第27話:ネズミ狩り
スゥ、スゥ、と。
静かな裏庭の木陰に、フローリスの規則正しい寝息が響き始めた。
「……本当に、限界だったのだな」
自身の膝の上に頭を乗せ、丸くなるようにして眠りに落ちた夫を見下ろし、キアラは小さくため息をついた。
いつもはうるさいくらいに「キアラちゃん、可愛い! 大好き!」とまとわりついてくる男が、今はまるで糸が切れた操り人形のように脱力している。その目の下に刻まれた濃い隈と、わずかにこけた頬を見れば、彼がここ数日、どれほど過酷な状況に身を置いていたかは一目瞭然だった。
(フローリスは、王宮で一体何と戦っているのだ……?)
キアラは、フローリスのサラサラとした金髪を不器用な手つきで梳きながら、思考を巡らせた。
先ほどの彼の言葉が脳裏に蘇る。
『どんなに深い穴に隠れてるネズミだって、絶対に引きずり出してみせる』
キアラの明晰な(しかし根本的に方向性がズレている)脳内で、その言葉は極めて「政治的かつ現実的な意味」に変換されていた。
(ネズミ……。つまり、ヴェイン公爵家の富や権力を狙う政敵か、領地の税収を誤魔化している悪徳官僚。あるいは、ヴェイン家とモーランド家の同盟を快く思わない王太子殿下が放った、密偵といったところか)
若くして公爵家の当主となり、おまけに王国一の魔法使いとして畏怖されるフローリス。彼の立場が盤石であればあるほど、水面下で足を引っ張ろうとする輩は後を絶たないだろう。
フローリスはきっと、自分の妻であるキアラにそんなドロドロとした権力闘争の裏側を見せまいと、一人で全てを抱え込み、不眠不休で「ネズミ狩り」の執務に当たっていたに違いない。
(——『私がお前の剣となり盾となって、必ず支えてみせる』。そう誓ったのは、私の方ではないか)
キアラは、ギュッと唇を噛み締めた。
夫が公爵家のために、そして自分たち夫婦の平穏な生活のために身を粉にして戦っているというのに、自分はのんきに庭で木刀を振り回し、汗を流して満足していただけだ。
フローリスは「キアラちゃんが傍にいてくれるだけでいい」と言ってくれたが、有能なビジネスパートナーであり、武を重んじる公爵夫人として、ただ守られ、癒しを与えるだけの存在でいることなど、キアラの矜持が許さなかった。
「フローリスの助けになりたい。……私にできることは、なんだ?」
キアラは、膝の上で眠るフローリスの寝顔を見つめながら、自問自答した。
書類仕事や複雑な政治の駆け引きは、フローリスの足元にも及ばない。王宮のドロドロとした腹の探り合いに参加しても、生来の真っ直ぐすぎる性格が災いして、逆に彼の足を引っ張るだけだろう。
(だが、もしその『ネズミ』とやらが、物理的にこの屋敷やフローリスの周囲を嗅ぎ回っているのだとしたら?)
キアラの赤い瞳に、武人としての鋭い光が宿った。
政治的な駆け引きはできなくとも、物理的な警護や、不審者の排除であれば、キアラの右に出る者はいない。フローリスは魔法の天才だが、近接戦闘や不意打ちへの対応といった「物理的な実戦」においては、鍛え抜かれたキアラの武術の方が勝る場面もあるはずだ。
「……奥様。旦那様は、お休みになられましたか」
ふと、穏やかな声がかけられ、キアラはハッと顔を上げた。
いつの間にか広場の入り口に、先ほど下がらせたはずの新米庭師・アニスが戻ってきていた。その手には、肌寒い風を避けるための上質なブランケットが抱えられている。
「アニス……。すまない、気を遣わせたな」
「いえ。旦那様、ひどくお疲れのご様子でしたので。お庭の風で冷えてしまわれてはいけませんから」
アニスは足音も立てずに近づくと、キアラの膝で眠るフローリスの背中に、ふわりと優しくブランケットをかけた。
その無駄のない、あまりにも自然な動きに、キアラは感心したように目を細めた。
「アニスは本当に気が利くし、足運びが静かだな。まるで熟練の斥候のようだ」
「せっこう……? ふふっ、買い被りすぎですよ、奥様。私はただの、花と木の手入れが好きな庭師に過ぎません。土や芝生を傷めないよう、そっと歩く癖がついているだけです」
アニスは不思議そうに目を丸くした後、照れたように微笑んで小首を傾げた。その真っ白な髪が風に揺れ、透き通るような赤い瞳が優しくキアラを見つめ返す。
キアラは、少しだけ躊躇った後、意を決したように口を開けた。
「なぁ、アニス。お前は、この屋敷の庭の隅々まで手入れをしてくれているだろう?」
「はい。奥様が修練なさるこの広場から、敷地の外壁沿いの植え込みまで、全て私の担当です。……庭に何か、不都合でもございましたか?」
「いや、そうではない。ただ……少し、気になってな」
キアラは、眠るフローリスの頭をポンと軽く撫でながら、声を潜めて尋ねた。
「最近、この屋敷の周囲で……『ネズミ』を見かけたことはないか?」
「ネズミ、ですか?」
「ああ。物理的なネズミではない。……屋敷の様子を外から窺うような不審者や、見慣れない怪しい影だ」
キアラの真剣な問いかけに、アニスは「うーん……」と顎に手を当てて、真面目な顔で考え込んだ。
「そう言えば、数日前の夕暮れ時……外壁沿いの蔦を剪定していた時に、敷地の外をうろつく黒い外套の方々を見かけました。初めは夜警の騎士様かと思ったのですが、どうも道に迷っているような、壁のレンガを一枚一枚確かめるような不思議な動きをしていて……」
「なんだと!?」
キアラは思わず声を上げそうになり、フローリスを起こさないよう慌てて口を噤んだ。
(やはり! フローリスの言っていた『ネズミ』は、王宮だけでなく、この屋敷の周辺まで物理的に嗅ぎ回っていたのか!)
「なぜそれをすぐに報告しなかったのだ!」
「申し訳ありません。ただの酔っ払いか、私の思い過ごしかもしれないと思いまして……。それに、旦那様は王宮の御公務でお忙しく、これ以上ご心労をおかけするのもどうかと」
「……いや、責めて悪かった。お前の言う通りだ。これ以上、フローリスに負担をかけるわけにはいかない」
アニスの純粋な気遣いに、キアラの胸の中で使命感がメラメラと燃え上がった。
フローリスは今、王宮に潜む巨大な「敵」と戦っている。ならば、せめてこのヴェイン公爵邸の足元をうろつく小賢しいネズミどもは、妻である自分が人知れず狩り尽くし、彼の背中を守らなければならない。
「アニス。その不審者が出たという外壁の場所を、後で正確に教えてくれ。……今夜から、私がこっそり見回りをしよう」
「奥様ご自身が、ですか? それは危険です。万が一のことがあれば、旦那様が悲しまれますよ。どうしてもというのなら、せめて私がお供を……」
「お前のような細腕の庭師を危険な目に遭わせられるか。案ずるな、私はこれでも、そこらの騎士よりは腕が立つ。フローリスには内緒にしておけよ。あいつは過保護だから、知られれば絶対に私を部屋に軟禁するだろうからな」
キアラがニヤリと好戦的な笑みを浮かべて見せると、アニスはひどく心配そうな顔で眉を下げながらも、「奥様がそうおっしゃるなら……」と静かに頷いた。
「くれぐれも、ご無理だけはなさらないでくださいね。旦那様がお目覚めになるまで、私はあちらで庭掃除の続きをしておりますので」
「ああ、助かるぞ、アニス」
まさか王都の地下で暗躍する集団が自分を『贄』として狙っていることなど露知らず、キアラはあろうことか、過保護な夫の目を盗んで「夜のネズミ狩り(=自ら罠に飛び込む行為)」を決意してしまったのである。
キアラの膝の上で、心地よさそうに眠り続けるフローリス。
彼が目を覚まし、愛する妻が自分の全く知らないところで勝手に『物理的な暗殺者狩り』を始めようとしている事実に気づくのは……もう少しだけ、先の話である。
明日も20時に続きを投稿予定です!




