第22話:キアラの勘違い
スゥ、スゥ……と、静かな部屋に規則正しい寝息だけが響いている。
キアラは、自分の上に半ば覆い被さるようにして眠りこけている夫の重みを感じながら、暗い天井を見つめていた。
シーツに縫い留められていた両手はとうに解放されているが、フローリスの長い腕がキアラの腰にしっかりと巻き付いており、身動きが取れない。鍛え抜されたキアラの腕力をもってすれば強引に引き剥がすことも不可能ではなかったが、極度の疲労で気絶するように眠る彼を叩き起こすのは、さすがに気が引けた。
キアラは小さくため息をつき、首だけを動かして、すぐ横にあるフローリスの寝顔を見つめた。
月明かりに照らされた端正な顔立ちは、起きている時のヘラヘラとした軽薄さも、先ほどの獲物を狙うようなギラついた気配も消え失せ、まるで幼子のように無防備だ。
「……まったく。いきなり押し倒すから何事かと思ったぞ」
誰に聞かせるわけでもない、キアラはポツリと呟いた。
その瞬間、先ほどフローリスにベッドに押し倒され、強引に唇を塞がれた記憶がフラッシュバックし、キアラの頬がボッと熱を持った。
『ダメ。もう絶対に逃がさない』
あの時のフローリスの、飢えた獣のような、それでいてひどく甘く蕩けた黄金色の瞳。
武術の稽古で屈強な騎士たちと対峙しても決して怯まないキアラが、あの時ばかりは背筋にゾクッとした甘い痺れを感じ、完全に気圧されてしまっていた。
(あのまま彼が眠りに落ちていなければ、私は間違いなく、最後まで彼に……)
そこまで考えて、キアラはハッとある事実に思い至った。
(よく考えたら……私たちはまだ、夫婦としての『初夜』を一度も迎えていなかったな)
政略結婚とはいえ、夫婦となったからには『跡継ぎを残す』という絶対的な義務がある。
しかし結婚してからのフローリスは、日中はキアラのご機嫌取り(※過剰な溺愛)に全力を注ぎ、夜はキアラが寝静まった後にこっそり執務室で領地の激務を片付けるという、狂気じみたスケジュールをこなしていた。
そのため、二人は同じベッドで眠ることはあっても、身体を重ねるような行為には一度も至っていなかったのだ。
キアラの優秀で明晰な(そして根本的にズレている)頭脳が、ここに至ってすべての点と点を一本の線で繋ぎ合わせた。
(……なるほど。今日、彼が王太子殿下に呼び出されて何を言われたのか、ようやく分かったぞ)
キアラは納得のいく答えを導き出し、深く頷いた。
(ヴェイン家とモーランド家の強固な同盟を牽制したい殿下は、フローリスに対してこう言ったに違いない。「君たちは結婚したというのに、まだ跡継ぎの気配がないね。本当に同盟は上手くいっているのかな?」と。
……フローリスは、その無言のプレッシャーに焦ったのだ!)
キアラの中でのエーリヒ王太子の解像度が、見事なまでに『腹黒い王太子』として補完されていく。
(王太子殿下からの圧力に焦ったフローリスは、一刻も早く私との間に跡継ぎを作り、公爵家としての『義務』を果たさねばならないと追い詰められた。だからあんなに血相を変えて部屋に戻ってきて、有無を言わさず私を押し倒したのだな!)
なんという重圧。なんという当主としての責任感だろうか。
キアラは、スゥスゥと眠るフローリスの金髪を、労うようにそっと撫でた。
「不器用な男だな、お前は。そんなに政治的なプレッシャーを感じていたのなら、素直に『跡継ぎを作る義務を果たそう』と相談すればいいものを」
キアラは小さく苦笑した。
フローリスはきっと、妻である自分に「義務だから」と冷酷に命じることを良しとせず、変にムードを作って情熱的な夫を演じようと無理をしたのだろう。結果として、極度の疲労と緊張の糸が切れて、肝心の場面で気絶するように寝落ちしてしまったのだ。
「フッ……本当に、世話の焼けるビジネスパートナーだ」
呆れたように呟きながらも、キアラの胸の奥には、じんわりとした温かい感情が広がっていた。
自分が魔獣を倒したという『ガサツな失態』を完璧に隠蔽し、さらには公爵家を守るために一人で王太子の圧力と戦い、こうして身を粉にして無理をしている夫。
(……それに、正直なところ、嫌ではなかった)
キアラは、そっと自分の唇に指を触れた。
強引だったが、熱くて、ひどく大切にされているような気がした、あのキス。
もしあのまま『義務』を果たしていたとしても、自分はきっと彼を受け入れていただろう。
「……仕方ない。お前がそこまでヴェイン家とモーランド家の未来を背負っているというのなら、私も妻として、しっかりと応えてやらねばな」
キアラは、眠るフローリスの額に、チュッと不器用にキスを落とした。
「次からは、お前一人に無理はさせない。私からリードして『義務』を果たしてやろう。……覚悟しておけよ、フローリス」
まるで次回の魔物討伐の作戦を立てるかのような、凛々しくも男前な決意。
愛する夫からの情熱的な求愛を「政治的な跡継ぎ問題への焦り」と完全に誤解したキアラは、次こそは自分が主導権を握って『同盟の総仕上げ(=初夜)』を遂行してやると、斜め上の覚悟を固めていた。
「おやすみ、私の立派な旦那様」
キアラは、自分にすり寄ってくるフローリスの頭を抱き寄せるようにして、今度こそ静かに目を閉じた。
翌朝、目覚めたフローリスが「自分が大事な局面で寝落ちした」という痛恨の事実に気づいて絶望の叫びを上げること。
そして、その夜に「よし、今日は私から義務を果たしてやろう! 脱げ!」と武将のような顔で迫ってくるキアラに、嬉しさと困惑でパニックを起こすことになるのは、また別の話である。
今回はキアラ視点でした!
少し短くてすみません(;_;)
次回は明日に投稿予定です!




