第21話:大嫉妬
王都で最も格式高いホテル、その最上階に位置するヴェイン公爵家専用のスイートルーム。
エーリヒの部屋から猛ダッシュで戻ってきたフローリスは、ドアノブに手をかけた瞬間、自身の内側から溢れ出す感情を抑えきれず、無意識に強力な風の魔法で重厚な扉をバンッ!と蹴り開けてしまった。
「キアラちゃあああん!!」
「なっ!? な、なんだ、敵襲か!?」
部屋の中でくつろいでいたキアラは、凄まじい音に弾かれたように立ち上がり、近くにあったペーパーナイフを逆手に構えて戦闘態勢をとっていた。すでにあの窮屈な狩猟用のドレスは脱ぎ捨てられ、ゆったりとした純白のネグリジェに身を包んでいる。
フローリスはペーパーナイフを構える妻の元へ一直線に滑り込むと、その細い腰にすがりつくようにしてガバッと抱きついた。
「うわぁぁぁん! キアラちゃぁぁん!!」
「おわっ!? おい、フローリス!? 一体どうしたというのだ、急に泣きついてきて! 離れろ、暑苦しい!」
「やだやだ離れない! ずっとこうしてる! キアラちゃんは俺のなんだからぁ!」
キアラが力任せに引き剥がそうとするが、フローリスは絶対に離すまいと、風の魔法で自身の体重を床に固定してまでしがみついた。
「キアラちゃん……っ、俺、エーリヒ殿下から聞いちゃったんだからね……!」
フローリスがキアラのお腹に顔を埋めたまま、恨めしそうな声で唸ると、キアラの動きがピタリと止まった。
「殿下から? ……一体、何を聞いたというのだ」
「キアラちゃんが、学園時代に殿下とすごく仲良しだったことだよ! 殿下の前で剣舞を披露したり、あまつさえ倒れた殿下を背負って救護室まで走ったって……! 汗だくになって、密着して……っ!」
「は……?」
キアラはぽかんと口を開け、信じられないものを見るような、赤い瞳をパチクリと瞬かせた。
「お前、そんなことを殿下からわざわざお聞きしたのか?」
「そうだよ! 殿下は『美しい魂の子だった』なんて、まるで初恋の相手を思い出すみたいな顔で語ってたんだからね! キアラちゃんの男勝りでカッコいいところ、俺より先に知ってたなんてズルい! 俺だってキアラちゃんにおんぶされたいのにぃぃ!!」
フローリスがジタバタと子供のように駄々をこねると、キアラは呆れ果てたような、ひどく深いため息をついた。そして、フローリスの頭にポンと手を乗せ、ガシガシと乱暴にその金髪を撫で回した。
「バカな男だな、お前は。そんな昔のことで、いちいち目くじらを立ててどうする」
「だってぇ……!」
「よく聞け、フローリス。私が殿下を背負ったのは事実だが、そこに他意など一切ない。学園の中庭で、たまたま殿下が発作を起こして倒れられているのを発見したのだ。周囲に護衛もおらず、一刻を争う事態だったから、一番手っ取り早く運べる手段をとっただけだ」
キアラは淡々と、当時の状況を説明し始めた。
「それに、殿下はひどく体が細く、羽のように軽かったからな。米俵を担ぐよりもずっと楽だったぞ。剣舞を見せたのも、殿下が『武術棟の視察』と称して勝手にやってきたから、仕方なく稽古の続きをしていただけだ。……殿下にとっては美化された思い出かもしれんが、私にとってはただの『緊急事態の対応』と『日常の鍛錬』でしかない」
「米俵……」
フローリスは顔を上げ、キアラの真っ直ぐな赤い瞳を見つめた。彼女の瞳には一切の揺らぎも、照れもない。本当にただの「米俵を運んだだけ」という事実を述べているだけの、武人としての清々しい顔だった。
(キアラちゃん……っ。殿下はあんなに特別そうに語っていたのに、キアラちゃんにとっては完全に『ただのクラスメイトの救護活動』だったんだ……!)
天才的な頭脳を持つエーリヒ殿下でさえ、キアラちゃんを振り向かせることはできなかったのだ。彼女のこの気高くて実直な心を射止められたのは、この世界で俺ただ一人なのだという圧倒的な優越感。
「ほんとに? 殿下のこと、なんとも思ってなかった?」
「当たり前だろう。畏れ多くも次期国王陛下だぞ。一介の貴族の娘が、どうこう思っていい相手ではない」
キアラはペーパーナイフをサイドテーブルに置き、フローリスの頬を両手でバシッと挟み込んだ。
「お前、王太子殿下の部屋に呼ばれて、何を言われたのかと思えば……。そんな顔色を悪くして、魔力を暴走させて……もしや、殿下から無言のプレッシャーをかけられたのか?」
「えっ?」
フローリスは目を丸くした。
「殿下は昔から、お前のその有り余る才能を高く評価しつつも、御しきれないことを警戒しておられるからな。……私とお前が結婚し、ヴェイン家とモーランド家が強固な同盟を結んだことを、牽制しようとなさったのだろう」
(違う。殿下はただ単に、俺の嫉妬心を煽って遊んでいただけだ)
だが、キアラは完全に「フローリスが王太子から政治的な圧力をかけられ、不安になって逃げてきた」と解釈しているようだった。
「安心しろ、フローリス」
キアラは、フローリスの頬を挟んだまま、力強く、そしてどこまでも頼もしい声で告げた。
「殿下が過去の些細な出来事を持ち出して、お前を揺さぶろうとしたのかもしれんが、私の意思は変わらない。……私は、ヴェイン公爵であるお前の妻だ。例え王太子殿下だろうと、私が一度結んだ『誓い』を違えさせることなどできはしない」
フローリスの心臓がドクン、と大きく跳ねた。
(——『私はフローリス様の妻です。例え王族が相手でも、私の愛は揺るぎません』って……そう言ってくれてるんだね、キアラちゃん!)
「それに……」
キアラは、少しだけ声のトーンを落とし、まるで戦友に向けるような信頼の眼差しでフローリスを見た。
「今日、森で私が魔獣を仕留めてしまったあのガサツな失態を、お前が倒したことにして、私の体面を完璧に守り抜いてくれただろう? だから私もお前の背中を守る。王宮の権力闘争だろうが何だろうが、一人で抱え込むな。私がお前の剣となり盾となって、必ず支えてみせる」
自分のためなら王族をも敵に回す覚悟があると断言してくれた妻の言葉(※同盟相手としての頼もしいビジネス宣言)に、フローリスの理性が完全に吹き飛んだ。
「キアラちゃあああああん!!」
「わっ!? こら、だから飛びつくなと……っ」
フローリスはキアラの頬から手を外させると、そのまま彼女の体をベッドへと押し倒した。
キアラが驚いて肩を押し返そうとするが、フローリスは彼女の両手首を優しくシーツに縫い留める。普段のヘラヘラした顔は消え、飢えた獣のような、それでいてひどく甘く蕩けた瞳で彼女を見下ろした。
「ダメ。もう絶対に逃がさない。キアラちゃんが俺をこんなに狂わせるのが悪いんだよ」
「なっ……お、お前、急に何を……っ」
キアラの顔が、みるみるうちに限界まで真っ赤に染まっていく。男勝りで武闘派な彼女だが、こういう直接的な愛情表現にはすこぶる弱い。
(殿下は、キアラちゃんのカッコいいところを知ってるかもしれない。でも、この真っ赤に染まった可愛い顔も、蕩けるような声も、俺しか知らないんだ。俺だけのものなんだ……っ!)
「キアラちゃん、大好き。愛してる。世界中の誰よりも、キアラちゃんだけが光だよ」
フローリスは彼女の耳元で低く甘い声で囁きながら、その首筋に顔を埋めた。
「ひゃっ……! バ、バカ、やめろ……っ、明日も狩猟祭が……っ」
「明日のことなんてどうでもいいよ。今日は朝まで、俺がどれだけキアラちゃんを愛してるか、体に直接教えて……あげる……から……」
「なっ……! この、ド変態が……って、あれ?」
身を硬くして目をギュッと瞑っていたキアラだったが、いつまで経っても次の行動に移らないフローリスに、恐る恐る目を開けた。
自分に覆い被さっているフローリスの体は、まるで糸が切れたように完全に脱力している。首筋に埋められた顔からは、スゥ……スゥ……という、とても規則正しく、平和な寝息が聞こえてくるではないか。
「……フローリス?」
キアラが声をかけても、フローリスは「んふ……キアラちゃん、すき……」と寝言をこぼすだけで、ピクリとも動かない。
(ね、寝ている……!?)
無理もない。今日のフローリスは、周囲の貴族を一日中威圧し続け、王太子殿下からのストレスまで浴びたのだ。それに加えて、愛するキアラからの「完全な愛の誓い(勘違い)」をもらったことで、張り詰めていた緊張と限界突破していた安堵感が一気に押し寄せ、極度の疲労と共に意識を強制シャットダウンさせてしまったのである。
「はぁ……。まったく、人騒がせな男だ」
キアラは諦めてため息をつくと、自分を抱き枕のようにして眠りこける夫の頭を、仕方なく撫でてやった。
(王太子殿下からどれほどのプレッシャーをかけられたのかは知らんが、よほど心細かったのだろうな。私にすがりついて、安心したように眠ってしまった。……やれやれ、これほど優秀な男が、私という政治的な『要』にここまで依存するとは)
完全にズレた解釈をしたまま、キアラは母親のような慈愛に満ちた表情を浮かべる。
「まあいい。私をかばってくれたお前を、今度は私が守ってやろう。……ゆっくり休め、フローリス」
キアラは、自分にすり寄ってくるフローリスの金髪を優しく梳きながら、そのまま彼を抱きしめるようにして目を閉じた。
王太子の悪戯めいた挑発は、結果としてフローリスの嫉妬心に火をつけ、ヴェイン公爵夫妻の夜をかつてないほど濃厚で情熱的なものに……するはずだったが。
結局は、キアラの「重すぎる義務感からの依存」という勘違いをさらに強固なものにし、フローリスの安らかな寝顔で幕を閉じることになった。
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