?」
「キアラちゃん。……ごめんね」
フローリスは、そのまま深く、深く頭を下げた。
キアラは突然の謝罪に目を丸くし、戸惑ったように身をすくませた。
「昨日の夜、あんなにひどい顔で、キアラちゃんのこと怒鳴ったりして……本当にごめん。キアラちゃんを傷つけるつもりなんて、全然なかったんだ。俺が……俺が、バカだった」
「そんな、頭を上げてくださいませ! 私は何も、傷ついてなど……っ。私がフローリス様の足手まといになるような、はしたない真似をしたから、怒らせてしまっただけで……」
キアラは必死に完璧な『公爵夫人』の仮面を取り繕おうとしていた。
彼女の中では、この結婚はあくまでヴェイン家とモーランド家の利益のための『ビジネス(義務)』だという認識が根底にある。だからこそ、有能なビジネスパートナーであるフローリスの手を煩わせ、怪我人まで出してしまった自分が許せなかった。
『フローリスに愛想をつかされないためには、彼が望むような安全で完璧な妻を演じなければ』——その強迫観念が、彼女をこの息苦しいドレスに押し込めていたのだ。
だが、フローリスは頭を上げると、キアラの赤い瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「違うよ。俺が怒ったのは、キアラちゃんが足手まといだったからじゃない。……怖かったんだ」
「……え?」
「あの夜、俺が目を覚ました時、隣にキアラちゃんがいなくて。慌てて探したら、キアラちゃんが血だまりの中で、蒼い顔して座り込んでた。……俺、あの瞬間、本当に心臓が止まるかと思ったんだよ」
フローリスの声は微かに震えていた。
その黄金色の瞳の奥にあるのは、怒りでも失望でもなく、ただひたすらに純粋な『喪失への恐怖』だった。
「俺がずっと探してた『ネズミ』は、ただの密偵なんかじゃない。キアラちゃんの命を『贄』として狙ってた、頭のおかしい狂信者たちだったんだ。……そんなヤバい奴らの前に、俺の大切なキアラちゃんがたった一人で飛び込んでいったって分かった時……俺、どうにかなりそうだった」
キアラは息を呑んだ。
彼女の手を包み込むフローリスの手は、少し冷たくて、そして微かに震えていた。王国一の魔法使いとして、常に余裕のある笑みを浮かべていた彼が、今、自分という存在を失うことを本気で恐れ、怯えている。
「俺、キアラちゃんに万が一のことがあったら、本当に生きていけない。……だから、あんな風に怒鳴っちゃったんだ。キアラちゃんを否定したかったわけじゃない。ただ、俺の目の届かないところで、いなくならないでほしかっただけなんだよ……ッ」
その切実な声が、キアラの胸の奥を激しく揺さぶった。
(……フローリスが、私を失うのが、怖い?)
「だからね、キアラちゃん。もうこんな、息もできないようなドレス、着なくていいよ。無理して『完璧な奥様』なんて、演じなくていい」
フローリスはキアラの頬にそっと手を伸ばし、彼女の赤い瞳を見つめながら、とろけるように甘く、そして真摯な声で紡いだ。
「俺は、庭で木刀振って汗かいてるキアラちゃんが好き。お肉をモリモリ食べて、口の周りにソースつけて笑ってるキアラちゃんが好き。……俺が選んだのは、誰よりもかっこよくて、真っ直ぐで、大好きな『キアラちゃん』なんだから。俺のために、キアラちゃんの良いところを殺したりしないで」
「フロ、リス……」
キアラの口から、無意識のうちに『フローリス様』という取り繕った敬称が剥がれ落ちた。
目の前にいるフローリスは、いつもヘラヘラと笑っている飄々とした『魔法使い』でも、有能な『公爵』でもなかった。
熱を帯びた黄金色の瞳。頬に触れる、大きくて男らしい手のひら。微かに香る、彼特有の甘い魔力の匂いと、大人の男の香水。
(なんだ、これ……ッ。私、どうしてこんなに、心臓が……)
キアラの胸の奥で、今まで感じたことのない、強烈な熱が弾けた。
彼がただの「ビジネスパートナー」だと思い込もうとしていた心の防壁が、彼の真っ直ぐな愛情と、圧倒的な『オス』としての熱量に当てられて、音を立てて崩れ去っていく。
フローリスに見つめられているだけで、顔から火が出るほど熱い。彼の声が鼓膜を震わせるたびに、腹の底が甘く痺れるように震える。
これが『男』として意識するということなのだと、武にしか生きてこなかった彼女の細胞が、今更ながらに強制的に理解させられていた。
「でも、一つだけ約束してほしいんだ」
フローリスはキアラの頬を撫でながら、静かに、だが決して譲らない強い意志を込めて言った。
「キアラちゃんは強いよ。そこらの騎士なんかより、ずっと優秀な戦士だ。……だから、もし次に、今回みたいな不審なヤツらや、怪しい『ネズミ』を見つけたら。絶対に、俺に報告して。一人で夜回りにいったりしないで」
「……っ」
「キアラちゃんが剣を抜くって言うなら、俺が隣で魔法で援護する。キアラちゃんが前に出るなら、俺が結界を張って背中を守る。……キアラちゃんの剣を折るつもりはないから。だから、戦う時は……俺と共闘してよ。俺たち、夫婦なんだからさ」
『共に戦おう』。
それは、武を誇りとするキアラにとって、この世のどんな甘い愛の言葉よりも、深く、強く、そして彼女の矜持を尊重した、最高のプロポーズだった。
張り詰めていた糸が、プツンと切れた。
キアラの大きな赤い瞳から、ポロポロと、大粒の涙が溢れ出した。
「あ……っ、あれ……?」
自分でも信じられないというように、キアラは震える手で頬を伝う涙を拭った。だが、一度堰を切って溢れ出した感情は、もう止めることができなかった。
「ごめん、なさい……ッ。私、お前に……っ、怒られて……っ、もう、呆れられたかと……ッ」
「キアラちゃん……」
「足手まといだから、もういらないって……っ。嫌われたかと思って……すごく、怖かった……っ」
令嬢言葉ではない、彼女本来の少しぶっきらぼうな、けれど子供のようにしゃくりあげる声。
(フローリスに捨てられたくない。嫌われたくない。)——それは、政略結婚の相手としての義務感などでは到底説明のつかない、純粋で、切実な彼女の『恋心』の露呈だった。
「俺がキアラちゃんを嫌いになるわけないじゃん。……大好きなのに」
フローリスは泣きじゃくるキアラを、強く、強くその腕の中に抱き寄せた。
窮屈なフリルのドレスごと、彼女の華奢な体をすっぽりと包み込む。キアラはフローリスの広い胸に顔を埋め、彼の衣服をギュッと握りしめながら、小さな声で何度も「ごめんなさい」と繰り返し、泣き続けた。
「もう泣かないで。俺の方こそ、寂しい思いさせてごめんね。……俺、キアラちゃんのこと、誰よりも一番に守るから。だから、これからは何でも俺に言ってね」
背中を優しくトントンと叩くフローリスの手は、ひどく温かくて、安心した。
フローリスの胸から聞こえる力強い心音に耳を傾けながら、キアラは己の内に芽生えた、熱く甘い感情に完全に白旗を上げていた。
(ああ……私は、この男のことが、本当に……)
ただの同盟相手でも、形式上の夫でもない。
フローリス・ヴェインという一人の男に、自分は今、猛烈に惹かれているのだと。
サンルームに降り注ぐ柔らかな光の中、二人はようやく、本当の意味で互いの心に触れ合っていた。
いつもありがとうございます!(´▽`)
やっと仲直り出来た2人!
明日も20時に投稿予定です!よろしくお願いいたします!




