第32話:本心じゃないですよね
王都のど真ん中、白い石造りの重厚な尖塔がそびえ立つ王立宮廷魔法局。
その一角にある局長室は、日夜王国中の魔力データや危険生物の管理報告書が山のように積み上げられ、常にピリリとした緊張感が漂う空間だった。
——だが、今日のそこには、明らかな『異物』が混ざっていた。
「…………」
高級な革張りのソファに深く腰を沈めたフローリスは、手元にあるはずの魔力波長の解析レポートに視線を落としたまま、完全に動きを止めていた。
いや、目は書類に向いているが、その焦点はどこにも合っていない。黄金色の瞳は虚ろに濁り、時折「はぁ……」と、この世の終わりでも見たかのような重いため息を吐き出している。
「……フローリス様。フローリス様?」
「…………」
「ヴェイン公爵閣下!」
「んぇ!? あ、ご、ごめん! なに, どうしたのノアちゃん。俺、ちょっと考え事してて……」
ビクッと肩を揺らして顔を上げたフローリスに、執務机の向こう側に座る小柄な局長——ノアは、呆れたように深くため息をついた。
「考え事、ですか。フローリス様がその書類の同じページを開いたまま、すでに三十分が経過しておりますが。ページに穴でも空けるおつもりですか?」
「あー……うん。ちょっと、この術式の構成が難解でさぁ……」
「それは先週、フローリス様ご自身が『こんなの三秒で解読できるよ』と鼻で笑いながら片付けた、ただの基礎魔力探知の報告書ですよ」
ノアの冷ややかな指摘に、フローリスは「あ、ほんとだ」と間の抜けた声を漏らし、パラリと書類をテーブルに投げ出した。
(ダメだ。全然頭に入ってこない……)
フローリスの脳裏を占めているのは、狂信者たちの残党の行方でも、王宮内の内通者の正体でもない。
今朝、屋敷を出る前に見た、愛する妻の姿だった。
『いってらっしゃいませ、フローリス様。お仕事、頑張ってくださいませね』
一糸乱れぬ完璧なカーテシー。隙のない優雅な微笑み。首元までびっしりとレースで覆われた、あの窮屈で重苦しいドレス。
感情を殺し、ただ『完璧な公爵夫人』という仮面を被ってしまったキアラの姿を思い出すだけで、フローリスの胸はギリギリと音を立てて潰れそうになる。
自分が怒鳴ってしまったせいで、キアラから「彼女らしさ」を奪ってしまった。その事実が、フローリスの心を黒い泥のように重く沈ませていた。
だが、これをこの職場で、しかも有能な仕事仲間であるノアの前で引きずるわけにはいかない。
フローリスは両手でパンッと自分の頬を叩くと、いつもの『羽風薫』の仮面を——女好きで、軽薄で、余裕のあるプレイボーイの仮面を、無理やり顔に貼り付けた。
「いやー、ごめんごめん! 実はさ、書類なんか見てる場合じゃないくらい、今日のノアちゃんがあんまりにも可愛くて、つい見惚れちゃってたんだよね〜」
「……は?」
「ねえ、ノアちゃん。こんなカビ臭い部屋で難しい顔して仕事するの、もうやめにしない? 今日は俺のおごりで、王都で一番美味しいって噂のケーキ屋さんに行こうよ。ノアちゃんみたいな可愛い子と一緒にお茶できたら、俺の憂鬱な気分も一発で晴れちゃうんだけどな〜。……なんてね?」
フローリスは身を乗り出し、甘く蕩けるような声でウインクを飛ばした。
かつて、キアラと心を通わせる前に、彼が息をするように振りまいていたあの手口だ。そうやって、適当な女の子を口説いて甘い時間を過ごせば、この胸の痛みも、キアラに対する不安も、少しは誤魔化せるような気がしたのだ。
しかし。
ノアの透き通るような紫色の瞳は、微塵も揺らがなかった。
彼女は持っていた羽ペンをインク壺に静かに戻すと、氷点下の視線でフローリスを真っ直ぐに見据えた。
「……フローリス様」
「ん? なあに、ノアちゃん。行く気になってくれた……」
「気持ちの悪い作り笑いはおやめください。見ているこちらが痛々しくなります」
「…………えっ」
バッサリと切り捨てられたフローリスは、引き攣った笑顔のまま硬直した。
「わ、悪い冗談だなあ、俺はいつだって本気で女の子を口説いて……」
「フローリス様がどれほど奥様にベタ惚れで、奥様以外の女性など石ころと同列にしか思っていないことなど、王宮中の誰もが知る事実です。そんな空虚な言葉で私を口説こうとするなど……よほど、心に余裕がないのですね」
ノアは立ち上がり、戸棚からハーブティーの茶葉を取り出しながら、静かに、だが確信を突くように言った。
「……奥様と、何かあったのですか?」
その一言が、決定打だった。
無理やり貼り付けていたフローリスの『余裕』の仮面が、パリンと音を立てて砕け散った。
「うぅ……っ、ノアちゃぁん……ッ!」
フローリスはそのままソファに崩れ落ち、両手で顔を覆って情けない声を上げた。
先ほどまでの甘い声も、軽薄な態度もどこへやら。そこにいるのは、ただ妻とのすれ違いに絶望し、途方に暮れる一人の不甲斐ない男だった。
「俺……っ、俺、キアラちゃんに嫌われちゃったかも……ッ。どうしよう、あんな顔させるつもりじゃなかったのに、俺のバカアホ……!」
「嫌われた? あの、フローリス様のことを心から信頼していらっしゃる奥様がですか? 一体何をやらかしたのですか」
ノアが温かいハーブティーをフローリスの前のテーブルにコトリと置き、向かいのソファに腰を下ろす。
フローリスは顔を覆っていた手を外し、目の下に濃い隈を作った死んだ魚のような目で、ポツリポツリと語り始めた。
「……数日前の夜、キアラちゃんが一人で……危ない連中のところに乗り込んじゃってさ」
使用人のアニスが怪我をしたという詳細は伏せたものの、キアラがフローリスの負担を減らしようとして、護衛もつけずに教団の残党と接触してしまったこと。そして、それに恐怖した自分が、パニックになって彼女を激しく怒鳴りつけてしまったことを、フローリスは懺悔するように打ち明けた。
「俺、本当に怖かったんだよ。もしキアラちゃんに万が一のことがあったらって思ったら、頭が真っ白になってさ……。気づいたら、すごくひどい顔で、正論を言ってキアラちゃんをひどく傷つけてしまったんだ。キアラちゃん、すごくショックを受けた顔してて……」
「なるほど。それで?」
「次の日の朝から、キアラちゃんが……俺の知ってるキアラちゃんじゃなくなっちゃったんだ」
フローリスの声が、微かに震える。
「動きにくい、首まで詰まったドレスを着て。庭で剣を振るうのもやめて、一日中サンルームで大人しく刺繍をしてる。俺の顔を見ても『おいフローリス!』って笑ってくれなくて、『フローリス様』って……感情のないお人形みたいに、完璧なお嬢様言葉で話すようになっちゃったんだよ……」
フローリスはテーブルに突っ伏し、金髪をグシャグシャと掻き毟った。
「俺、キアラちゃんのそういう堅苦しいところが嫌いだからって、いつも『自由にしてていいよ』って言ってたのに。あの子が庭で素振りして、お肉をモリモリ食べて、口の周りにソースつけて笑ってる姿が……本当は一番、大好きだったのに。……俺が、俺のせいで、あの子を窮屈な箱に閉じ込めちゃったんだ」
どうすればいいのか分からない。
謝ろうにも、完璧な微笑みで「奥様」を演じるキアラを前にすると、彼女の拒絶の壁を感じてしまい、言葉が喉の奥でつっかえてしまう。
このまま、一生キアラがあの作り笑いのままだったら。俺といることが、彼女にとってただの「窮屈な義務」になってしまったら。
「俺、今更どんな顔してキアラちゃんに話しかければいいか、分かんないよ……。嫌われてたら、どうしよう……」
フローリスの悲痛な独白を聞き終えたノアは、小さく、しかし呆れたようなため息をついた。
「……フローリス様は、王国一の魔法使いと呼ばれるほどの天才でありながら……こと恋愛や夫婦関係に関しては、本当に不器用でいらっしゃいますね」
「うぅ……容赦ないね、ノアちゃん……」
「いいですか、カオル様……ではなく、フローリス様。冷静になってお考えください」
ノアは紫色の瞳で真っ直ぐにフローリスを見据え、諭すように言った。
「奥様が完璧な『公爵夫人』を演じているのは、決してフローリス様を嫌いになったからでも、当てつけでやっているのでもありませんよ。……むしろ、逆です」
「逆……?」
「奥様は、フローリス様に嫌われたくないから、必死に『フローリス様の望む、安全で大人しい妻』になろうと努力していらっしゃるのではありませんか?」
その言葉に、フローリスはハッと顔を上げた。
「フローリス様が怒ったのは、『危険な真似をしてほしくなかったから』ですよね? 奥様は、ご自身の武力や行動力がフローリス様の負担になり、怒らせてしまったのだと深く反省されたのでしょう。だからこそ、武を捨てて、ドレスを着て、ご自身を『無害で完璧な令嬢』の枠に押し込めることで、フローリス様への謝罪と愛情を示そうとなさっているのです」
ノアの冷静な分析が、フローリスの胸にストンと落ちていく。
そうだ。キアラはそういう不器用で、真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐな子だった。彼女はフローリスを拒絶しているのではなく、彼女なりの方法で、フローリスの言葉に全力で応えようとしてくれていたのだ。
「でも……でも俺は、そんなこと望んでない! 俺はただ、キアラちゃんに怪我してほしくなかっただけで……あんな風に心を殺してほしいわけじゃ……!」
「なら、どうすればいいかなど、最初から決まっているではありませんか」
ノアはクスリと、どこか優しげに微笑んだ。
「素直になれば良いのです、フローリス様」
「素直に……?」
「ええ。怖かったなら『失うのが怖かった』と。心配だったなら『心配だった』と。そして、ご自身の言い方が悪かったと思うなら、真っ直ぐに『ごめんなさい』と」
ノアの言葉は、魔法の呪文よりも深く、優しくフローリスの心に浸透していった。
「フローリス様は、変にカッコつけすぎなのです。公爵としての威厳も、余裕のある男の振る舞いも、奥様の前では必要ありません。遠回しな気遣いも、私たちに向けるような甘い嘘もいらない。……ただ、フローリス様のそのありのままの、不格好でも真っ直ぐな気持ちを、奥様にぶつければいいだけです」
『素直になれば良い』。
そのシンプルな答えに、フローリスの目から、濁っていた迷いがサァッと晴れていくのが分かった。
(そうだ……。俺、またキアラちゃんの前で『余裕のある夫』ぶろうとしてた。嫌われるのが怖くて、傷つくのが怖くて、逃げてただけだ)
キアラが「完璧な公爵夫人」の仮面を被ってしまったのなら、俺が「完璧な公爵」の仮面を脱ぎ捨てて、一番情けなくて泥臭い本音を晒すしかないじゃないか。
「……素直に、か。そっか。そうだよね。俺、バカみたいに難しく考えすぎてたかも」
フローリスの黄金色の瞳に、本来の力強い光が戻ってきた。
彼は勢いよくソファから立ち上がると、憑き物が落ちたような、すっきりとした笑顔をノアに向けた。
「ありがとう、ノアちゃん! ノアちゃんのおかげで、目が覚めたよ!」
「どういたしまして。これでようやく、お仕事に集中していただけますね」
「うん! だから俺、ちょっと今から家に帰って、キアラちゃんとちゃんと話してくる! 仕事の続きは明日ね!!」
「……はい?」
フローリスはコートを引っ掴むと、風のようなスピードで執務室の扉へと駆け出した。
「ちょっ、お待ちくださいフローリス様!? 帰るって、まだお昼前ですよ!? せめてこの報告書の決裁サインだけでも……!」
「ごめーん! 愛する妻との話し合いより重要な任務なんて、この世にないから! ノアちゃん、本当にありがとね!!」
バタンッ! と勢いよく扉が閉まり、あとに残されたのは、突風で舞い散った書類と、呆然とするノアだけだった。
「……もう、嵐のような人ですね。本当に」
ノアは散らばった書類を拾い集めながら、深くため息をついた。
だが、その口元には、先ほどまでの呆れ顔ではなく、どこか安堵したような微笑みが浮かんでいる。
「まあ、あの死んだ魚のような目をしてうじうじしているよりは、ずっとマシですが」
天才魔法使いで、不器用な愛妻家の背中を見送りながら、ノアは静かにハーブティーのカップに口をつけた。
フローリスの足取りに、もう迷いはない。彼が愛しい妻の心を取り戻すのは、きっとそう遠くないはずだった。
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