第28話:優しさと代償
深夜のヴェイン公爵邸。
静まり返った寝室で、過労で泥のように眠るフローリスの寝息を確認すると、キアラは音もなくベッドを抜け出した。
(すまない、フローリス。お前がヴェイン家のために戦っている間、私だけが温かいベッドで寝ているわけにはいかないからな)
手早く動きやすい黒の修練着に着替え、愛用の短剣を腰に帯びる。
向かう先は、今日の昼間にアニスが教えてくれた「不審な影を見た」という敷地の外壁沿いだ。
月が雲に隠れ、王都の夜闇が一段と濃くなる頃。
キアラが音もなく庭の木立を抜け、敷地の境界である高いレンガ壁の近くに身を潜めると——果たして、そこに『ネズミ』はいた。
数人の黒い外套をすっぽりと被った男たちが、壁のレンガに何やら気味の悪い塗料で紋様を描き込んでいる。屋敷を覆う結界の綻びを意図的に作り出そうとしているのだろう。
(やはり出たな。フローリスの抱える厄介事の火種……私がここで未然に潰す!)
「そこまでだ、ネズミども」
キアラが木陰から姿を現し、凛とした声で告げると、黒外套の男たちは弾かれたように振り返った。
「なっ……ヴェイン公爵夫人!?」
「なぜ、護衛もつけずにこんな夜更けに……!」
男たちが狼狽する隙を、キアラが見逃すはずもなかった。
地を蹴り、一瞬で距離を詰める。抜刀と同時に放たれた短剣の一閃が、先頭にいた男の外套を切り裂き、その手に握られていた妙な呪符ごと吹き飛ばした。
「ぐあっ!」
「ひるむな! 相手は女一人だ、ここで仕留めれば『贄』の回収も済む!」
男たちが懐から凶器を取り出し、一斉に襲いかかってくる。
だが、キアラの顔に焦りはなかった。男たちの動きは素人ではないが、キアラが普段から仮想敵としている屈強な騎士たちに比べれば、明らかに太刀筋が軽く、隙だらけだったのだ。
「遅い!」
キアラは飛んでくる刃を紙一重で躱し、流れるような体術で次々と男たちの鳩尾や顎に重い一撃を叩き込んでいく。
あっという間に二人が地に伏し、残る者たちもキアラの圧倒的な武の前にたじろいだ。
(なんだ、ただの賊ではないか。フローリスが徹夜してまで悩むほどの相手でもないな)
余裕の笑みを浮かべ、キアラが最後の一人に踏み込もうとした、その時だった。
——ヒュッ!
風を切る不気味な音に、キアラの全身の産毛が逆立った。
「しまっ……!?」
正面の敵は囮だった。
いつの間にか、キアラの死角である頭上の木の枝と、背後の茂みから、気配を完全に殺していた別の黒外套たちが音もなく飛び出してきたのだ。
彼らの手には、異様な魔力を帯びた歪な刃が握られている。完全に退路を塞がれた、完璧な挟み撃ち。
(躱しきれない——!)
咄嗟に急所を庇うように腕を交差させたキアラの耳に、聞き慣れた声が響いた。
「危ない、奥様!!」
茂みの奥から飛び出してきた白い影が、キアラを背中から突き飛ばすようにして庇った。
「えっ——」
ザシュッ!!
鈍い肉を裂く音と共に、生温かい血飛沫がキアラの頬に飛び散った。
「ぐっ……あ……っ」
「アニス……ッ!?」
キアラの目の前で、白髪の青年が苦悶の声を漏らし、そのまま崩れ落ちた。
彼の肩口から背中にかけて、黒外套の刃が深く切り裂き、純白のシャツが痛ましいほどの赤に染まっていく。
「な、なぜお前がここにいる!?」
「奥様が……心配で、夜回りについてきて、しまいました……。ご無事で、よかった……」
アニスは青ざめた顔で力なく微笑み、そのまま意識を手放した。
キアラの頭の中で、何かがブツン、と切れる音がした。
自分を心配して、ただの庭師であるはずの彼が、こんな危険な場所にまでついてきてくれた。
あまつさえ、自分のような武闘派の女を庇って、その身を呈して凶刃を受けたのだ。
「……よくも」
キアラはゆっくりと立ち上がった。
その手には短剣が強く握り込まれ、美しい真紅の瞳には、かつてないほどのドス黒い怒りと殺気が渦巻いていた。
「よくも、私の大切な庭師(身内)を……貴様らのような薄汚いネズミどもが、傷つけてくれたな!!」
「ひっ……!?」
キアラから放たれる、本物の『戦士』の凄まじい威圧感に、黒外套の男たちが思わず一歩後ずさる。
「万死に値する!!」
怒りに任せたキアラの猛攻は、もはや武術というよりは暴風だった。
先ほどまでの手加減など一切ない。急所を的確に狙う最短距離の刺突、骨を砕くほどの重い蹴り。
アニスを傷つけた男の腕を容赦なくへし折り、背後から迫る敵を振り返りざまに蹴り飛ばす。
「ぐああぁっ!」
「ば、化け物め! 話が違うぞ、ただの貴族の小娘じゃなかったのか!?」
「退け! 一旦退け!!」
恐怖に駆られた黒外套たちは、仲間を見捨てて蜘蛛の子を散らすように夜の闇へと逃げ出していった。
「待て! 逃がすか……っ!」
血に濡れた短剣を握り直し、キアラが後を追おうと一歩踏み出した時。
「う……ぁ……」
背後で、倒れ伏したアニスが苦しげな呻き声を上げた。
キアラはハッと我に返り、逃げる敵への追撃を諦めてアニスの元へと駆け寄った。
「アニス! しっかりしろ、アニス!! 傷口を抑えろ、今すぐ屋敷の治療師を呼んでくる!」
自分の身代わりとなって血を流す美しい白髪の庭師を抱きかかえ、キアラは必死に声をかける。
暗闇の中へと消えていった敵を取り逃がした悔しさと、罪のない使用人を巻き込んでしまったという強烈な自責の念が、キアラの胸を激しく締め付けていた。
シリアス少し続きます……
続きは明日の20時です!よろしくお願いいたします!




