第20話:秋の大狩猟祭3
王領の森に設営された狩猟祭の拠点。
色鮮やかな天幕が並ぶ広場は、突如として森の奥から帰還したヴェイン公爵夫妻の姿と、フローリスの口から告げられた報告によって、蜂の巣をつついたような大パニックに陥った。
「な、なんだと!? 完全非戦闘エリアである西の森に、上位魔獣のブラックウルフが出現しただと!?」
「騎士団は何をしていたのだ! もし奥方様方に被害が及んでいたら……!」
青ざめる貴族たちや、冷や汗を流して膝をつく警備担当の騎士たち。
その騒ぎの中心で、フローリスは愛する妻・キアラの肩をしっかりと抱き寄せながら、周囲に対して絶対零度の威圧感を放っていた。
「騒ぐな。魔獣は俺がこの手で完全に消し去った。キアラちゃんには指一本触れさせていない」
フローリスの冷酷で凄まじい魔力の残滓を感じ取り、周囲は水を打ったように静まり返る。
フローリスの頭の中では、先ほどの森での出来事が、彼特有の『愛妻フィルター』を通した美しい英雄譚としてリフレインしていた。
(キアラちゃんは、俺を守るために震える足で魔獣に立ち向かってくれた。あの健気で美しい姿は、俺だけの宝物だ。……でも、それをこの俗物どもに知られるわけにはいかない)
もし、「ヴェイン公爵夫人がドレス姿のまま短剣を抜いて魔獣の脳天をかち割った」などという事実が知れ渡れば、社交界は彼女を『野蛮な女』として好奇の目に晒すだろう。
フローリスにとって、それは天地がひっくり返っても許されないことだった。キアラが必死に守ろうとしている『完璧な公爵夫人としての体面』は、夫である自分が完璧に偽装工作をして守り抜かなければならないのだ。
「俺の妻は、突然の魔獣の出現にひどく怯えていた。だから俺が即座に殲滅魔法を放ち、事なきを得た。……それだけのことだ。騎士団長、結界の修復と原因キュウメイはそちらで勝手にやってくれ。俺は妻を休ませる」
フローリスがそう言い放つと、隣に立つキアラはスッと目を伏せ、静かにコクンと頷いた。
その凛とした、しかしどこかホッとしたような横顔を見て、フローリスの胸は激しく高鳴った。
(ああ……キアラちゃん、俺が『自分が倒したこと』にして彼女の体面を守ったことに気づいて、感謝してくれてるんだ! なんて賢くて可愛い妻なんだ!)
キアラの真意(自分が殺ったことがバレずに済んで、ビジネスパートナーとして完璧なカバーをしてくれた、という思い)など知る由もないフローリスは、妻からの信頼を一身に浴びているという幸福感で、有頂天になっていた。
* * *
その日の夜。
狩猟祭は安全確保のために一時中断となり、参加していた高位貴族たちは、王宮御用達の高級ホテルへと避難も兼ねて宿泊することになった。
王族も利用するそのホテルの最上階、ヴェイン公爵家にあてがわれた豪奢なスイートルームで、フローリスはソファに座るキアラの足元に跪き、その白い手を取って頬擦りをしていた。
「キアラちゃん、本当にケガはない? 怖かったよね……ごめんね、俺がもっと早く気づいていれば」
「だから、私は何ともないと言っているだろう。フローリス、いつまでそうしているつもりだ。少しくすぐったい」
「ー、もっとキアラちゃん成分を補給させてよ。今日は俺、キアラちゃんの体面を守るためにすごく頑張ったんだから」
「……ああ。そうだな。お前の機転には、本当に感謝している。見事な手腕だった」
キアラは普段通りの落ち着いたトーンで、しかし確かな信頼を込めてフローリスの頭をポンポンと撫でた。
その不器用な優しさに、フローリスはデレデレと顔を溶かしていた。このまま夜更けまで愛しい妻を抱きしめて、甘い言葉を囁き続けたい。
コンコン。
しかし、無情にも部屋の扉がノックされ、フローリスの筆頭側近が申し訳なさそうに入室してきた。
「旦那様。王太子殿下より、お呼び出しでございます。殿下のお部屋までご足労いただきたいと……」
「はぁ!? なんで俺が? 今キアラちゃんとの超大事なスキンシップタイムなんだけど!」
フローリスが本気で嫌そうな顔をして吠えると、キアラがピシャリと告げた。
「フローリス。現在病に伏せられている国王陛下に代わり、この狩猟祭を取り仕切っておられるのは王太子・エーリヒ殿下だ。その名代からの呼び出しを無下にするなど、公爵としてあるまじき行為だぞ。早く行ってこい」
「ええ〜……キアラちゃんがそういうなら仕方ないけど。すぐ戻ってくるからね! 待っててね!」
後ろ髪を引かれる思いで、フローリスは渋々部屋を後にした。
* * *
同じ階のさらに奥、厳重な警備が敷かれた王太子専用のスイートルーム。
フローリスが案内されて中へ入ると、豪奢なソファに腰を下ろし、優雅に紅茶のカップを傾けている青年がいた。
輝くようなプラチナブロンドの髪に、天使のように穏やかで美しい微笑み。しかし、その細められたアイスブルーの瞳の奥には、すべてを見透かすような絶対的な支配者の光が宿っている。
病気療養中の国王に代わり、国政を取り仕切る聡明なる次期国王——王太子エーリヒである。
「やあ、夜分にすまないね。ヴェイン公爵……いや、フローリスくん」
「……お久しぶりです、エーリヒ殿下。ゲホゲホと咳き込んで寝込んでいるかと思いましたが、お元気そうで何よりです」
エーリヒが鷹揚に微笑み、フローリスが不遜な態度で形ばかりの礼をとる。
二人に流れる空気は、どこかヒリヒリとした、気まずくも緊張感のあるものだった。
それもそのはずである。フローリスとエーリヒは、かつて王立学園で机を並べた同級生だった。
国のために身を粉にして学び、生徒たちの頂点に立つ『皇帝』として君臨していたエーリヒと。天才的な魔法の才能を持ちながら「義務なんて面倒くさい」とサボってばかりいた遊び人のフローリス。二人は水と油のように反りが合わず、学生時代には幾度となく衝突し、学園の訓練場を半壊させるほどの大喧嘩をしたことすらある。
だが、互いにいがみ合っていても、その実力だけは誰よりも認め合っていた。エーリヒはフローリスの規格外の魔法技術を、フローリスはエーリヒの病弱な身に余るほどの強靭な信念と統率力を、心の底では畏敬しているのだ。
「フフッ、君のその皮肉めいた挨拶を聞くのも久しぶりだ。今日はお前を労うために呼んだんだよ。安全地帯であるはずの西の森に上位魔獣が入り込んだ件、君が迅速に処理してくれたおかげで、これ以上の被害を出さずに済んだ。……感謝するよ」
「お礼を言われる筋合いはありませんよ。俺は、愛する妻を守っただけです。もしキアラちゃんに傷一つでもついていたら、俺はあの森ごと王国の警備体制を消し炭にしていたところでしたからね」
わざとらしく肩をすくめるフローリスに、エーリヒは怒るどころか、面白そうにクスクスと笑い声をこぼした。
「相変わらず、極端な男だね。……でも、少し驚いたよ。あの『誰かのために生きるなんてごめんだ』と豪語していた君が、まさかあそこまで妻に執着する愛妻家になるなんて。愛の力は偉大だね、素晴らしいよ」
「キアラちゃんは特別なんですよ。彼女は俺のすべてです。誰にも渡さないし、誰にも指一本触れさせない。だから、用件がそれだけなら俺は帰ります」
「まあ、そう焦らないで。……君がそこまで言うのなら、モーランド公爵家との縁組みは大成功ということだね。私も安心したよ」
エーリヒは紅茶のカップをソーサーに置き、ふと、懐かしむような、そしてどこか悪戯めいた視線をフローリスに向けた。
「……それにしても、まさか君があの『キアラ』と結ばれるとはね。運命とは本当に数奇で、興味深いものだ」
フローリスの眉がピクリと動いた。
(あの『キアラ』……? なぜ、殿下がうちの妻を下の名前で、しかも親しげに呼ぶんだ?)
「殿下。俺の妻をご存知なのですか?」
フローリスの声の温度が、一気に数度下がった。しかし、エーリヒはそれに気づかないふりをして、楽しそうに過去を振り返る。
「当然だろう? 彼女とは学園時代、同じ時期に学舎で過ごした仲だからね。君は授業をサボって街の女の子と遊びに出てばかりいたから知らないだろうけれど……彼女はいつも武術棟に入り浸っていてね。私は体が弱くて剣は振れないけれど、よく彼女の剣舞を見学させてもらったものだよ」
——ピキッ。
フローリスの足元の絨毯が、無意識に漏れ出した魔力によって微かに凍りついた。
「見学……? キアラちゃんの剣を、殿下が、ですか?」
「ええ。彼女の剣筋は実に淀みがなく、美しかった。身分や建前に囚われず、この私に対しても一人の武人として……いや、友人として真っ直ぐにぶつかってきてくれる、本当に太陽のように眩しい子だった。フフッ、今でも思い出すよ」
エーリヒは目を細め、まるで極上の思い出を反芻するように言葉を紡いだ。
「ある日、学園の中庭で私が発作を起こして倒れてしまったことがあってね。その時、通りかかった彼女が、汗だくのまま私を背負って救護室まで走ってくれたんだ。『大丈夫か! 私がついているから安心しろ!』って、まるで物語のヒーローみたいにね。彼女のあの小さな背中の温かさと、暑苦しいほどの優しさに、私はひどく救われたものだよ。……本当に、美しい魂を持った子だ」
フローリスの脳内で、エーリヒの言葉が絶望的なエコーをかけてリフレインした。
(背負って走った……!? あのキアラちゃんが!? 殿下を!? 密着して!? 汗だくで!?)
俺の知らない学生時代。俺が街で適当に時間を潰していたその裏で、キアラちゃんはエーリヒ殿下に剣術を見せ、あまつさえ倒れた彼をその背に負って、親密に言葉を交わしていたというのか!
しかも、「太陽のように眩しい」「美しい魂」だと!?
俺がキアラちゃんの無鉄砲で男勝りな本性を知ったのは、結婚してからのことだ。それなのに、この目の前にいる男は、学園時代から『本当のキアラちゃん』を知っていて、あまつさえ青春の思い出を共有しているというのか!
「っ……! 殿下……!」
フローリスの黄金色の瞳に、どす黒い嫉妬の業火がゴウッと燃え上がった。
部屋の空気が急激に重くなり、窓ガラスがビリビリと悲鳴を上げ始める。
「ん? どうしたんだい、フローリスくん。顔色が悪いよ。まさか、あの程度の魔獣相手に魔力枯渇の反動でも来たのかな?」
エーリヒがわざとらしく小首を傾げてみせる。その天使のような微笑みの奥で、「君のそういう顔が見たかったんだよ」と愉悦に浸っているのが、フローリスには痛いほど分かった。
「……いいえ……っ! 全然、何ともありませんよ!!!」
フローリスはギリィッと奥歯を噛み締め、完璧な(しかし引きつった)笑顔を貼り付けた。
「ああ、そうだ。もし君が、彼女のその活発すぎる性質を持て余しているようなら、いつでも王宮に迎える準備はあるよ? 彼女なら、私の良き『近衛騎士』になってくれるだろうからね。フフッ」
「殿下。冗談でも二度とその口を開かないでいただきたい」
フローリスの声は、地を這うような低い声音に変わっていた。
部屋中のティーカップがカタカタと震え、魔力の重圧で空気が軋む。
「過去はどうあれ、今のキアラちゃんは俺の妻だ。俺の命だ。誰にも、例え王太子殿下だろうと、絶対に渡さない……!!」
「フフッ、頼もしいね。それじゃあ、せいぜい手放さないように頑張ることだね」
エーリヒの余裕に満ちた笑い声を聞きながら、フローリスはろくに礼もせず、嵐のような勢いで部屋を飛び出した。
「キアラちゃあああん!!」
高級ホテルの廊下を、公爵としての威厳もかなぐり捨てて自室へと猛ダッシュするフローリス。
彼の中で爆発した理不尽で巨大な嫉妬の炎は、この後、自室で待つキアラに(義務へのプレッシャーだと勘違いされながら)暑苦しいほどの愛情となって全開でぶつけられることになる。
王太子の部屋に残されたエーリヒは、バタン!と勢いよく閉まった扉を見つめ、冷めた紅茶を一口飲んでから、ただ一人楽しそうに微笑んだ。
「……やはり、昔から見ていて飽きない男だね、フローリスくんは」
かくして、王太子をも巻き込んだヴェイン公爵夫妻の騒がしい夜は、互いの盛大な勘違いを深めながら更けていくのであった。
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