第18話:秋の大狩猟祭1
秋の深まりを感じさせる、澄み切った青空の朝。
ヴェイン公爵邸の当主の私室……ではなく、今やすっかりフローリスが入り浸っている妻・キアラの私室で、ヴェイン公爵フローリスは朝から感動に打ち震えていた。
「どうだ、フローリス。やはりこの狩猟用のドレスというのは、ひどく動きにくいな。コルセットの締め付けは夜会よりマシだが、スカートの重さが足捌きの邪魔になる」
大きな姿見の前で、不満げに裾を揺らしているキアラ。
本日は、王家が主催する『秋の大狩猟祭』の日であった。国中の高位貴族が一堂に会するこの行事に参加するため、フローリスが特注で仕立てさせたのが、キアラが今身に纏っている深いエメラルドグリーンのベルベット生地の狩猟用ドレスである。
乗馬服を貴婦人向けに優雅にアレンジしたその装いは、控えめに言ってこの世の奇跡だった。
「キアラちゃん……っ、すっごく、すっごく可愛いよ! その深い緑色、キアラちゃんの綺麗な赤色の瞳によく似合ってる! 俺の乗馬服とお揃いの色にして正解だったなぁ……ああもう、可愛い。最高。今すぐ抱きしめていい?」
「ダメに決まっているだろう。今から馬車に乗るというのに、シワになったらどうするのだ」
両手を広げて突撃しようとするフローリスを、キアラは扇の先でピシャリと制した。
フローリスにとっては、その冷たくあしらうような態度すら、最高に愛おしいご褒美である。
フローリスは、キアラが本来は武術や剣を振るうのが大好きな、男勝りで活発な性格であることを知っている。だからこそ、この堅苦しい装いに文句を言いながらも、彼のために完璧な『ヴェイン公爵夫人』として振る舞おうと努力している姿がたまらなく愛おしかった。
「それにしてもフローリス」
キアラは、少し誇らしげな顔をして、自身の細い腰のあたりをポンと叩いた。
「見てみろ。今日はお前がくれたこの短剣を、ドレスの装飾代わりに帯びていくことにしたぞ。どうだ、似合うだろう?」
「えっ……!」
フローリスは息を呑み、目を見開いた。
彼女の腰には、かつてフローリスがプレゼントした見事な彫金の短剣が、美しい鞘に収められた状態でしっかりと下げられていたのだ。
貴婦人の狩猟用ドレスは、装飾として小さな護身用の短剣を帯びることがマナーとして許されている。だが、まさか数ある宝飾剣の中から、自分が贈ったあの短剣を選んでくれるとは。
(キアラちゃん……っ! 俺のプレゼントを、わざわざこんな晴れの舞台で身につけてくれるなんて! これってつまり、『私はフローリス様のものです』っていう周囲への強烈なアピールだよね!? 俺の愛を肌身離さず持ち歩きたいってことだよね!?)
フローリスの脳内では、盛大な歓喜のファンファーレが鳴り響いていた。
あの騎士団での見学騒動や、過労で倒れた夜を経て、キアラは自分に全幅の信頼を寄せてくれている。こうして自分の贈り物を大事にしてくれているのが、何よりの証拠だ——フローリスの見事な『愛妻フィルター』は、今日も絶好調に稼働していた。
「うんっ! すっごく似合ってる! キアラちゃん、ありがとう、俺すっごく嬉しいよ!」
「……? 短剣一本でなぜそこまで喜ぶのか分からんが。まあ、お前が喜んでいるなら何よりだ」
不思議そうに首を傾げるキアラの手を取り、フローリスは恭しくその白い手の甲にキスを落とした。
本音を言えば、こんなに美しくて可愛い妻を、他の男どもが大勢いる狩猟祭になんて連れて行きたくはなかった。邸の奥深くに閉じ込めて、一生自分だけのお姫様にしておきたい。
だが、王家主催の狩猟祭は、高位貴族にとって事実上の強制参加イベントである。公爵であるフローリスが妻を伴わずに出席すれば、無用な政治的憶測を呼んでしまう。
(キアラちゃんのその健気な覚悟、俺が絶対に無駄にはしない。今日の狩猟祭、キアラちゃんには指一本、泥一粒たりともつけさせないからね)
フローリスは心の中で強固な決意を固め、愛する妻をエスコートして馬車へと乗り込んだ。
* * *
王都の郊外に広がる、王家直轄の広大な『王領の森』。
狩猟祭の拠点となる広場には、色鮮やかな巨大な天幕がいくつも張られ、着飾った貴族たちや屈強な騎士たちの熱気で溢れかえっていた。
「見ろ、ヴェイン公爵ご夫妻だ」
「公爵閣下は今日も奥様に付きっきりだな……。それにしても、奥様のあの気高い美しさはどうだ」
二人が馬車を降りた瞬間から、周囲の視線が一斉にキアラへと釘付けになった。
フローリスの内側で、妻の美しさを誇る気持ちと、今すぐ周囲の男たちの目を物理的に潰して回りたいというどす黒い独占欲が、激しくせめぎ合う。
「キアラちゃん、歩きにくくない? 手、繋ごうか」
「……フローリス。いくらなんでも、この人前でずっと手を繋いで歩くのは体裁が悪すぎる。少し離れろ」
キアラは小さな声でフローリスを嗜めながら、背筋をピンと伸ばして歩を進めた。
その表情は、どこまでも冷たく気高い『完璧な淑女』そのものだ。周囲の男たちを容易には寄せ付けないような、凛としたオーラを放っている。
フローリスの見当違いな庇護欲は限界を突破していた。
彼はキアラの半歩後ろを歩きながら、黄金色の瞳から一切の笑みを消し、周囲の貴族たちに向けて『絶対零度の威圧感』を放射し始めた。
(俺の妻に気安く声をかけるな。見惚れるな。一歩でも近づいたら、不可視の風の刃でお前たちの首を刎ね飛ばすぞ)
稀代の天才魔法使いが放つ、手加減なしのガチの殺気。
それに気づいた若い貴族や騎士たちは、キアラに挨拶しようと一歩踏み出した瞬間に顔面を蒼白にし、ガタガタと震えながら回れ右をして逃げていく。
フローリスは内心で「よしよし」とほくそ笑みながら、キアラの視界から不愉快な虫を完璧に排除し続けた。
やがて、現在病に伏せている国王陛下の名代として出席した王太子殿下による開会の宣言が高らかに響き渡り、狩猟祭が幕を開けた。
通常、この狩猟祭では、男たちは馬を駆って森の奥深くへと獲物を求めて入り、女たちは安全な天幕に残り、優雅にお茶を飲みながら夫や恋人の帰りを待つのが習わしとなっている。
しかし、フローリスがそんな退屈なルールに従うはずがなかった。
「さあ、キアラちゃん! 俺たちも森へ行こう!」
「なっ、おいフローリス!? 私は夫人たちの天幕で待機している決まりだろう。お前は一人で狩りに行ってこい」
驚くキアラの手を、フローリスは強引に取った。
「えー、ヤダヤダ! 俺、キアラちゃんとう一秒でも離れるなんて絶対に無理だもん! それに、あんな腹黒い夫人たちばかりのお茶会にキアラちゃんを一人で残すなんて、心配で死んじゃうよ!」
「バカなことを言うな! 狩猟の場に女がついて行けば、お前の足手まといになるだけだぞ!」
「足手まといになんてなるわけないじゃん。だって、俺は『狩り』なんて泥臭いこと、最初からする気ないんだから」
フローリスはクスクスと笑いながら、呆れるキアラをエスコートし、貴族たちの集団とは全く逆の方向——森の西側へと向かって歩き出した。
「おい、どこへ行く気だ、フローリス」
「こっちの西側の森はね、事前に王属騎士団が魔獣の討伐と安全確認を完璧に済ませた『完全非戦闘エリア』なんだ。動物も小鳥やリスくらいしかいない、ただの綺麗な散歩道。だから、キアラちゃんとお忍びでデートするには最高の場所なんだよ」
「デ、デートだと……!? お前、せっかくの狩猟祭で狩りをしないつもりか!?」
「当たり前でしょ。獲物の血なんかでキアラちゃんの綺麗なドレスを汚すくらいなら、一生狩りなんてしなくていいよ。俺が欲しいのは、キアラちゃんと二人きりの時間だけだもん」
フローリスが満面の笑みでウィンクをすると、キアラは「はぁ……」と深いため息をつき、呆れたように肩をすくめた。
「相変わらず、お前は……。まあいい。お前がヴェイン公爵としての『余裕』を周囲に見せつけるために、あえて狩りに参加せず妻と過ごすというのなら、ビジネスパートナーとして付き合ってやろう」
「うんっ! キアラちゃん、大好き!」
どこまでも都合よく言葉を変換し、フローリスは有頂天になっていた。
こうして二人は、喧噪から遠く離れた、静かで美しい森の奥へと足を踏み入れていったのである。
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