第19話:秋の大狩猟祭2
木漏れ日が降り注ぐ秋の森は、赤や黄色に色づいた葉が風に舞い、まるで絵画のように美しかった。
周囲には騎士たちの怒声も、猟犬の吠え声も聞こえない。ただ、風の音と鳥のさえずりだけが響く、完全に二人きりの世界だ。
フローリスはキアラの手をしっかりと握りしめたまま、のんびりと森の小道を歩いていた。
「綺麗だね、キアラちゃん」
「ああ、そうだな。……」
フローリスが紅葉を見上げながら話しかけると、キアラは生返事をしながら、周囲の茂みや地面を鋭い視線でジロジロと観察していた。
「キアラちゃん、そんなに森の奥が気になる? 何か可愛い動物でもいた?」
「ん? ああ……いや。この辺りの土は少し柔らかいなと思ってな。それに、木々の間隔が絶妙だ」
「土? 木の間隔? ふふっ、キアラちゃんは相変わらず着眼点が独特で面白いね」
フローリスがクスクスと笑うと、キアラは少しバツが悪そうに咳払いをした。
フローリスは、キアラが武術オタクであり、日常風景のなかでもつい戦術的な視点を持ってしまうことを知っていた。その男勝りでマニアックなところも、彼にとってはたまらなく愛おしいポイントの一つだった。
しばらく歩くと、小川のせせらぎが聞こえる、少し開けた美しい広場に出た。
苔むした岩と、色鮮やかな落ち葉の絨毯。まるで妖精でも出てきそうなほど幻想的な空間だ。
「わぁ、ここ、すごくいい場所だね。キアラちゃん、少しここで休んでいこうか」
フローリスはキアラをエスコートして、手頃な切り株にハンカチを敷いて座らせた。
木漏れ日に照らされた彼女の横顔は、神様が丹念に作り上げた彫刻のように美しく、フローリスは思わず息を呑んで見惚れてしまった。
(こんな誰もいない森の奥で、キアラちゃんと二人きり……。なんだか、このままキアラちゃんを押し倒してキスしたくなってきたな……)
フローリスは、自分の内側から湧き上がる甘い衝動を抑えきれず、ゆっくりとキアラに顔を近づけようとした。
「キアラちゃ——」
「そういえば、フローリス」
不意に、キアラが真面目な顔をして口を開いた。
甘いムードに浸りかけていたフローリスは、肩をビクッと揺らして動きを止める。
「ん? なあに、キアラちゃん」
「今日の狩猟祭の冒頭で、挨拶をされた王太子殿下のことだが……」
キアラが話題に出したのは、本日代役として出席していた第一王子、王太子殿下のことだった。
「あの方、現在病に伏せられている国王陛下に代わって、たった一人で国の実務を背負っていらっしゃるのだろう? 以前から遠目にお見かけすることはあったが、今日間近で拝見して……何というか、ものすごく多忙を極めているように見えたのだ」
キアラの言葉に、フローリスはふっと柔らかく、しかしどこか少し切なさを帯びた笑みを浮かべた。
「そうだね。殿下は第一王子のうえ一人っ子だし、この国を背負う立場として本当に頑張っていらっしゃるよ。……ただ、真面目で責任感が強すぎるがゆえに、最近はちょっと空回り気味みたいだけどね」
「空回り、か?」
「うん。国民のため、国の未来のために良かれと思って新しい政策や改革を進めようとするんだけど、古いしきたりを重んじる古参の大臣たちや、既得権益にしがみつく貴族たちから反対されてばかりでさ。会議のたびに『前例がない』の一点張りで突っ返されて、身動きが取れなくなっているんだ」
フローリスは、木々の間から差し込む光を見上げながら、ポツリと呟いた。
「あの方は、もっと周りを頼ったり、時には息抜きをしたりすればいいのに、全部一人で抱え込もうとする癖がある。……大臣たちの顔色を窺い、しがらみに縛られながら、それでも理想の王になろうと必死にもがいている姿を見ていると、なんだか少し……痛々しくなってしまうんだよね」
そのフローリスの声音には、いつもの飄々とした軽さはなく、知る者としての深い憂いと、静かな哀しみが滲んでいた。
王国の最高峰たる天才魔法使いである彼だからこそ、政の場で孤軍奮闘する王太子の苦悩が痛いほどよく分かったのだろう。
(……フローリスが、こんなに真面目な顔で誰かの心配をするなんて珍しいな)
キアラは、目の前の夫の横顔をじっと見つめた。
普段は自分のことばかりで頭がいっぱいのように見える彼だが、その実、国のトップである王太子の苦悩すら正確に察し、心を痛めている。
『ヴェイン公爵』としての彼は、彼女が思っている以上に深く世界を見通し、責任を背負っているのかもしれない。
気まずい沈黙が降り下りそうになったその時、フローリスはハッと我に返ったように表情を明るくさせ、キアラの前にヒョイと顔を突き出した。
「おっといけない! せっかくキアラちゃんと二人きりのロマンチックなデートなのに、堅苦しい政治の話なんかしちゃったね! そんな難しい顔はしないで、可愛いお姫様は俺の顔だけ見ててよ!」
「誰がお姫様だ! ……まったく、お前はすぐに調子に乗る」
ふふっ、と少しだけ笑ったキアラを見て、フローリスは「やった、笑ってくれた!」と心の中でガッツポーズをした。
再び甘いムードを取り戻そうと、フローリスがゆっくりとキアラに顔を近づけようとした、まさにその時だった。
——ピタッ。
森の空気が、不自然に止まった。
さっきまで聞こえていた小鳥のさえずりが、嘘のように消え失せている。
代わりに、鼻をつくような嫌な獣の臭いと、空気がビリビリと震えるような『異質な魔力』の波動が、風に乗って流れ込んできた。
フローリスは瞬時に恋する男の顔から、天才魔法使いとしての冷酷な顔へと切り替わった。
この西の森は、事前に騎士団が完全に安全を確認したはずのエリアだ。魔獣はおろか、危険な肉食獣の一匹すら入り込めないように結界が張られているはずだった。
だが、この肌を刺すような悪意と魔力の残滓は、間違いなく『上位の魔獣』のものだ。
しかも、結界を内側から食い破って、今まさに二人のいる広場へと向かってきている。
ガサッ……ガサガサッ!!
広場の奥にある深い茂みが、大きく不気味に揺れ始めた。
木々がなぎ倒されるような重い足音。そして、地鳴りのような低い唸り声が、森の静寂を切り裂いて響き渡る。
「……キアラちゃん、俺の背中に隠れて」
フローリスはすぐさまキアラを庇うように前に立ち、右手に莫大な魔力を集束させ始めた。
(キアラちゃんとの大切なデートを邪魔するなんて、どこのクソ魔獣か知らないけど……絶対に許さない。キアラちゃんに恐怖を与える前に、一瞬で消し炭にしてやる!)
フローリスの瞳が、怒りと殺意で黄金色にギラリと発光する。
茂みを押し分けて、巨大な真っ黒い影——凶暴な三つ目の黒狼がそのおぞましい姿を現した。
(——消し飛べッ!!)
フローリスが無詠唱で超高位の殲滅魔法を解き放とうとした、その瞬間だった。
「——邪魔だ、退けフローリス!!」
フローリスの背後に隠れているはずだったキアラが、凄まじい踏み込みでフローリスの横をすり抜けたのだ。
「えっ?」
フローリスの天才的な動体視力が、信じられない光景をスローモーションで捉える。
キアラは重いベルベットのドレスを着ているにもかかわらず、全く動きを阻害されていなかった。彼女は先ほど「少し柔らかいな」と呟いていた土を的確に蹴り、絶妙な間隔で生えていた木々の幹を壁蹴りの要領で蹴り上げ、風のように空高く跳躍したのだ。
フローリスは息を呑んだ。彼女が木刀を振るうのが好きで、男勝りで活発な性格であることは知っていた。だが、あの重厚なドレスを着たまま、歴戦の騎士すら凌駕するほどの洗練された動きで空を舞うほどの域に達しているとは、想像もしていなかったのだ。
空を舞うエメラルドグリーンのドレスが、まるで一輪の巨大な花のように広がる。
そして彼女の腰から、フローリスが贈ったあの短剣がシャキィィン!と澄んだ音を立てて抜かれた。
「ふっ!!」
キアラは落下する勢いそのままに、黒狼の眉間——魔獣の急所である魔石が埋まっている部分へ、淀みなく、美しく、そして無慈悲な一撃を深々と突き立てた。
『ギャォォォォンッ!?』
断末魔の悲鳴を上げ、巨大な魔獣がズシンと地響きを立てて倒れ伏す。
フローリスの右手に集まっていた殲滅魔法が、行き場を失してシュウゥ……と霧散した。
「ふぅ。やはりドレスの重みで少し軌道がブレたが……まあ、この程度の魔獣なら造作もないな」
血振るいをして短剣を鞘に納めるキアラ。
その動きは、完璧な武人のそれであった。
しかし、キアラは次の瞬間、ハッと息を呑んで血の気を引かせた。
彼女は真っ青な顔で、背後のフローリスを恐る恐る振り返った。フローリスは、目を見開いたまま、ピクリとも動かない。
キアラの表情には「公爵夫人の仮面が完全に剥がれてしまった」「あまりにもガサツで野蛮な本性を晒してしまった」という焦りが如実に浮かんでいた。
「フ、フローリス、違うのだ、これは……つい体が勝手に……」
キアラが必死に弁明を捻り出そうとした、その時。
ミュージックビデオのような静寂を破り、フローリスの口から声が漏れた。
「……キアラちゃん……っ!」
フローリスの黄金色の瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
「っえ?」
「キアラちゃぁぁぁぁん!!」
フローリスは猛然とダッシュし、魔獣の死体の横に立つキアラにガバッと抱きついた。
「俺を守るために、こんな恐ろしい魔獣に立ち向かってくれたの!? キアラちゃんが剣術好きなのは知ってたけど、まさか俺を庇って、こんなガチの戦闘までしてくれるなんて……ッ! しかも、俺があげた短剣を使って! なんて健気で、カッコよくて、俺への愛に溢れてるんだぁぁっ!!」
フローリスの『超解釈・愛妻フィルター』は、キアラの完璧な実戦能力を「愛する夫を守るために、身の危険を顧みず捨て身の一撃を放った」という究極の愛の証明へと見事に変換していた。
「……は?」
キアラはフローリスの腕の中で、完全に思考が停止したように瞬きを繰り返した。
彼女は自分のガサツな振る舞いを咎められるどころか、フローリスが号泣しながら感謝と愛をぶつけてくるという状況に、ひどく困惑した様子を見せた。
しかし、数秒後。キアラは何かを悟ったように表情を引き締めると、フローリスの背中をポンポンと頼もしく叩いた。
「お、おう、そうなのだフローリス! お前が襲われそうになっているのを見て、思わず体が動いてしまったのだ! 夫を守るのも、妻の立派な『義務』だからな!」
「うわぁぁぁん! 義務なんて言わなくていいよ、キアラちゃんの愛、しっかり受け取ったからぁ! 世界一カッコよくて可愛い俺のお姫様ぁぁ!」
キアラは、フローリスが自分のガサツな本性を『夫を庇った美談』として処理してくれたのだと解釈し、必死にそれに話を合わせていた。
見事に会話のベクトルは真逆を向いているのに。
秋の森の奥深くで、二人の絆はまたしても、どうしようもないほど強固に結びついてしまったのだった。
もう少し続きます!
明日20時投稿予定です!




