第16話:どこにも行かないで
王都で最も格式高い劇場の、華やかな大廊下。
観劇の休憩時間、周囲の貴族たちがヴェイン公爵夫妻の絵に描いたような仲睦まじい姿にため息をついていた、まさにその時だった。
いつでもどこでも異常なまでのテンションでキアラにまとわりつき、「キアラちゃん可愛い!」「キアラちゃん好き!」と四六時中愛を叫び続けていた底抜けに明るい夫・フローリス。
その彼と繋いでいた手からふっと力が抜けたかと思うと、フローリスの体が糸の切れた操り人形のように、突如として廊下の絨毯の上へと崩れ落ちたのである。
「フローリス様!?」
「ヴェイン公爵閣下がお倒れになったぞ! すぐに馬車を!」
「だ、誰か医者を呼べ!」
周囲の貴族や劇場のスタッフ、側近たちがパニックに陥る中、キアラは一人冷静だった。
倒れゆくフローリスの体を咄嗟に支えた彼女は、周囲の者たちが駆け寄るよりも早く、その華奢な腕で(日頃の素振りで鍛え上げられた密かな筋力をフル稼働させて)ひょいっとフローリスを抱え上げたのだ。
「えっ、奥様……? 公爵閣下を、お一人で……?」
驚愕で目を剥く貴族たちに対し、キアラは完璧な淑女の微笑みを貼り付けたまま告げた。
「わたくしはヴェイン公爵夫人です。愛する夫の不測の事態に、取り乱すようなはしたない真似はいたしませんわ」
周囲が呆然とする中、キアラは内心で(うおおおお重い! だがここで落としたら公爵夫人の面子が潰れるし、彼が床に頭を打ってしまう!)と必死に気合を入れ、フローリスを抱き抱えたまま優雅な足取りで待機させていた馬車へと乗り込み、大急ぎでヴェイン公爵邸へと帰還したのである。
邸に到着するや否や、キアラは「おい、騒ぐな! 私が運ぶから道を開けろ!」「いいから早くベッドの用意をしろ!」と、使用人たちの前ではいつものガサツな本性を隠すことなく指示を飛ばし、自らの手でフローリスを寝室の大きなベッドへと運び込んだ。
* * *
駆けつけた王宮専属の医師の診断は、『極度の過労と魔力枯渇による発熱』であった。
「過労……? 魔力枯渇だと?」
ベッドで荒い息を吐きながら眠る夫を見下ろし、キアラは腕を組んで首を傾げた。
フローリスは毎日、キアラのそばにべったりと張り付いてお茶を飲んだり、街へ買い物に行ったりと、遊んでばかりいるように見えたからだ。
すると、控え室にいたフローリスの筆頭側近が、重い口を開いた。
「……奥様。実は旦那様は、日中奥様と過ごす時間や、本日のような観劇の予定を作るために、奥様がお休みになられた深夜から明け方にかけて、領地中の魔力インフラの調整と一ヶ月分の書類の決裁を、ご自身の魔力を極限まで酷使してすべて一人で処理なさっていたのです」
「なんだと……っ!?」
「我々が何度お止めしても、『キアラちゃんと一秒でも長く一緒にいるための努力だから!』と聞く耳を持たれず……。さすがの旦那様でも、不眠不休で膨大な魔力を放出し続ければ、倒れるのも無理はありません」
側近の言葉に、キアラは絶句した。
(この男……そこまでして、『妻を愛する完璧な夫』という役割を演じていたというのか!?)
キアラの脳内では、相変わらず強固な『義務感フィルター』が作動していた。
政略結婚の体面を保つためとはいえ、日中は妻のご機嫌取りに全力を注ぎ、夜は寝る間も惜しんで公爵としての激務をこなす。それはあまりにもプロ意識が高すぎる、狂気じみた『義務の遂行』であった。
(バカなやつだ。そこまで無理をして、倒れてしまっては本末転倒ではないか。……だが、彼がそこまでヴェイン公爵家と我がモーランド公爵家の結びつきを重んじているというのなら、私も妻としての『義務』を果たさねばなるまい)
キアラは振り返り、心配そうに様子を伺う使用人たちに向かってキッパリと告げた。
「お前たちはもう下がっていいぞ。フローリスの看病は私がやる」
「しかし、奥様のお手を煩わせるわけには……」
「いいんだ。妻である私が看るのが筋だろう」
キアラが男前に言い放つと、使用人たちはホッとしたような顔で深く一礼し、寝室から退出していった。
静寂に包まれた寝室。
キアラはベッドの傍らに椅子を引き寄せ、水の入った洗面器とタオルを用意した。
タオルを水に浸し、きつく絞る。
「ふんっ!」
(おっと、いけない。つい力が入りすぎてタオルを引きちぎるところだった)
ガサツな本性が出そうになるのを慌てて抑え込みながら、キアラは丁寧に折りたたんだ冷たいタオルを、熱で赤く染まったフローリスの額にそっと乗せた。
「……んんっ……」
冷たい感触に、フローリスが苦しそうに眉をひそめる。
いつもなら綺麗にセットされている金色の髪は汗で額に張り付き、余裕たっぷりに弧を描く薄い唇は、今は血の気を失って小さく震えていた。
「はぁ……はぁ……」
苦しげな呼吸音が、静かな部屋に響く。
その無防備で弱り切った姿は、普段の「ヘラヘラとした余裕のある遊び人」の面影など微塵もなかった。
(……こうして静かに寝ていると、本当に見目麗しい男だな)
キアラは無意識のうちに、フローリスの頬にかかった金糸のような髪を指先でそっと梳いていた。
政略結婚の道具として押し付けられた夫。傲慢で、見栄っ張りで、体面のために自分を縛り付ける男。そう思っていたはずなのに、彼のこの弱々しい姿を見ていると、なぜか胸の奥がチクチクと痛むのだ。
「おいフローリス、早く良くなれよ。お前がいないと、邸が静かすぎてどうにも調子が狂う」
誰に聞かせるわけでもない、小さな独り言。
キアラが手を引っ込めようとした、その時だった。
「……っ」
不意に、シーツの下から伸びてきた熱い手が、キアラの手首をガシッと掴んだ。
「おわっ!? フローリス?」
キアラが驚いて見下ろすと、フローリスの黄金色の瞳が、うっすらと開いていた。
しかし、その瞳の焦点は定まっておらず、熱に浮かされたように虚ろに揺らいでいる。
「……だめ……」
フローリスの口から、かすれ、震える声が漏れた。
「え? なんだって?」
「行かないで……っ、置いて、いかないでよ……っ」
フローリスはキアラの手を両手で包み込むように強く握りしめ、まるで迷子になった子供のように縋り付いてきた。
その瞳には、普段の彼からは想像もつかないほどの『恐怖』と『焦燥』が色濃く浮かんでいた。
「ちょ、おいフローリス? 私はここだぞ。どこにも行かないから、落ち着けって……」
「やだ……やだ……っ。キアラちゃん、いなくならないで……っ」
「……!」
自分の名前を呼ばれ、キアラは大きく目を見開いた。
「俺、キアラちゃんがいないと……生きていけないんだ……。お願いだから、俺の前から消えないで……っ、見捨てないで……っ」
「フローリス……」
熱で真っ赤に染まった顔。潤んだ瞳から、今にも零れ落ちそうな涙。
彼は本気で、キアラがどこかへ行ってしまうことを心の底から恐れていた。
「可愛いね」「愛してるよ」とヘラヘラ笑いながら言ういつもの軽薄な言葉とは違う。魂を削るような、必死で無防備な本音が、そこにはあった。
ドクン、ドクン、ドクン。
キアラの胸の奥で、心臓がかつてないほどの早鐘を打ち始めた。
(な、なんだこの感情は。こんなに弱りきって、私にすがってくるなんて……。まるで、本当に私のことを……っ)
危うく『彼が本気で私を愛しているのでは』という真実に辿り着きそうになったその瞬間。
キアラの優秀な頭脳が、猛烈な勢いで働き始めた。
(……待てよ? なぜ彼は、熱でうなされながらここまで必死に私を引き留めるのだ?)
キアラはフローリスの震える手を見つめながら、冷静に(見当違いな)分析を始める。
(彼は、自分の魔力を限界まで使い果たして倒れるほどに、私との結婚生活……つまり『ヴェイン家とモーランド家の同盟』を維持することに心血を注いでいる。それなのに、熱に浮かされた彼の脳裏をよぎったのは、『私が彼を見捨てて出て行く』という最悪のシナリオ……!)
カチリ、とキアラの脳内でパズルが完璧な形に組み上がった。
(なるほど……! 彼は、私がいつかこの窮屈な『義務の結婚』に耐えかねて、実家に逃げ帰ってしまうのではないかと恐れているのだ! もし私がヴェイン家を見限れば、二大公爵家の同盟は破綻し、彼は当主としての責任を厳しく追及される。だから彼は、悪夢を見るほどに『私(という政治的要の存在)がいなくなること』を恐れ、プレッシャーに苛まれているんだな!)
なんという責任感。なんという公爵としての重圧。
キアラは、フローリスのあまりにも不器用で必死な「義務感」に、深い感銘と少しの哀れみを覚えた。
(昔の女の夢でも見ているのかと一瞬疑ったが、彼は本当に、この結婚を回すことに必死なんだな……。ここまで我が身を犠牲にしてヴェイン家を守ろうとしている彼を、どうして見捨てることができようか!)
完全に勘違いの方向へとフルスロットルで駆け抜けたキアラは、母性にも似た慈愛に満ちた表情を浮かべると、フローリスの熱い頬を両手で優しく包み込んだ。
「大丈夫だ、フローリス」
「キアラ、ちゃん……?」
熱で潤んだ瞳が、すがるようにキアラを見つめる。
キアラは、彼を安心させるために、そして妻としての『完璧なビジネスパートナー』であると証明するために、はっきりと力強く告げた。
「私は、どこへも行かないぞ。お前の妻として、この邸にずっと留まり、お前を支え続けると誓おう。……私が、お前の築いたものを壊すような真似は、絶対にしない。だから、安心して眠れ」
(=私は絶対に実家に逃げ帰って同盟を破綻させたりしないから、安心して職務を全うしろ!)
その言葉は、キアラの意図とは全く違う意味で、フローリスの心にこの上ない救済として響き渡った。
「……ほんと? ずっと、俺のそばにいてくれる……?」
「ああ、約束する。このモーランドの血にかけてな」
キアラが力強く微笑みかけると、フローリスの強張っていた表情から、すっと力が抜けた。
彼の瞳からポロリと一粒の涙がこぼれ落ち、それがシーツに吸い込まれる。
「……よかった……。キアラちゃん、大好き……」
安堵の笑みを浮かべたフローリスは、キアラの手をギュッと握りしめたまま、今度こそ穏やかな寝息を立て始めた。
彼が完全に眠りに落ちたことを確認し、キアラは「ふぅ」と深く息を吐き出した。
握られたままの自分の手と、彼の穏やかな寝顔を交互に見つめる。
「まったく、人騒がせな男だ。そこまでプレッシャーを感じているなら、最初からそう言えばいいものを」
キアラは呆れたように呟きながらも、自分の頬が熱を帯びていることには気付かないふりをした。
彼が必死に自分に縋り付いてきた時の、あの泣きそうな顔。
『義務感からの恐れ』だと完璧に論破したはずなのに、どうしてこんなにも、胸の奥が甘く疼くのだろうか。
「……熱が移ったのかもしれないな。早く治してくれないと、こっちまで調子が狂ってしまうぞ」
キアラは赤くなった顔を誤魔化すようにそっぽを向きながら、彼が目覚めるまで、その手を一度も離すことはなかった。
本音をさらけ出し、無防備に愛を乞うた夫と。
それを「重すぎる義務感へのプレッシャー」だと受け取りながらも、着実に心を絆されていく妻。
熱がもたらした小さな奇跡の夜は、二人の距離を(すれ違ったまま)また一歩、確実に見えない糸で強く結びつけたのであった。
明日も20時更新です!




