第30話:まるで昔の仮初みたいで
翌朝。ヴェイン公爵邸の主寝室に、白々とした朝日が差し込んでいた。
フローリスは重い瞼をゆっくりと開け、無意識のうちに腕を隣へと伸ばした。
だが、そこにあるはずの温もりはない。シーツはひんやりと冷たく、人が寝ていた形跡すら綺麗に消え去っていた。
「……キアラ、ちゃん?」
寝ぼけた頭が、徐々に昨夜の記憶を呼び覚ましていく。
血を流して倒れる使用人。顔面蒼白で震えていたキアラ。そして——愛する妻を失うかもしれないという恐怖からパニックに陥り、夜の庭で彼女を激しく怒鳴りつけてしまった自分自身の姿。
(……やっちゃった。俺、あんなにひどい顔で、キアラちゃんを怒鳴って……)
キアラは昨夜、フローリスに叱責された後、一言も言い返すことなく深く俯き、そのままフラフラとした足取りで屋敷へと戻っていった。そして、フローリスが待つ主寝室には戻らず、一人で客室のベッドを使ったのだ。
フローリスは頭を抱え、ベッドの上で小さく丸まった。
彼女が護衛もつけずに命の危険に晒されたことは、夫として絶対に看過できなかった。怒ったこと自体は間違っていないはずだ。だが、それでも——。
(いくらなんでも、言い過ぎたかも……。キアラちゃん、俺が怒ったからショック受けて、一緒に寝てくれなかったんだ。どうしよう、嫌われちゃったかな……)
ズキズキと痛む頭と心を引きずりながら、フローリスはベッドを抜け出した。
早く顔を見て、謝らなければ。危ないことをしたことには釘を刺しつつも、怒鳴ってしまったことは素直に謝ろう。そして、今度こそキアラをきつく抱きしめて、彼女がどれほど自分にとって大切な存在かを伝えよう。
そう決意して、フローリスはキアラが泊まっているはずの客室へと急ぎ足で向かった。
「キアラちゃん、起きてる? あのさ、昨日の夜のことは……」
ノックもそこそこに、フローリスは少し気まずそうに客室の扉を開けた。
だが、部屋の中の光景を見て、フローリスの言葉はピタリと止まった。
「あ……」
部屋の中央では、数人のメイドたちに囲まれ、キアラが朝の身支度をしている最中だった。
しかし、フローリスの目を釘付けにしたのは、彼女が身に纏おうとしている衣服だった。
窮屈そうにウエストを締め付ける分厚いコルセット。動きやすさなど微塵も考慮されていない、幾重にも重なる重厚なフリルのスカート。そして、首元までびっしりとレースがあしらわれた、息苦しいほどに『完璧な淑女』のドレス。
それは、キアラが普段絶対に好んで着ないものだった。公爵邸に嫁いできたばかりの頃、彼女がまだ「完璧な公爵夫人」という猫を被っていた時期にだけ、無理をして着ていたような代物だ。
「……キアラちゃん。おはよう」
フローリスは戸惑いながら、部屋の中に足を踏み入れた。
「そのドレス……珍しいね。今日はお茶会か何かあったっけ……?」
気まずさを隠すように、なるべく普段通りのヘラヘラとした口調を作って尋ねるフローリス。
すると、鏡の前に立っていたキアラがゆっくりと振り返った。
「——あら。おはようございます、フローリス様」
透き通るような赤い瞳が、静かにフローリスを見据える。
彼女の口元には、まるで絵画に描かれたような、一ミリの狂いもない完璧で優雅な微笑みが浮かんでいた。
「お見苦しいところをお見せして、申し訳ありませんわ。もう少しで身支度が整いますから、朝食は先に食堂で召し上がっていてくださいませ」
鈴を転がすような、淑やかな声。
それは、フローリスが愛してやまない「おいフローリス!」と豪快に笑う妻の声ではなく、どこぞの冷たい令嬢が発するような、感情の抜け落ちた『令嬢口調』だった。
(フローリス……様? なに、それ……)
フローリスの心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
足元がガラガラと崩れ落ちていくような衝撃だった。
「キ、キアラちゃん? なんで急にそんな……」
「フローリス様。使用人の前で『ちゃん』付けははしたないですわよ。私はヴェイン公爵夫人なのですから、それに相応しい振る舞いをしなければなりませんもの」
キアラは一切の隙を見せない完璧な笑みを浮かべたまま、メイドに髪を結い上げさせている。
その瞳の奥には、いつもフローリスに向けてくれていた温かい親愛の情も、武人としての真っ直ぐな光もなかった。ただ、硬く閉ざされた冷たい壁だけがある。
「……わかった。食堂で、待ってるね」
フローリスはそれ以上何も言えず、逃げるように客室の扉を閉めた。
扉の外の廊下に立ち尽くし、フローリスはギリッと唇を噛み締めた。胸の奥が、ギリギリと締め付けられるように痛い。
(俺が、俺が昨日『関係ない使用人を巻き込んだ』って正論で殴ったから……キアラちゃん、公爵夫人としての『正解』の枠に、自分から閉じ込もっちゃったんだ……ッ)
* * *
朝の食堂。
いつもなら、「今日の肉料理も美味いな!」と頬を膨らませて食べるキアラの姿があるはずの場所。
しかし今日の朝食は、まるで葬式のように静かだった。
フローリスの向かいの席に座るキアラは、背筋をピンと伸ばし、カトラリーの音一つ立てずに、前菜のサラダを優雅に口に運んでいる。
一口食べるごとにナプキンで口元を拭い、音もなくスープを飲む。その動きは、王宮のどの貴族令嬢よりも洗練されていて、完璧だった。
「……キアラちゃん、お肉、食べないの? いつも朝からモリモリ食べるのに」
「朝から重いものは、胃に負担がかかりますから。それに、公爵夫人たるもの、少食である方が美徳とされておりますわ」
キアラはフローリスと目を合わせることもなく、淡々と答えた。
フローリスは出された大好物のオムレツの味すら全く分からず、ただフォークで卵をぐちゃぐちゃに崩すことしかできなかった。
(違う。キアラちゃんは、もっと美味しそうに、口の周りにソースをつけて笑うのに。こんなの、俺の好きなキアラちゃんじゃない……)
フローリスは、自分がキアラから「自由」を奪ってしまったのだと痛感していた。
危険なことをしてほしくて怒っただけなのに。結果として、彼女を息苦しい『令嬢』の檻に押し込め、心を遠ざけてしまった。
そして、フローリスの絶望は午後になっても続いた。
昼下がり。フローリスが王宮への報告書を書き終え、ふと窓の外を見た時のことだ。
いつもなら、この時間はキアラが動きやすい修練着に着替え、庭で気持ちよさそうに木刀を振るっている時間だ。
だが、庭のどこを見渡しても、彼女の姿はない。
胸騒ぎを覚えたフローリスが屋敷の中を探し回ると、彼女は陽の当たるサンルームにいた。
朝と同じ、窮屈で重たいフリルのドレスを着たまま、椅子に腰掛けている。
そして、その膝の上にあったのは、使い込まれた木刀でも、手入れ用の布でもなく——可愛らしい花柄の刺繍枠だった。
「キアラ、ちゃん……」
フローリスがサンルームの入り口で立ち尽くしていると、キアラは静かに針を動かしながら、ふと顔を上げた。
「あら、フローリス様。お仕事は一段落つきましたの?」
「うん……。キアラちゃん、今日は、庭で素振りしないの?」
フローリスの震える声に、キアラは不思議そうに小首を傾げた。
「素振り? まあ、フローリス様ったらご冗談を。私のようなか弱い女が、野蛮な真似などするはずがありませんわ。こうして、お家の中で静かに針仕事をして、旦那様のお帰りを待つのが、妻の務めですもの」
キアラは完璧な笑みを浮かべ、再び刺繍枠へと視線を落とした。
その手つきはひどく不器用で、何度も針で指を突きそうになっているのに、彼女は表情一つ変えずに黙々と「令嬢らしいこと」を続けている。
その姿を見た瞬間、フローリスの胸が、音を立てて張り裂けた。
(やめてよ……。そんな顔、しないでよ)
キアラは怒っているわけではない。反抗しているわけでもない。
ただ、フローリスの言葉にひどく傷つき、「夫の負担にならない、完璧で大人しい妻でいなければならない」と、自分自身を殺してしまったのだ。
「……そっか。無理、しないでね。指、刺さないように」
フローリスは絞り出すようにそれだけを言うと、サンルームから逃げるように立ち去った。
扉の陰に隠れ、壁に背中を預けてズルズルと座り込む。
いつもなら彼女のどんな行動も好意的に超解釈する『愛妻フィルター』すら、今は全く機能しなかった。キアラの痛々しいほどの変化が、ただの現実としてフローリスを刃のように抉ってくる。
「……ごめん、ごめんね、キアラちゃん。俺がバカだった……」
誰もいない廊下で、フローリスは金髪を掻き毟り、膝に顔を埋めた。
愛する妻を守るために放ったはずの正論が、彼女から一番大切な「彼女らしさ」を奪ってしまった。
完璧な淑女の仮面を被り、別人のようになってしまった妻を前に、フローリスはどうやってこの距離を埋めればいいのか分からず、ただ声もなく打ちひしがれることしかできなかった。
重い話になってすみません^^;
続きは明日20時更新予定です!




