第31話:淑女の仮面
数日後。ヴェイン公爵邸の一角にある、怪我人用の療養室。
フローリスの規格外の治癒魔法のおかげで、致命傷を負っていた新米庭師・アニスは無事に意識を取り戻していた。
失った血を補うためにもうしばらくの安静は必要だったが、傷口自体は跡形もなく塞がっており、ベッドの上で上体を起こせるまでには回復している。
「……うん、魔力回路の異常もないし、傷も完全に塞がってるね。よかった。まだ貧血気味だろうから、無理はしないでね」
ベッドの脇でアニスの脈を診ていたフローリスは、淡々とそう告げた。
その黄金色の瞳には、いつものような余裕も、ヘラヘラとした明るさもない。目の下には酷い隈が刻まれ、その表情はどこか幽鬼のように沈み込んでいた。
「ありがとうございます、旦那様。……あの、奥様は……?」
アニスが恐る恐る尋ねる。
自分が凶刃に倒れた後、キアラがどうなったのか。それが気がかりだったのだろう。
フローリスがその問いに答えようと重い口を開きかけた、まさにその時だった。
「——失礼いたしますわ」
コンコン、と控えめなノックの後、療養室の扉が静かに開いた。
入ってきた人物の姿を見て、ベッドの上のアニスは、一瞬自分の目を疑った。
幾重にも重なる重厚なフリル。首元をきっちりと覆う息苦しそうなレース。動きやすさなど微塵も存在しない、完璧で豪奢な『公爵夫人』のドレス。
そんな、普段の彼女なら「肩が凝る」「足が開かない」と絶対に拒絶するはずの重装備を身に纏い、一歩の乱れもなく淑やかに歩み寄ってきたのは——他でもない、キアラだった。
「……お、奥様?」
アニスの赤い瞳が、限界まで見開かれる。
「あら、アニス。お加減はいかがかしら? ずっと心配しておりましたのよ」
キアラはベッドの傍に立ち、両手を胸の前で上品に組み合わせて、鈴を転がすような声で微笑んだ。
「……えっ?」
アニスの顔から、サーッと血の気が引いた。
彼が知っている『キアラ』は、庭で木刀を豪快に振り回し、「おいアニス!」「助かるぞ!」と男勝りな口調で笑う、飾らない武人のような女性であるはずだ。
それが今、目の前にいるこの女性はなんだ。声のトーンも、姿勢も、言葉遣いも、何から何までが『完璧な貴族の令嬢』そのものだった。
「本当に、私の不注意であなたに怪我をさせてしまって……申し訳ありませんでしたわ。でも、フローリス様のお力で無事に目を覚まされて、安心いたしましたわ」
キアラは感情の読めない完璧な微笑みを浮かべたまま、優しくアニスに労いの言葉をかける。
「あ……えっと……そ、それは……」
アニスは完全に混乱していた。
(なんだこの態度は!? 私の知っている奥様じゃない! あの夜、私を傷つけた賊を相手に、鬼神の如き怒り狂って暴れ回っていたあの姿はどこにいった!? 何かの呪いか!? それとも、あの狂信者たちの禁術が、奥様の精神を破壊してしまったのか!?)
パニックに陥ったアニスは、すがるような目で、ベッドの反対側に立つフローリスを勢いよく振り返った。
『……ッ!?(旦那様! これはいったいどういう状況ですか!? 奥様の頭が、あの夜のショックでおかしくなってしまったのでは!?)』
アニスのその大きく見開かれた目は、声に出さずとも雄弁にそうフローリスに問い詰めていた。
そんなアニスの痛いほどの目配せを受け……フローリスは、気まずそうにスッと視線を逸らした。
『……(ごめん。俺が怒りすぎたせいなんだ……)』
フローリスは無言のまま、死んだ魚のような目で、ひたすら己の無力さと後悔に打ちひしがれたオーラを放ち返した。
アニスは絶句した。
どうやら呪いでも洗脳でもなく、目の前のこの最強の魔法使いが、何らかの理由で妻の地雷を全力で踏み抜いた結果らしい、ということは辛うじて理解できた。
「アニス? どうかされましたか? お顔の色が優れませんわよ。やはり、まだ傷が痛むのかしら?」
キアラが『お嬢様口調』のまま、首を傾げて心配そうに覗き込んでくる。
そのあまりにも似合わない完璧な淑女の振る舞いに、アニスは背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
「い、いえ……! 私は大丈夫です、奥様。ご心配をおかけして、申し訳ありません……」
「ふふ、無事ならよろしいのですわ。あなたはヴェイン家の大切な使用人ですもの。これからは危険なことには決して首を突っ込まず、安全なお庭のお手入れだけをお願いしますわね」
キアラはそう言って、非の打ち所のない完璧なカーテシー(淑女の礼)をして見せた。
「長居してはあなたの療養の邪魔になりますわね。私はこれから、サンルームで刺繍の続きがございますので、これで失礼いたしますわ。……フローリス様も、あまり使用人の手を煩わせないように」
「う、うん……。わかったよ、キアラちゃん……」
フローリスの消え入りそうな返事を聞くと、キアラは再び静かで優雅な足取りで、療養室から出て行った。
パタン、と扉が閉まる。
部屋に残されたのは、困惑で完全にフリーズしているアニスと、絶望のあまり今にも消滅しそうなフローリスだけだった。
「……だ、旦那様」
重苦しい沈黙の後、アニスが引き攣った声で口を開いた。
「奥様、いったいどうされたのですか……? あの話し方、あのドレス……まるで、別人のようですが……」
「……俺の、せいなんだ」
フローリスはフラフラと壁に寄りかかり、両手で顔を覆った。
「俺が、キアラちゃんが一人で危険な連中のところに乗り込んだからって……頭ごなしに怒鳴りつけちゃったから。キアラちゃん、ショック受けて、あんな風に『完璧で大人しいお人形』みたいになっちゃったんだよぉぉ……」
「……」
「俺、キアラちゃんに笑っててほしかっただけなのに。危ないことしてほしくなくて、守りたかっただけなのに……俺のバカアホ! 俺がキアラちゃんの一番好きなところを、全部奪っちゃったんだ……ッ!」
フローリスはついにその場にしゃがみ込み、ポロポロと本気で泣き始めてしまった。
アニスは、ベッドの上でどう反応していいか分からず、ただただ戸惑うしかなかった。
(……何を見せられているんだ、私は)
北方カルト教団の『贄』として狙われていることも知らず、夫婦のすれ違いの果てに完全な淑女と化してしまった武闘派の妻。
そして、その妻の変貌に耐えきれず、王国一の魔法使いとしての威厳をかなぐり捨てて、使用人の前で泣き崩れる公爵閣下。
血生臭い陰謀の渦中にいるはずのヴェイン公爵邸は今、別の意味で、崩壊の危機に直面していた。
明日も20時に投稿予定です!よろしくお願いいたします!




