第29話:初めての怒り
スゥ……と、静寂に包まれた寝室の広く柔らかいベッドの上で、フローリスはふと目を覚ました。
無意識に隣へ手を伸ばすが、いつもならそこにあるはずの、愛しい妻の温もりがない。代わりに、ひんやりと冷えたシーツの感触だけがフローリスの掌に触れた。
「ん……キアラちゃぁん……?」
寝ぼけ眼をこすりながら、寝室の暗闇に目を凝らす。
だが、返事はない。天蓋付きのベッドにはフローリス一人しかおらず、キアラの姿はどこにもなかった。窓から差し込む青白い月明かりが、彼女が脱ぎ捨てたと思われる室内着を薄ぼんやりと照らし出している。
「あれ、キアラちゃん? 喉でも渇いてお水飲みに行ったのかな……」
フローリスは身を起こし、ベッドから降りた。
しかし、その瞬間に彼の優れた魔法使いとしての直感が、チリッとした嫌な違和感を拾い上げた。
ヴェイン公爵邸は、フローリス自身が構築した強固な結界と魔力網によって守られている。屋敷のどこに誰がいるかなど、意識を向けさえすればすぐに把握できるはずだった。
しかし、一番近くに感じられるはずの『キアラの魔力』が、屋敷の居住区画からは感じられない。
「……っ」
一気に眠気が吹き飛んだ。
フローリスの心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打ち始める。
(キアラちゃんが、いない? こんな夜更けに、どこに?)
「キアラちゃん! キアラちゃん!!」
フローリスは焦燥感に駆られ、寝室を飛び出した。
廊下を走りながら、書斎、応接室、訓練場と、彼女がいそうな場所を次々と確認するが、どこにも姿はない。
全身から嫌な冷や汗が噴き出してくる。
「くそっ、落ち着け……焦るな、俺」
フローリスは廊下の真ん中で立ち止まり、ギリッと奥歯を噛み締めて深く深呼吸をした。
パニックになりそうな思考を強靭な精神力で押さえ込み、極めて冷静な、王国一の魔法使いとしての冷徹な回路を強制的に起動させる。
目を閉じ、屋敷の敷地全体を覆う微細な魔力センサーに意識を同調させる。広域の遠距離探知魔法の展開だ。
「……見つけた」
フローリスの黄金色の瞳がカッと見開かれた。
屋敷の敷地内、西側の外壁沿い。そこに、キアラの気配があった。
だが、それだけではない。キアラの気配のすぐ傍に、微弱だが急速に弱まりつつある別の生命反応がある。さらには、敷地の外へ向かって逃げ去った複数の『嫌な魔力残滓』——つい先ほどまで彼が血眼になって追っていた、あの北方カルト教団の禁術と全く同じ波長が、壁の向こうに微かに残っていたのだ。
「嘘でしょ……ッ!!」
考えるより先に、フローリスの体は動いていた。
床を蹴り、風の魔法を身に纏うと、屋敷の廊下を文字通り飛ぶような速度で駆け抜け、窓を突き破る勢いで夜の庭へと飛び出した。
西側の外壁へと一直線に空を駆け抜ける。
(キアラちゃん、無事でいて……! お願いだから……ッ!)
* * *
「キアラちゃん!!」
西側の外壁沿い。木々が生い茂る薄暗い場所に降り立ったフローリスは、そこで信じられない光景を目の当たりにして、息を呑んだ。
「フロ、リス……っ」
月明かりの下、キアラが顔面を蒼白にさせ、地面に膝をついていた。
彼女のその腕の中には、ひとりの白髪の青年が抱きかかえられている。青年の肩口から背中にかけては酷く切り裂かれ、純白のシャツは痛ましいほどの赤に染まり、地面には生温かい血だまりが広がっていた。
「キアラちゃん!? なにこれ、どういう事……ッ!!」
フローリスは血相を変えて駆け寄った。
キアラに怪我はないか。あの教団の狂信者たちに傷つけられてはいないか。
咄嗟にキアラの体を調べようとしたが、彼女はフローリスの腕を強く掴み、震える声で叫んだ。
「私より、アニスを! 早く、フローリス……治癒魔法を! こいつは、私を庇って……っ!」
普段の冷静で凛とした姿はそこにはない。
キアラの赤い瞳は大きく見開かれ、ひどく混乱し、恐怖と自責の念に囚われているのが痛いほど伝わってきた。
キアラの腕の中で血を流しているのは、昼間に裏庭で見かけたあの新米の庭師だった。
「わかった、キアラちゃんは少し下がってて!」
フローリスはすぐさま状況を切り替え、庭師——アニスの傍に膝をついた。
傷は深く、出血量も多い。だが、フローリスの規格外の魔法力をもってすれば、まだ致命傷には至らない。
「大丈夫だから。俺がすぐに治すからね」
フローリスが両手をアニスの傷口にかざすと、淡い黄金色の光が溢れ出した。
高位の治癒魔法が発動し、裂けた肉がゆっくりと繋がり、血が止まっていく。その様子を見つめながら、キアラはガタガタと震える手で自身の膝を強く握りしめていた。
「私のもとに……私のせいだ。私が、ネズミどもを侮っていたせいで……」
「ネズミ……?」
フローリスは治癒魔法を続けながら、鋭い視線をキアラに向けた。
「ああ……。昼間、お前が疲れて眠った後、このアニスから聞いたのだ。最近、この外壁沿いを嗅ぎ回る不審な影を見た、と。お前が不眠不休で追っている『ネズミ』が、ヴェイン家を狙う政敵か何かだと思った私は、お前の負担を減らそうと……夜回りをすると、こいつに伝えた」
キアラはポツリポツリと、起きた出来事を語り始めた。
「夜更けに壁に細工をしている賊を見つけ、私が仕掛けた。数人だったから、私一人でも容易く制圧できると思ったのだ。……だが、木の上や茂みに伏兵がいた。私の死角からの、完全に退路を塞いだ不意打ちだった。……そこへ、心配してついてきていたアニスが飛び出してきて、私を……」
キアラの言葉に、フローリスの心臓がギリッと冷たく締め付けられた。
(ネズミ……。キアラちゃんは、俺が探していたあの『カルト教団のテロリスト』のことを、ただの政治的な密偵だと思って、一人で戦いを挑んだっていうの?)
もし、この庭師が庇っていなかったら。
もし、あの狂信者たちの凶刃が、キアラに届いていたら。
「……それで、奴らは?」
「アニスが切られたことに逆上した私が、何人か痛めつけたところで、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。追うこともできたが……こいつの血が、止まらなくて……っ」
キアラの瞳から、悔しさと情けなさが滲み出ている。
フローリスは無言のまま治癒魔法を終わらせた。アニスの傷は完全に塞がり、呼吸も落ち着きを取り戻している。ただ出血が多かったため、まだ意識は戻っていないようだった。
「治療、終わったよ。もう命に別状はないから。安静にしてれば、数日で目を覚ますはず」
「本当か……っ。よかった、本当によかった……!」
キアラは深く息を吐き出し、安堵のあまりへたり込んだ。
その様子を見て、フローリスはゆっくりと立ち上がった。
「フローリス、すまない。私がお前を休ませてやりたいなどと、余計なことを考えたばかりに……こんな」
キアラが申し訳なさそうに見上げた先には——
いつも彼女を「可愛い」「大好き」と褒めそやし、甘やかしてくる夫の、甘く優しい笑顔はなかった。
そこに立っていたのは、絶対零度の冷たさを宿した黄金色の瞳で彼女を見下ろす、一人の男の姿だった。
「……ねえ、キアラちゃん」
低く、静かな、それでいて痛々しいほどの重圧と焦燥感を孕んだ声。
キアラは思わず息を呑んだ。
「自分がどれだけ危ないことしたか、本当にわかってるの?」
「え……」
「キアラちゃんが一人で立ち向かった相手、ただのコソ泥じゃないんだよ? 人を狂わせる禁術を使って、キアラちゃんの命を明確に『贄』として狙ってた、頭のおかしい狂信者の集団なんだからね。……そんな連中の前に、たった一人で、護衛もつけずにノコノコ出て行くなんて、ほんとありえないんだけど」
「な……『贄』? 私の命を……狙って?」
キアラは目を見開いた。
「そうだよ。俺がこの数日、血眼になって探してたのは、キアラちゃんを傷つけようとしてる連中だったの。……キアラちゃんには危ないことさせたくないから、俺が一人で、裏で全部片付けようと思ってたのに。なんで……なんでキアラちゃんから、そんな危険なところに飛び込んでいくわけ!?」
フローリスの声が、夜の闇に悲痛な怒号となって響いた。
普段の飄々とした軽薄さは微塵もない。これほどまでに激しい怒りと怯えを向けられたのは、キアラにとって初めてのことだった。
「……っ」
「キアラちゃんが強いのは知ってるよ。剣も体術も、そこらの騎士なんかよりずっとすごいし。でもね、裏社会の連中が使う呪いや毒とか、そういう汚い手口の前じゃ、キアラちゃんのその真っ直ぐな強さなんて、簡単に足元すくわれちゃうんだよ!?」
フローリスはキアラの肩を強く掴み、ギリッと奥歯を噛み締めた。その手は、かすかに震えていた。
「俺が、どれだけキアラちゃんのこと……ッ。もし……もしキアラちゃんに万が一のことがあったら、俺、どうやって生きていけばいいのさ。……そのせいで、関係ない使用人まで巻き込んで、こんな大怪我させちゃったんだよ!?」
それはただの非難ではなく、愛する者を失いかけた男の、悲鳴のような怒りだった。
ぐうの音も出ないほどの正論と、痛いほど伝わってくるフローリスの恐怖。
キアラは、自分の軽率な判断が招いた結果の重さに、完全に打ちのめされていた。
夫の負担を減らしたいという思い上がり。自分の腕に対する過信。それが、結果としてアニスという罪のない青年を血の海に沈め、フローリスをこれほどまでに絶望させ、本気で怒らせてしまったのだ。
「すま、ない……」
キアラの口から、掠れた声が漏れた。
いつもなら「お前が過保護すぎるからだ!」と言い返すこともできただろう。だが、今のキアラには、反論する言葉など何一つ見つからなかった。
ただただ、自分が愚かだった。
自分の浅はかな行動が、全てを台無しにしてしまった。
「……すまない、フローリス」
初めてフローリスに本気で怒られたキアラは、それ以上何も言えず、血に汚れた手を見つめたまま、無言で深く俯くことしかできなかった。
フローリスは、肩を震わせて俯く妻を見つめたまま、それ以上言葉を続けることができなかった。
怒り、安堵、そして自分自身の不甲斐なさ。様々な感情が入り混じり、フローリスはただ、冷たい夜風の中、静かに拳を握りしめていた。
(ごめんね、キアラちゃん。こんな風に怒りたかったわけじゃないのに……。俺がもっと早く、あいつらを見つけ出していれば……ッ)
夫婦の間に、かつてないほど重く、痛々しい沈黙が降りていた。
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