第23話:悪意
波乱に満ちた狩猟祭の初日が明けた翌日。
二日目の狩猟祭は、騎士団による徹底した森の再調査と厳重な警備が敷かれたこともあり、何事もなく無事に幕を閉じた。
王都のヴェイン公爵邸へと帰還してから数日が経ったある日の午後。
当主の執務室のデスクに座るフローリスは、書類の束を前にして、両手で顔を覆いながら「あぁぁぁ……っ」と情けない呻き声を上げていた。
(俺のバカ! アホ! 貧弱! なんであんな一番いいところで気絶なんてしちゃったんだよぉぉぉっ!!)
彼の脳内を占めているのは、領地の税収報告でもなければ、隣国との貿易協定でもない。数日前のホテルでの、あの甘く、そして己の不甲斐なさに絶望した『夜』の事件である。
初日の夜、エーリヒ王太子からのストレスと極度の疲労により、あろうことか妻を押し倒したまま寝落ちしてしまったフローリス。
だが、その数時間後。ハッと目を覚ましたフローリスを待っていたのは、信じられない光景だった。
『目が覚めたか、フローリス。……お前にばかり重圧は背負わせない。今日は私から『義務』を果たしてやろう! さあ、脱げ!』
なんと、キアラがフローリスに馬乗りになり、まるで敵陣に斬り込む武将のような顔で、自らネグリジェの胸元をはだけさせながら迫ってきたのだ。
——キアラちゃんが、俺に馬乗りになって?
——私から義務(=愛の証明)を果たしてやろうって?
——さあ、脱げ、って……!?
(キアラちゃん、俺のことが好きすぎて、ついに理性を吹っ飛ばして襲いかかってきてくれたんだ……ッ!!)
フローリスの天才的な頭脳は、キアラの斜め上の決意(王太子からの跡継ぎのプレッシャーを感じている夫を助けようとするビジネス的配慮)を、「情熱的な逆プロポーズ」へと爆速で超解釈した。
その瞬間、フローリスの内側で、致死量を超える歓喜と愛おしさが大爆発を起こした。
『キアラちゃ……っ、あ, 愛してっ——』
あまりの嬉しさと興奮に、枯渇しかけていた魔力が暴走し、心拍数が跳ね上がり——フローリスの脳は、そのまま幸せなショートを起こして「二度目の気絶(強制シャットダウン)」へと突入してしまったのである。
そして翌朝。
小鳥のさえずりが共に目覚めたフローリスは、自分がきっちりと毛布をかけられ、純潔を守ったまま朝を迎えたことに気づき、絶望のどん底に叩き落とされた。
隣にいたキアラは、『よほど王太子殿下からの圧力が堪えていたのだな。無理をしなくていい、義務はまた今度果たそう』と、菩薩のような慈愛の顔でフローリスの頭を撫でてくれたのだが……。
(違うんだよキアラちゃん! 俺はプレッシャーなんて感じてないし、いつでも臨戦態勢だったのに、キアラちゃんの可愛さが規格外すぎてキャパオーバーしちゃっただけなんだよぉぉ!)
執務デスクに突っ伏し、じたばたと足をバタつかせる公爵閣下。
(でも、あんなに情熱的に俺を求めてくれたキアラちゃん、最高に可愛かったなぁ……。次は絶対に俺から押し倒して、朝まで離さないんだから……っ)
後悔とピンク色の妄想を行ったり来たりしているフローリス。
彼が「この書類を片付けたら、今日はキアラちゃんと庭でティータイムにして、もう一回良いムードを作ろう」と心の中で計画を立てていた、まさにその時だった。
「旦那様。王宮の『宮廷魔法局』より、至急ご登城いただきたいとの通達が参りました」
執務室に入ってきた筆頭側近の言葉に、フローリスの甘い思考がピシャリと遮断された。
「宮廷魔法局? ノアちゃんから?」
「はい。局長ご自身からの名指しでの呼び出しです。狩猟祭での魔獣の一件について、至急お耳に入れたいことがあると……」
フローリスの黄金色の瞳から、先ほどまでのヘラヘラした熱がスッと引いた。
(狩猟祭の件……。面倒くさいな。俺が消し炭にしたって報告したのに、まだ何か文句があるのか?)
フローリスは小さく舌打ちをすると、羽ペンをインク壺に放り投げた。
「わかった。すぐに行くよ」
愛しい妻とのティータイムを邪魔された恨みを胸に秘め、フローリスは王宮へと向かう馬車に乗り込んだ。
王宮の奥深く、一般の貴族は立ち入ることの許されない区画にある『宮廷魔法局』。
その最上階にある局長室の扉を、フローリスはノックもせずにガチャリと開けた。
「お待ちしておりました、フローリス様。相変わらず、ノックもなしに入っていらっしゃるのですね」
執務机の奥、山積みの書類の陰から顔を出したのは、小柄で可憐な女性だった。
輝くような金髪に、紫色の瞳。この王国の魔法行政と魔獣管理のトップに君臨する宮廷魔法局局長、ノアである。
フローリスの方が爵位のうえでは上位であり、彼女はフローリスに対して恭しく敬語を使う立場にあった。
「呼び出しご苦労様、ノアちゃん。俺、今すっごく忙しいんだけど。新婚の愛妻家にとって、妻と過ごす午後のティータイム以上の重要任務なんてこの世にないの、分かってるでしょ?」
「相変わらず脳内がお花畑ですね……。フローリス様が奥様にベタ惚れなのは王都中の噂になっておりますが、本日はその大事な奥様にも関わるお話でお呼び立てしたのです」
ノアは呆れたようにため息をつき、手元の分厚い報告書を机に置いた。
「……キアラちゃんに関わる話?」
フローリスの声の温度が、一瞬にして絶対零度まで下がった。
「お掛けください。狩猟祭の初日、西の森で出たブラックウルフの件です」
ノアは真剣な表情になり、フローリスにソファを勧めた。フローリスが黙って腰を下ろすと、ノアも向かい側に座り、口を開いた。
「フローリス様が魔獣を『完全に消し炭にした』せいで、死体からの魔力痕跡は追えませんでしたが……騎士団と当局の局員で、西の森の結界と周辺の魔力残滓を徹底的に洗わせました」
「ふうん。それで?」
「おかしいのです。西の森の安全結界は、魔獣が『内側から食い破った』わけではありませんでした」
ノアの言葉に、フローリスの黄金色の瞳が微かに細められた。
「どういうこと?」
「結界の一部が、人為的に『外側から解除』されていた痕跡があったのです。それも、王室直属の結界術式を熟知している高位の魔法使いの手で」
ノアは忌々しそうに腕を組んだ。
「つまり、あのブラックウルフは、たまたま結界のほころびから迷い込んだ野生の魔獣ではありません。誰かが意図的に結界に穴を開け、広場の方へと魔獣を誘導して放った……『人為的なテロ行為』です」
部屋の空気が、ピリッと張り詰めた。
「……なるほど。誰かが意図的に、あの森に魔獣を放ったってことか」
フローリスの低い声が、静かな局長室に響いた。
「ええ。しかも、あの日あの時間帯に西の森にいたのは、ヴェイン公爵ご夫妻だけでした。……狙いが『ご夫妻の暗殺』だったのか、それとも狩猟祭の主催である『王太子エーリヒ殿下への嫌がらせ』だったのかは、まだ定かではありませんが」
(——キアラちゃんが、狙われたかもしれない?)
その考えが脳裏をよぎった瞬間、フローリスの内側で、ドス黒い冷たい怒りが爆発した。
バリバリバリッ!!
突如として、局長室の窓ガラスに巨大なヒビが入り、部屋中の本棚や書類がカタカタと激しく震え始めた。フローリスの全身から、黄金色の莫大な魔力が殺気となって立ち昇っている。
「ちょっ、お待ちくださいフローリス様! 落ち着いて、魔力を抑えてください! 局長室を吹き飛ばすおつもりですか!?」
ノアが慌てて立ち上がり、防御魔法を展開しながら叫んだ。
「……落ち着いてなんかいられないよ。誰だか知らないけど、俺の可愛いキアラちゃんの命を脅かそうとしたヤツがいるってことだろ?」
フローリスの声は、底冷えするほど冷酷だった。
「どこのどいつ? 反王党派の残党? それとも、うちの公爵家の領地を狙ってるハイエナども? ……いいよ、どいつだろうが関係ない。俺が今すぐ王都中の貴族の邸に押し入って、記憶を探って、関わったヤツらを一族郎党、灰一つ残さず消し炭にしてやる」
「だから極端すぎるのです! 貴族への無差別攻撃など行えば、それこそヴェイン家が反逆罪で取り潰されてしまいますよ!」
丁寧な口調のまま、ノアはフローリスの頭に丸めた報告書をスパーン!と容赦なく叩きつけた。
「いっ……! なにするのさ、ノアちゃん!」
「頭を冷やしてください! フローリス様のその過保護と暴走癖はどうにかなりませんか!」
「だって、キアラちゃんが危ない目に遭うなんて、俺は絶対に耐えられない! もしあの時、俺の殲滅魔法が間に合わなくて、キアラちゃんに怪我でもしてたら……っ!」
(※実際には、キアラが自ら短剣で魔獣の脳天をかち割っているのだが、フローリスの『愛妻フィルター』によりその事実は完全に脳内から除外されている。)
フローリスが本気で青ざめた顔をして頭を抱えるのを見て、ノアは「はぁ……」と深いため息をついた。
「分かっています。フローリス様が奥様を大事になさっているのは痛いほど分かっていますから、私もこうして『公式な調査』が始まる前に極秘でお呼びしたのです。……いいですか、フローリス様。この件は、王宮内に内通者がいる可能性が高いのです」
「内通者……」
「ええ。王室直属の結界術式を解除できる人間は限られています。騎士団の上層部か、あるいは当局の局員か、あるいは高位貴族のお抱え魔法使いか。……いずれにせよ、表立って動けば、ネズミは尻尾を隠して逃げてしまうでしょう」
ノアはルビーの瞳を鋭く光らせ、真っ直ぐにフローリスを見据えた。
「だから、フローリス様にも動いていただきたいのです。ヴェイン公爵として、そして王国一の天才魔法使いとしての独自の情報網を使って、裏で糸を引いているネズミを炙り出してください。当局も全力でサポートします。……フローリス様の大事な奥様を、二度と危険に晒さないためにも」
ノアの真摯な言葉に、フローリスはゆっくりと顔を上げた。
黄金色の瞳には、先ほどの暴走しそうなほどの怒りはなく、代わりに研ぎ澄まされた刃のような、冷徹な理知の光が宿っていた。
「……言われなくても、そのつもりだよ。キアラちゃんの平和な日常を脅かす害虫は、俺が全部駆除する。王宮のネズミだろうがなんだろうが、絶対に逃がさない」
フローリスはソファから立ち上がり、普段のヘラヘラした遊び人の仮面を完全に捨て去った、冷酷な『公爵』の顔で宣言した。
「ノアちゃん。結界の魔力残滓のデータと、最近王都に出入りしている不審な傭兵団や闇ギルドのリストを全部俺に回して。今日中にね」
「ええ、承知いたしました。すぐに手配いたします」
ノアが頼もしく頷くのを確認すると、フローリスは踵を返し、局長室の扉へと向かった。
(待っててね、キアラちゃん。初夜を邪魔された罪も込みで、君の周りの不愉快な連中は俺が全部、裏で綺麗にお掃除しておくから)
愛する武闘派の妻が自ら剣を取って戦う気満々であることを、フローリスは全く理解していない。
「妻を箱入りのお姫様として守り抜く」と決意を固めたフローリスと、その裏で「有能なビジネスパートナーの背中を守る」と誓っているキアラ。
互いを守るために全力ですれ違う最強の公爵夫妻の、新たな(そして盛大な勘違いに満ちた)戦いが、ここから静かに幕を開けようとしていた。
不穏な気配……
更新は明日の20時に予定してます!よろしくお願いいたします!




