第26話:成果はゼロ、そして違和感
王都のヴェイン公爵邸、当主の執務室。
分厚い遮光カーテンが引かれた薄暗い部屋の中で、フローリスは机の上に山のように積まれた調査資料を前に、ひどく重いため息をついた。
「……信じられない。完全に手詰まりだ」
数日間にわたる徹夜のせいか、その黄金色の瞳には明らかな疲労の色と、微かな血走りが滲んでいた。
狩猟祭での魔獣テロ事件から数日。フローリスは王太子エーリヒから借り受けた暗部の報告書や、宮廷魔法局から提供されたあらゆるデータを総動員し、不眠不休で『王宮内の内通者』を探し続けていた。
王室直属の結界を無傷で解除できるほどの高度な魔法技術を持ち、かつ北方カルト教団と裏で繋がっている人物。条件からして、かなり対象は絞られるはずだった。
フローリスは自身の規格外の魔力と頭脳をフル稼働させ、王宮に出入りする数千人の魔力波長を片っ端からスキャンし、過去数年分の怪しい金の流れや、トウジョウ伯爵家の残党と接触した可能性のある貴族の行動記録まで、徹底的に洗い出した。
だが、結果は「ゼロ」だった。
「結界を解除した魔力の残滓と一致する人間が、王宮内のどこにもいない。まるで、事件の直後にその存在ごと、煙のように消え失せてしまったみたいだ……」
フローリスは苛立たしげに金髪を掻き毟った。
狂信者たちのアジトは、エーリヒの暗部が王都の地下水路の奥深くでいくつか発見したものの、どれもすでにもぬけの殻だった。魔術的な儀式の痕跡と、気味の悪い教典の燃えカスだけが残されており、彼らはフローリスたちが本格的に動くよりも早く、王宮内の内通者の手引きによって完全に姿を眩ませてしまったのだ。
(キアラちゃんを『贄』にしようとしたクズどもが、今も王都のどこかに潜んでいるかもしれないのに……! 俺の力で、まだそいつらを見つけ出せないなんて……!)
天才魔法使いとしてのプライドなどどうでもよかった。
何よりも、愛する妻の絶対的な安全を確保できないという事実が、フローリスの心を黒くドロドロとした焦燥感で塗り潰していく。
これでは、いつまたキアラが危険に晒されるか分からない。彼女のあの美しく気高い真紅の瞳を、得体の知れない狂人どもが狙っていると思うだけで、胃の腑が煮えくり返りそうだった。
「あーもうっ! どこに隠れてるんだよ、クソネズミども! 俺とキアラちゃんの甘い新婚生活をこれ以上邪魔するな!」
バンッ! と机を叩き、フローリスは項垂れた。
疲労と焦燥感で、頭がガンガンと痛む。枯渇しかけた魔力回路が悲鳴を上げているのがわかった。
(ダメだ……全然頭が回らない。キアラちゃん成分が完全に不足してる……。ひと目だけでもいいから、キアラちゃんの顔が見たい)
フローリスはふらふらと立ち上がり、執務室の重い扉を開けた。
今はとにかく、愛しい妻の顔を見て、その声を聞いて、すり減った心を回復させたかった。
* * *
屋敷の中を探し回り、裏庭へと続くテラスに出たところで、フローリスはようやく探し人の姿を見つけた。
木立に囲まれた広場で、キアラは木陰のベンチに座り、タオルで汗を拭っているところだった。どうやら、フローリスの目を盗んでこっそりと木刀の素振りをしていたらしい。
(ああっ、汗をかいてるキアラちゃんも最高に可愛い……っ。でも、一人じゃない?)
フローリスの足がピタリと止まり、黄金色の瞳がスゥッと細められた。
キアラの隣には、見慣れない白髪の青年が立っていた。青年はキアラに冷たい水の入ったグラスを差し出し、何事か穏やかな笑みを浮かべて言葉を交わしている。
キアラもまた、彼に対して警戒する様子もなく、むしろ気を許したような親しげな態度で頷いていた。
(誰だ、あいつ。俺のキアラちゃんに気安く近づいて……!)
疲労でストッパーが外れかけているフローリスの心に、ドス黒い嫉妬がチリッと燃え上がった。
フローリスは足音を立てずに広場へと足を踏み入れ、背後からキアラの細い肩にガバッと覆い被さるように抱きついた。
「キアラちゃあああん!!」
「おわっ!? な、なんだフローリスか! びっくりするだろうが!」
突然の夫の強襲に、キアラはグラスの水をこぼしそうになりながら抗議の声を上げた。フローリスは妻の首筋に顔を埋め、すーはーと深くその匂いを吸い込みながら、チラリと白髪の青年を睨みつけた。
「……君、見ない顔だね。誰?」
フローリスの声は、キアラに甘えるようなトーンを装いながらも、絶対零度の威圧感を孕んでいた。
「旦那様、初めまして。数日前からこちらの庭園の手入れを担当させていただいております、アニスと申します」
アニスと名乗った青年は、フローリスの威圧感に怯える様子も見せず、ふわりと柔らかく微笑んで深く、そして完璧に洗練された一礼をした。
「アニスだ。庭の手入れのついでに、私の修練の邪魔にならないよう気を配ってくれていてな。よく気の利く庭師だぞ」
キアラがアニスを庇うようにあっけらかんと言うと、フローリスは微かに眉をひそめた。
(ただの庭師……? 魔力は……微弱。一般人と変わらない。ただの平民か。でも、なんだこの違和感は)
フローリスは一瞬だけアニスを探るような視線を向けたが、限界まで疲弊している今の彼の頭脳では、それ以上の思考を掘り下げることはできなかった。
何より、腕の中にいるキアラの温もりと、ほんのりと香る汗と石鹸の匂いが、フローリスの警戒心を急速に溶かしていく。
「……そ。お仕事ご苦労様。俺、キアラちゃんと夫婦水入らずで話があるから、君はもう下がっていいよ」
「かしこまりました。それでは、私はこれで失礼いたします。奥様、旦那様、ごゆっくり」
アニスは嫌な顔一つせず、穏やかな微笑みを残したまま、静かな足取りで広場から立ち去っていった。
「おいフローリス、なんだお前、その顔色は。ひどく疲れているようだが」
アニスの姿が見えなくなるなり、キアラは自分に全体重を預けてくる夫の顔を覗き込み、眉を寄せた。
目の下にはくっきりと隈ができ、いつもは艶やかな金髪もパサついている。
「キアラちゃぁん……俺、もうダメかもしれない……。お仕事が全然うまくいかなくて、心も体もボロボロだよぉ……」
フローリスは情けない声を出しながら、キアラの隣に崩れ落ちるように座り込み、彼女の膝にすり寄った。
「おいおい、重いぞ。……だが、よほど難航しているのだな」
キアラは鬱陶しそうにため息をつきながらも、突き飛ばすようなことはせず、不器用な手つきでフローリスの金髪を撫で始めた。
フローリスが血眼になって探しているのが『自分を暗殺しようとしたテロリストの内通者』だとは露知らず、キアラは完全に「領地の厄介な税収問題か、あるいは王太子殿下からの政治的プレッシャーで胃を痛めている」と解釈している。
「一人で背負い込むなと、あれほど言っただろう。私で役に立つことなら、何でも言え」
「キアラちゃん……っ。優しい、キアラちゃんの手、すごく温かい……」
(キアラちゃんには、こんな物騒な裏社会の陰謀なんて、絶対に聞かせられない。俺が全部一人で解決して、この綺麗な手を血で汚させたりなんかしないんだから……)
フローリスは妻の膝に顔を埋めたまま、ぎゅっとその腰を抱きしめた。
「キアラちゃんがこうして俺の傍にいてくれるだけで、十分だよ。……でも、悔しいな。俺は天才魔法使いなのに、キアラちゃん一人を安心して暮らさせてあげるための『お掃除』すら、パパッと終わらせられないなんて」
自嘲気味に呟くフローリスに、キアラはピタリと撫でる手を止めた。
そして、フローリスの顔を両手でバシッと挟み込み、ぐいっと自分の方へ向かせた。
「バカなことを言うな。お前は十分に有能な男だ」
キアラの真っ直ぐな赤い瞳が、至近距離でフローリスを射抜く。
「お前がどれだけヴェイン家のために身を粉にして働いているか、私はちゃんと知っている。壁にぶつかることなど、誰にでもあることだ。……焦る必要はない。敵がどれほど巧妙に隠れていようと、いずれ必ず綻びは出るものだ。その時を待って、確実に仕留めればいい」
キアラの言う『敵』とは、ヴェイン家の政敵や横領をしている悪徳官僚などのことであるが、フローリスにはそれが全く別の意味に聞こえていた。
「今はただ、ゆっくりと休め。お前が倒れてしまっては、元も子もないのだからな」
「キアラちゃん……っ」
フローリスの胸の奥で、ジーンと熱いものが込み上げてきた。
(ああ……キアラちゃん、俺が『敵』を見つけられなくて焦ってるのを見抜いて、励ましてくれてるんだ! 『必ず綻びは出るから、焦らず休め』なんて、なんて器が大きくてカッコいい、最高の奥さんなんだろう……っ!)
見事にズレた会話のまま、フローリスの『超解釈・愛妻フィルター』はキアラの言葉を完璧な癒しとして吸収していく。
「うん……ありがとう、キアラちゃん。俺、もう少しだけ頑張ってみるよ。キアラちゃんのためなら、どんなに深い穴に隠れてるネズミだって、絶対に引きずり出してみせるから」
「ああ、その意気だ。だが、今日はもう無理をするな。……少し、このまま寄りかかっていてもいいぞ」
キアラが少し照れくさそうに視線を逸らしながら言うと、フローリスは嬉しさに顔を綻ばせ、「えへへ、キアラちゃんだーいすき」と再び彼女の肩にすり寄った。
途方に暮れていたフローリスの焦燥感は、愛する妻の不器用な優しさによって、ほんの少しだけ和らいだ。
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