第17話:超勘違いフィルター
小鳥のさえずりと共に、窓から差し込む柔らかな朝日が、ヴェイン公爵邸の豪奢な寝室を明るく照らし出した。
「……ん……」
ふかふかのベッドの上で、フローリスはゆっくりと重い瞼を開けた。数日間の徹夜と魔力枯渇による頭痛は嘘のように消え去り、視界はクリアだ。体の中に、枯渇していたはずの魔力が穏やかに、しかし力強く満ちているのを感じる。
(あれ、俺……倒れたんだっけ……)
ぼんやりとする頭で昨夜の記憶を辿る。劇場の廊下で意識が途切れ、その後、熱にうなされながら、誰かに必死にすがりついたような記憶が——。
ふと、自分の右手に温かな重みを感じて視線を下ろしたフローリスは、そこで息を呑んだ。
ベッドの端に突っ伏すようにして、キアラが眠っていた。彼女は、フローリスの右手を両手でしっかりと包み込み、自分の額を押し付けるようにして、静かな寝息を立てている。
(キアラちゃん、俺の手を握ったまま、一晩中ここで看病してくれたんだ……。俺が『行かないで』って言ったから、ずっとそばにいてくれたんだ……っ)
フローリスの胸に、言葉にならないほどの愛おしさと、甘い痺れが広がっていった。空いている左手で、キアラの艶やかな茶色の髪をそっと撫でる。
その微かな振動で、キアラの肩がピクリと動き、黄金色の瞳がゆっくりと開かれた。
「……ん? ああ、フローリス。目が覚めたか」
「おはよう、キアラちゃん。……ごめんね、一晩中看病させちゃった」
キアラはパチパチと瞬きをしてから、ハッとしてフローリス手を離し、姿勢を正した。
「気にするな。熱は下がったようだな。顔色も昨日よりずっといい」
「うん。キアラちゃんがそばにいてくれたおかげで、すっかり元気になったよ。あのね、キアラちゃん……昨日の夜、俺……」
「何も言うな」
フローリスが昨夜の情けない姿を謝ろうとしたのを、キアラは手で制した。そして、腕を組んで、どこか得意げな、しかし頼もしい笑みを浮かべた。
「お前がそこまで重圧を感じていたとは知らなかった。だが、安心しろ。私はモーランドの人間だ、一度結んだ同盟をそう簡単に放り出したりはしない。お前が倒れたくらいで実家に逃げ帰るような真似はしないと、昨日も約束しただろう?」
「……えっ?」
「だから、お前も『完璧な夫』を演じるために、これ以上無理をして魔力を使い果たすような真似はするな。お前が過労で倒れて公爵家が回らなくなっては、元も子もないからな。適度に手を抜くことも、当主の『義務』だぞ」
キアラの言葉に、フローリスはぽかんと口を開けた。
(同盟? 完璧な夫を演じる? 義務?)
フローリスの天才的な頭脳が、愛する妻の言葉の真意を読み解こうとフル回転する。そして数秒後、彼は「あははっ!」と明るい声を上げて笑い出した。
(そっか! キアラちゃんは照れ隠しで、わざとあんな政治的な言い回しをしてるんだ! 本当は俺のことが心配でたまらなくて、一晩中泣きそうになりながら手を握っててくれたのに。素直になれないから『義務だから』なんて可愛い嘘をついてるんだね!)
フローリスの脳内では、キアラの言葉をすべて「愛の裏返し」と変換する『超解釈フィルター』が見事に作動していた。
「うん、わかったよキアラちゃん! 俺、もう無理しない! だって俺が倒れたら、キアラちゃんを悲しませちゃうもんね!」
「……まあ、私が迷惑を被るのは事実だからな」
「あはは! 素直じゃないなぁ、もうっ! キアラちゃん大好き! キアラちゃん成分、フル充電っ!!」
ガバッ!とベッドから跳ね起きたフローリスは、そのままの勢いでキアラに抱きつき、その頬にすりすりと顔を擦り寄せた。
「うわっ、こら! 病み上がりがいきなり動くな! 暑苦しい!!」
「えへへ〜、キアラちゃんの匂いだぁ。俺、もう仕事は側近に七割押し付けることにする! これからはもっとキアラちゃんと一緒にいるね!」
「違う、そうじゃない! なぜ極端から極端に走るのだお前は!」
朝から元気にジタバタと暴れる二人。フローリスの心は、過労で倒れたことなど吹き飛ぶほどの幸福感で満たされていた。
* * *
それから数日後。
王宮で開催される『建国記念祭の夜会』の当日。フローリスは浮き立つような足取りで、ヴェイン公爵邸の廊下を歩いていた。
純白の礼装に、サファイアのブローチ。自分の身嗜みなど魔法で一瞬で整えた彼の頭の中は、今から目にするであろう愛しい妻のドレス姿のことでいっぱいだった。
(キアラちゃん、今日はどんな顔をしてるかな。フリルの多いドレスは動きにくいっていつも嫌がるけど、俺のために我慢して着てくれるんだから、本当に健気で可愛いよなぁ……)
胸を高鳴らせてキアラの自室の扉をノックし、中へ入った瞬間。
フローリスは、その場にピタリと立ち止まり、ほうっと熱い吐息を漏라した。
「……キアラ、ちゃん」
姿見の前に立つ彼女は、夜空のように深い群青色の豪奢なドレスに身を包んでいた。艶やかな茶色の髪は美しく結い上げられ、ヴェイン家伝来のサファイアのネックレスが、彼女の白い肌の上で眩く輝いている。普段の凛とした佇まいに、息を呑むような艶やかさが加わっていた。
「どうだ? 変ではないだろうか。このドレス、少しフリルが多すぎる気がするのだが……」
少し眉を寄せ、不安そうに尋ねてくるキアラ。その可憐な表情を見た瞬間、フローリスの内側で、どす黒いほどの独占欲がボワッと燃え上がった。
(変なわけない。すっごく綺麗だ。美しすぎて……なんだか俺、腹が立ってきた)
フローリスはツカツカと歩み寄ると、背後からキアラの細い腰に腕を回し、その白い肩に顎を乗せた。鏡越しに映る自分の黄金色の瞳が、ギラギラとした光を放っているのがわかる。
「こんなに綺麗なキアラちゃんを、他の男たちに見せなきゃいけないなんて……。今すぐこのドレスを脱がせて、ベッドに引きずり込んで、夜会なんてサボっちゃいたい」
「バ、バカなことを言うな! 王家主催の夜会を欠席などできるわけがないだろう!」
顔を真っ赤にして腕から抜け出すキアラ。彼女はキリッとした表情を作り、扇を広げて口元を隠すと、毅然とした声で告げた。
「安心なさい、フローリス様。わたくし、ヴェイン公爵夫人として、決してあなたの顔に泥を塗るような真似はいたしませんわ」
(——ああ、なんて愛おしいんだろう)
フローリスは心底感動していた。本当は窮屈なドレスも嫌いなはずなのに、彼女は「俺の妻としての立場」を第一に考え、俺の顔を立てるために、こんなにも気丈に振る舞ってくれているのだ。
「……うん? よくわかんないけど、俺のそばから絶対離れないでね」
フローリスは嬉しくてたまらないというように、満面の笑みで頷いた。
* * *
王宮のシャンデリアが眩く輝く大広間。
音楽とざわめきが交差する中、ヴェイン公爵夫妻が姿を現すと、会場の視線が一斉に二人へと集まった。周囲の貴族たちがヒソヒソと噂する中、フローリスはキアラの腰にぴったりと腕を回し、完璧な笑顔を貼り付けながらも、周囲に対して強力な威圧感を放ち続けていた。
(ほら、見ろ。これが俺の世界一美しくて可愛い妻だ。でも、五メートル以内に近づいた男は、その日のうちに一族もろとも社会的に抹殺するからな)
キアラに挨拶に来ようとする若い男がいれば、フローリスは笑顔のまま絶対零度の殺気を込めた視線を放ち、片っ端から引き返させていく。俺の可愛いお姫様は、こんな薄汚い貴族たちの視線に晒されるだけでも疲れてしまうのだ。俺が完璧にガードしてやらなければ。
延々と続く挨拶を躱し続けていた頃、ふと、隣のキアラが小さなため息をついた。
「フローリス様。わたくし、少し夜風に当たってまいりますわ」
「えっ? 俺も行くよ」
「いいえ、あなたはあちらで大臣閣下がお呼びですわ。すぐに戻りますから、ご歓談なさってきて」
キアラはそう言うと、フローリスが止める間もなく、大広間の端にあるバルコニーへと足早に抜け出してしまった。
(ああっ、キアラちゃんが一人に! 大臣なんてどうでもいい、早く追いかけなきゃ……)
フローリスは焦りながらも、近づいてきた大臣に無難な愛想笑いを向け、光の速度で会話を終わらせるための魔法的な思考をフル回転させ始めた。
それからわずか数分後。大臣を適当にあしらって大広間を抜け出したフローリスが、バルコニーへと続く廊下に出た、その時だった。
『グルルルゥゥ……ッ!!』
背筋が凍るような、重く低い獣の唸り声が、夜の庭園の方角から響き渡った。
(なっ……この魔力反応は、魔法生物研究所で飼育されていたキメラ!? なぜこんなところに!)
フローリスの血の気が引いた。声がしたのは、キアラが出たバルコニーのすぐ真下だ。
(キアラちゃん……っ!!)
フローリスは風の魔法で自らの肉体を強化し、扉を蹴り開けるようにしてバルコニーへと飛び出した。そこでフローリスが目にしたのは、彼の心臓を恐怖で鷲掴みにする光景だった。
月明かりに照らされた庭園には、巨大な二角の魔獣が赤い目をギラギラと光らせ、バルコニーを見上げていた。
そしてバルコニーの縁では、キアラが手すりに足をかけ、ドレスの裾を大きくたくし上げているではないか。
フローリスの『愛妻フィルター』を通した天才的な頭脳は、その状況を一瞬でこう解釈した。
(ああっ、なんてことだ! キアラちゃん、突然の魔獣の出現にパニックを起こして、逃げ場を失って手すりに追いつめられている! 恐怖で足がすくんで、すがるようにドレスを握りしめたまま、今にも手すりから庭園へ転げ落ちてしまいそうだ!!)
魔獣が跳躍しようと後ろ足に力を込めたのが見えた。
「キアラちゃん、見ちゃダメだ!!」
フローリスは絶叫と共に無詠唱で風の魔法を放ち、手すりから身を乗り出していたキアラの体を強引に引き戻すと、自分の胸の中にすっぽりと閉じ込めた。
「俺の妻に近付くなァッ!!」
フローリスの黄金色の瞳が、かつてないほどの激しい怒りに染まった。片手を庭園に向けて振るう。
次の瞬間、空気が凍てつくような轟音と共に、天空から無数の『光の槍』が降り注いだ。一切の慈悲も手加減もない、超高位の殲滅魔法。光の槍は、逃げ出した巨大な魔獣を文字通り一瞬にして縫い留め、血一滴流させることなく、その体を完全に光の粒子へと分解し、世界から消滅させた。
静寂が戻ったバルコニーで、フローリスは腕の中の小さな体を力いっぱい抱きしめた。心臓は、恐怖と安堵で早鐘のように打ち鳴らされている。
「キ、キアラちゃん!? 大丈夫!? ケガはない!? 怖かったよね、ごめんね、俺が目を離したばっかりに……っ!」
半泣きになりながら、フローリスはキアラの顔を覗き込み、その体をペタペタと触って安否を確認した。もし自分が一秒でも遅ければ、この世界で一番愛しい存在が、あの化け物に傷つけられていたかもしれないのだ。そう想像しただけで、フローリスの全身から血の気が引いていく。
腕の中にいるキアラは、呆然と目を丸くしていたが、やがて何かをスッとドレスの影に隠すような素振りをし、ゴクリと息を飲んだ。
(ああ、まだ恐怖で震えているんだ……。無理もない、あんな恐ろしい化け物を目の前にしたんだから)
フローリスが胸を痛めていると、キアラはスッと姿勢を正し、いつもの完璧なお淑やかな微笑みを浮かべて見せた。
「フローリス様……」
キアラは、まるで聖女のように美しい笑みで、フローリスを見つめ返した。
「助けていただき、ありがとうございます。あなたのおかげで、わたくし……『大事なもの』を失わずに済みましたわ」
その言葉聞いた瞬間、フローリスの胸に、言葉にならないほどの熱い感情が込み上げてきた。
(キアラちゃん……! 恐怖で足がすくんでいたはずなのに、俺を安心させるために、こんなに気丈に微笑んで……っ! 『大事なもの』……つまり、彼女の命、そして俺との未来を失わずに済んだと言ってくれているんだ!)
なんて強くて、美しくて、愛おしい妻なのだろう。
フローリスは、震えそうになる自分の声を必死に抑え込み、力強く宣言した。
「当たり前だよ! 俺はキアラちゃんを守るためなら、世界中を敵に回したっていい! 君を傷つけるものは、俺が全部消し去ってあげるから!」
俺の命に代えても、絶対に君を守り抜く。フローリスが魂からの誓いを込めてそう叫ぶと、キアラは深く納得したように、ゆっくりと頷いてくれた。
バルコニーの騒ぎを聞きつけ、大広間から貴族たちが続々と駆けつけてくる。
魔獣の痕跡一つ残っていない庭園と、バルコニーで固く抱きしめ合うヴェイン公爵夫妻の姿を見て、彼らは「ああ、ヴェイン公爵は奥様を庇って魔獣を退治されたのだ」「なんて情熱的な愛なのだ」と、うっとりとしたため息を漏らしていた。
「さあ、戻ろうキアラちゃん。もうこんな物騒な夜会はおしまい! 邸に帰って、二人きりでゆっくりしよう!」
「ええ、そうね。あなたがそう言うなら、従いますわ」
愛する妻を命がけで守り抜いたという圧倒的な達成感と、彼女からの全幅の信頼を得て、フローリスは完全に有頂天になっていた。
手すりから身を乗り出していたキアラが、実は太ももに仕込んだ短剣を抜き放ち、上空からの急降下物理攻撃でキメラの脳天をカチ割ろうとしていた『戦闘態勢』であったことなど、フローリスの天才的な頭脳をもってしても、一生気づくことはないだろう。
夜空の下、愛妻家(物理殲滅級)の夫に大切にエスコートされながら歩くキアラの横顔を、フローリスはどこまでも甘く、蕩けるような瞳で見つめ続けていた。
風邪引いたフローリスいかがだったでしょうか?
2人の距離が近づいた気もします♪
次は明日の20時に投稿予定です!




